可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ザ・タワー』

映画『ザ・タワー』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のフランス映画。
89分。
監督・脚本は、ギョーム・ニクルー。
撮影は、クリストフ・オフェンシュタイン(Christophe Offenstein)。
装飾は、オリヴィエ・ラドット(Olivier Radot)。
衣装は、アナイス・ロマンド(Anaïs Romand)。
編集は、ギィ・ルコルン(Guy Lecorne)。
音楽は、ティム・ヘッカー(Tim Hecker)。
原題は、"La tour"。

展覧会 須田日菜子個展『噛み合わない会話』

展覧会『須田日菜子「噛み合わない会話」』を鑑賞しての備忘録
KATSUYA SUSUKI GALLERYにて、2024年4月6日~21日。

スプレーを用いて限られた数の線で身体を描き出した「Discordant conversation」シリーズを中心とする、須田日菜子の個展。

《hip to face》(1940mm×1620mm)は、左腕を頭上に挙げ、右肘を曲げて右手を前に突き出す人物の後ろ姿を、スプレーで吹き付けた黒い線で表わした作品である。緩やかな円弧2つで両肩を、その間に"∩"で頭部を、その右側の直線に接するように小さな円弧を縦に2つ並べて眼と口とを、その左に配した円弧で耳を表現しているように、限られた数の線による戯画的な作品である。スプレーによりぼやけた部分が墨の線を連想させることと相俟って、ユーモラスな画面は仙厓義梵の禅画に通じると言えよう。大画面から切れた左の拳、右手、両脚などによって、その身体が画面から食み出す形になり、躍動感を生じさせている。画面上端の中央近くに振り上げた左の拳からは顔にかけて縦一直線に青い点が滴る。意識して描き入れられたものではあるが、陶芸における釉による景色同様の効果となっている。
「Discordant conversation」シリーズに描かれるのも略画的な人物である。とりわけ《Discordant conversation 15》(410mm×318mm)に描かれた星を見る人が《hip to face》の人物に近しい。オレンジの輪郭の身体はクリーム色で塗りこめてある。首元と右脇から青い線が流れ落ちる。左の拳が青く塗られ、ピンクの絵具がチューブから押し出したように置かれている。画面の左上にはオレンジの描線で星が描かれ、レモン色で輝きが表現される。星を眺める人は、星と対話するのだろう。
《Discordant conversation 5》(410mm×318mm)には白やオレンジを配した背景にオレンジの線で首だけを欠いた全身が描かれる。その画面全体に、円の頭部に円弧3つで眼と口を表わした人物の顔、および肩と胸の線とが黒のスプレーでグラフィティのように重ねられる。黒いスプレーの人物は、オレンジの人物から幽体となって浮かび上がるが如くである。

 チョムスキーの、言語はコミュニケーションの手段ではないという考え方は、偶然発生してしまった自己という考え方の裏面である。まずコミュニケーションが降って湧いて、そこから私という現象が発生したのだ。ほとんど、そういう考え方に接近しているのである。これをキルケゴール流に、あるいはヘーゲル流に言い換えれば、まず関係があって、その関係から自己が生まれたということになる。
 (略)
 つまり、母が、さらにたとえば子の頬の歪みを模倣し、模倣そのものが快楽であることを知って、子にさらに模倣を促すようになった瞬間、この頬の歪みが微笑という意味へと転じるということである。いうまでもなく、ここで重要なのは、子の頬の歪みは意識したものでも意図したものでもない、いわば偶然に生じたものにすぎないということだ。だが、それが母によって模倣された瞬間、少なくとも母の側には微笑として意識されたのである。母が子にその反復を促すのは、自身が意識したそのことを子にも意識させようとすることなのだ。そしてそれが子にも意識されるようになるということは、両者の立場が入れ替え可能であることが意識されることと同じなのである。
 子は、母から見られた自分が自分であることを受け入れることによって自己になるわけだが、この自己を自己とする目は――はじめは手がかりとして母の眼の位置にあるにせよ――そのとき中空にあるとでもいうほかない。そしてじつは、この宙空にあって俯瞰している眼のほうが自己なるものにほかならないのだ。だからこそ、自己にとっては自己の身体があたかも外部から与えられたもののように見えてしまうのである。宙空に位置する眼という言い方は奇矯に響くかもしれないが、これは視覚の本質、距離の本質にかかわることであって、後に問題にする。
 いずれによせ、明瞭になってくるのは、人間の身体はじつは自己などというものではまったくないということだ。
 (略)
 ほんとうは、身体が外部なのではない。自己という現象のほうが外部なのだ。にもかかわらず、人間は逆に考えるのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.112-114)

《Discordant conversation 5》が描き出すのは、オレンジの「身体」と黒い「自己」とであり、延いては「自己という外部」ではなかろうか。

 (略)自己意識とは自分で自分を見ることだが、自分を見ることは自分を支配すること、自分を奴隷にすることの端緒である。言葉はこの自己意識の働きを対象化する。いわば自己意識を眼に見えるものにするのである。この経緯にすでに俯瞰する眼が介在しているといっていい。言葉の場所と俯瞰する眼の場所は重なりあっているのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.247)

画面一杯に黒のスプレーで人物の上半身を描いた《Discordant conversation 4》(410mm×318mm)や《Discordant conversation 4》(410mm×318mm)は、《Discordant conversation 5》における「自己」と捉えることができる。スプレーの模糊とした線が身体からの遊離を感じさせるからだ。それでは何故《Discordant conversation 5》におけるオレンジの「身体」は頭部を欠いているのだろうか。それは「斬首」という死のメタファーを描き入れるためではないか。

 言語革命が人間にもたらした最大のものは、死の領域、死者たちの広大な領域である。このいわば正の領域に対する負の領域は、とりあえずは俯瞰する眼の必然として、あたかもその俯瞰する眼を補完するかのように姿を現わしたといっていい。(略)
 視野の向う、すなわち地平線の、水平線の向こうには何があるか、という問いは、俯瞰する眼にとってはきわめて自然だったろう。同時に、騙されないように細心の注意を払って行われる狩猟や採集の時間が、俯瞰する眼によって――いやそれ以上に視覚が必要とする距離すなわち思考によって――空間化つまり図式化されるのは必然であり、その図式が無限に延長されるのもまた必然である。要するに昨日があり明日があることは、変化を感知する能力にとって、自明のことにならなければならなかった。人間が日を刻み、年を刻みはじめた段階で、歴史はすでに始まっているのだ。(略)
 人が現世と来世、この世とあの世を考えるのは、俯瞰する眼にとても、視覚が必要とする距離の内実としてに思考にとっても、不可避だっただろう。(略)
 思考の領域が行動の領域から自立することと、記憶の領域が自立することとは表裏である。記憶は思考の素材であり、図式化されるべきものの筆頭である。あの世の体系化は、この世の体系化にこそ役立ったのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.479-480)

《Discordant conversation 12》(530mm×455mm)の黒い画面には中央付近に波のような線が横断する。それは三途の川であろう。両腕を挙げた人物はそれを越えて飛んいく(人物には地に着けるべき足が存在しない)。彼岸に、冥府に向かったのだ。黒い画面の中に白やモスグリーンで浮かび上がる人物を描く《Discordant conversation 1》(410mm×318mm)は冥府に立つ人物を、やはり黒背景に白い輪郭線で表わされた人物《Discordant conversation 13》(410mm×318mm)は彼岸から此岸への帰還を表現するようである。

 言語革命は死後を発明しただけではない。
 この世をあの世に変えたのである。
 出生した赤子に名を与えることはこのように位置づけることだが、名は生命とともに消えるわけではない。名はすでになかばこの世を超えているのである。与えられた名を生きることは生きながらにして死の世界に足を踏み入れることであり、墓を築くことは死者の名をなおこの世にとどめ、大なり小なりそれがこの世を支配することを許すことなのだ。(略)人間は死者に立ち混じって生きること、死者を生かし続ける術を発明したのである。(略)
 人は生きるために死という広大な領域を発明し、そのなかに立ち入ったのである。
 人間は生と死を転倒させたといっていいが、そのようにして初めて生を意識しえたのだ。(略)
 人間の表現行為はすべて、基本的に死にかかわっている。
 あの世の視点に立ってこの世を生きることになったからである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.480-481)

言語で行われる以上、会話が完全に噛み合うことはない。なぜなら言語である自己は常に身体との距離を前提としているからである。言語である自己と身体との距離がゼロになり、自己と身体とが一致するとき、それは死を迎える時である。会話が噛み合わないのは、生きているからである。「噛み合わない会話」とは、生きることそのものである。

展覧会 林銘君個展『霧』

展覧会『林銘君展「霧」』を鑑賞しての備忘録
新生堂にて、2024年4月4日~19日。

円で抽象的に表わされた殻を持つカタツムリと衝立・屏風あるいは額縁をモティーフとした墨絵で構成される、林銘君の個展。

表題作《霧》(600mm×2730mm)は、それぞれに、暗い空間内に、霧の中に葉の繁る樹木が姿を見せる衝立と黒い円で抽象的に表わされた殻を持つカタツムリとを描いた横長の画面(600mm×910mm)を3つ横に並べて構成した作品である。右の画面には、いずれも画面左下方向に向いた衝立が9枚、不均衡な間隔でずらして置かれている。いずれの衝立も2本の足で支えられ、樹木の繁った葉が画面下側に描かれている。衝立の足の傍らには、黒い円だけで表わした殻を持つカタツムリが8匹ほど散らばる。中央の画面には4枚の衝立が向きもばらばらに4枚、カタツムリが4匹(2つの黒い円も数に入れれば6匹)、左の画面には向きを違えた3枚の衝立と5匹のカタツムリが描かれる。右と中央の画面とに跨がる形でもう1枚の衝立が描かれる。右から左へ、衝立とカタツムリの数が減り、その分画面に占める暗い空間の比率が高まる。それに加え、衝立に描かれた樹影も右から左へ次第に濃くなる霧により姿を消していく。衝立とカタツムリ以外に何もない空間は暗い。光源もない。そのために衝立の画面が液晶ディスプレイの如く発光しているように感じられる。何より作品を独特なものにするのは、黒い円で表わされたカタツムリの殻である。黒い円には陰影・濃淡もなく平面的で、球でもない。触覚や足などの詳細に描かれる軟体に比して、その幾何学的抽象性が目を引く。なぜカタツムリの殻は黒い円として表わされたのであろうか。

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の『リチャード二世(Richard Ⅱ)』の第2幕第2場冒頭では、遠征に出た王に凶事が起こるに違いないとの不安に悩まされる王妃を王の僕ブッシーが慰める。

(略)歪像anamorphosisの隠喩を用いて、ブッシーは王妃に、彼女の悲しみには根拠がなく、なんの理由もないことを納得させようとする。だが重要な点は、彼の隠喩が分裂して二重になっている、つまりブッシー自身が矛盾に陥っていることである。彼は最初(「悲しみの目は涙に曇っておりますので、1つのものがいくつにも分かれて見えるのでございます」)、「本質的な」物そのもの、すなわち実物と、その「影」、つまりわれわれの眼に映った反映、不安や悲しみによって増幅された主観的印象という、単純で常識的な区別を持ち出す。不安があるときは、ちょっとした問題がたいへんなことのように思われ、物事が実際よりもはるかに悪く見えるものだ。ここではそうしたことが、物がいくつも映って見えるようにカットされたグラスの表現に譬えられている。われわれの目に見えるのは、小さな実体ではなく、その「20もの影」なのだ。ところが、それに続く部分では事態が複雑になる。表面的には、シェイクスピアが、「悲しみの目は……1つのものがいくつにも分かれて見える」という事実を、絵画の分野から借りてきた隠喩(「正面から見ると何1つ見えないのに、斜めから見るとはっきり形が見える
あの透視画法と同じです」)で例証しているかのようにみえるが、じつはシェイクスピアはここで領域を根本から変化させている。つまり、カットグラスの表面という隠喩から歪像という隠喩に移行している。この2つの隠喩の論理はまるで異なる。「正面から見る」、つまりまっすぐな視線で見るとぼんやりした染みに見えるある絵画の細部が、「斜めから」、つまりある一定の角度から見ると、はっきりとした形に見えてくるのである。したがって、王妃の不安と悲しみにこの隠喩をあてはめている台詞はきわめてアンビヴァレントである。したがって、王妃の不安と悲しみにこの隠喩をあてはめている台詞はきわめてアンビヴァレントである――「お妃様もそれと同じように、王様のご出立を斜めからごらんになっておられるために悲しみの幻がたくさん見えて、それでお嘆きになるのです。それは、あるがままにご覧になれば、ありもしないものの影にすぎません」。言い換えると、王妃の視線を歪んだ視線に譬えるこの隠喩を文字通りにとるならば、次のように言わねばならない――ぼんやりと混乱したものしか見えない「まっすぐな」視線とは対照的に、まさしく「斜めに見る」、つまりある一定の角度から見ることによって、王妃には物のはっきりと際立った形が見えるのである、と((略))。だが、もちろん、ブッシーはこのことが「言いたい」のではない。彼の意図はそれとは正反対である。ブッシーは気づかれないようにごまかしながら、第一の隠喩(カットグラスの表面)に戻り、次のようなことを「言おうと意図している」――悲しみと不安で目が曇っているので、王妃には心配の種が見えるのだが、もっと冷静によく見てみれば、心配することは何もないのだということがわかる、と。
 したがって、ここにあるのは2つの現実、2つの「実体」である。第1の隠喩のレベルに見出されるのは常識的な現実であり、それは「20の影をもった実体」として、つまりわれわれの主観的な視線によって20の反映に分裂している物として、要するに、われわれの主観的な視線によって歪められた実体的「現実」として、見られている。ある物をまっすぐに冷静に見れば、その「本当の姿」が見えるが、欲望と不安によって曇った目で見ると(「斜めから見ると」)ぼんやりと歪んだ像しか見えない。しかし、第2の隠喩のレベルでは、関係は正反対になる。ある物をまっすぐに、冷静に、偏見を捨てて、客観的に見ると、ぼんやりとした染みしか見えない。「ある角度から」、「関心をもって」、つまり欲望に支えられ、貫かれ、「歪められ」た視線で見たときにはじめて、はっきりとした形が見えてくる。このことは〈対象a〉、すなわち欲望の対象=原因の完璧な説明になっている。〈対象a〉とは、ある意味で、欲望によって仮定された対象である。つまり、〈対象a〉とは、欲望に「歪められた」視線によってしか見えない対象であり、「客観的」視線にとっては存在しない対象なのである。言い換えれば、〈対象a〉は、その定義からして、つねに歪んで知覚されるものであり、その「本質」であるこの歪曲を抜きにしていは存在しないのである。なぜなら〈対象a〉とは、まさにその歪曲の、つまり、欲望によっていわゆる「客観的現実」の中へと導入された混乱と錯綜の剰余の、具現化・物質化以上の何物でもないのである。〈対象a〉は客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。王妃がブッシーに向かってきわめて正確に述べているように、〈対象a〉とは、「私が悲しんでいる何か」であり、それは「虚しいもの」から生まれたのである。「何か」(欲望の対象=原因)がその「無」、その空無を具現化し、それにポジティヴな存在を与えるとき、欲望が「めざめる」。この「何か」とは歪んだ対象であり、「斜めから見る」ときにしか見えない純粋な見かけである。これこそまさに、「何物も無からは生まれない」という悪名高き金言が偽りであることを暴露する、欲望の論理である。欲望の動きにおいては、「何かが無から生まれる」のである。なるほど欲望の対象=原因は純粋な見かけsemblanceにすぎないが、それでも、われわれの「物質的」で「実際的」な生活や行為を調整している一連の結果すべての引き金を引くのはこの見かけなのである。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995/p.32-35)

タツムリの殻を表わす黒い円とは、無の象徴である。殻とは空(から)であった。その殻=空から出た軟体、とりわけ大触覚とその先に付いた目とは、欲望のメタファーに他ならない。その構造の相似形が、衝立の画面(screen)に描かれた、霧の中から姿を見せる樹木に繁る葉のイメージであり、何も無い薄暗い空間とそこに置かれた衝立(screen)である。カタツムリの殻と軟体、霧と樹冠、空間と衝立と、三重の入れ籠の構造を採用したのは、欲望を充足させる手段(貨幣)が欲望の対象となる資本主義の構造のアナロジーとしてであろう。円は日本や中国においては貨幣単位(円・圓[yen]あるいは圆・元[yuán])ではないか。《霧》を始めとした墨絵で作家が表わすのは、資本主義社会における欲望であり、その無限の連鎖なのである。

本 岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』

岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』(岩波新書〔新赤版1992〕/岩波書店/2023年)を読了しての備忘録

男性中心主義の教理を有するキリスト教にはかつて多様な性の有り様があったことを、中世からルネサンスにかけての土着ないし異端の絵画・彫刻を通じて示す。使徒ヨハネイスカリオテのユダ聖母マリアそれぞれとキリストとの関係を紹介する第Ⅰ部と、女性・母胎としてのキリストや、三位一体に両性を組み込む女性としての精霊、さらにはその聖母マリアとの繋がりを明らかにする第Ⅱ部の2部構成。口絵22点を始め図版多数。

目次
はじめに
第Ⅰ部 クィアなキリスト
 第1章 キリストとヨハネ
 第2章 イスカリオテのユダとキリスト
 第3章 マリアとキリスト
第Ⅱ部 交差するジェンダー
 第4章 もしもキリストが女性だったら
 第5章 「傷(ウルヌス)」、「子宮(ウルウァ)」、「乳首(ウベル)」
 第6章 「スピリット」とは何か
おわりに
参考文献

第1章「キリストとヨハネ」では、「最後の晩餐」に描かれるヨハネが女性的に表現されその性が曖昧にされているのみならず、キリストとの愛を巡りマグダラのマリアとライヴァル関係にあったとの語りが存在した。第2章「イスカリオテのユダとキリスト」では、、ユダがキリストにキスする姿が描かれる「キリストの捕縛」の絵画を中心に、キリストが肉体を神に引き渡す(十字架にかかる)べく裏切り者の役割を特にユダに担わせたキリストとの特別な関係が示される。第3章「マリアとキリスト」では、マリアがキリストの母であるのみならず教会に擬えられ、かつキリストが教会を花嫁と捉えた場合に花婿とされることから、マリアはキリストの妻であると解釈されたことが「聖母の被昇天」の図像で明らかにされる。第4章「もしもキリストが女性だったら」では、キリストは必ずしも男性である必要はないという想像力が、結婚を拒み十字架にかけられた女性ウィルゲフォルティスの伝承との混同を生じさせ、異性装のキリスト磔刑図が描かれたことが引き合いに出される。第5章「『傷(ウルヌス)』、『子宮(ウルウァ)』、『乳首(ウベル』」では、十字架上のキリストの脇腹の傷が女性器として描かれた作例を通じ、傷口=女性器を通じたキリストとの一体化の理想が証される。また、母乳が月経として排出されなかった血液であるとの当時の生理学的理解から、キリストに豊かな乳房を具えさせることで聖母マリアの役割をも担わせた珍しい図像が紹介される。第6章「『スピリット』とは何か」では、精霊(スピリット)を愛(カリタスという女性名詞)や知恵(ソフィア、ホクマーといった女性名詞)と捉えたことから、精霊を象徴する鳩に聖母マリアが伴う「三位一体」の図像が描かれたことが語られる。

 ユダヤ教キリスト教における最初の人間アダムもどこかこれ〔引用者註:2つの性が分離する前の完全な人間の形象としてのアンドロキュノスの神話〕に近いところがある。神が自分にかたどって創造したというアダム、そしてそのアダム(の肋骨)からイヴがつくられることになるわけだが、そうであるからにはアダムのうちにすでに女性が存在していたことになる。しかも神がその原型である以上、神もまた両性をあわせもつ存在である。こうした神やアダムの両性具有性もまた、グノーシス主義においては疑う余地のないこととされる。そこにはおそらくプラトン的な考え方もこだましている。
 あるいは、高名な宗教学者ミルチャ・エリアーデ(1907-86)も明らかにしたように、両性具有における反対の一致という深遠な理念は、ギリシア神話ユダヤキリスト教だけに限らず、およそあらゆる宗教に通底する文化横断的な神話の原型とみなすこともできるかもしれない(『悪魔と両性具有』)。(岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』岩波書店岩波新書〕/2023/p.166-167)

オクシモロン(oxymoron)は両立しない言葉を結び付けることによる意外さにはっとさせる効果を生む。オクシモロンをシェイクスピアが多用するのは、両立しないことの中にこそ真実があると考えているからだろう。「両性具有における反対の一致」の普遍性に通じる。

 キリスト教にはもともと「~でないもののように(ホース・メー)」という開かれた教訓がある。あまり聞きなれない言い回しかもしれないが、たとえば、男は男でないもののように、日本人は日本人でないもののように、考えたり行動したりできるということである。つまり、わたしたちが生きていくうえで求められているのは、自分とは異なったり反対だったりするような、さまざまな立場の他者の存在をいかに想像し尊重できるか、ということである。(岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』岩波書店岩波新書〕/2023/p.205)

キリスト教でないかのようなキリスト教の図像を通じて、想像力の可能性を詳らかにする好著である。

展覧会 飯田美穂・石井海音・黒宮菜菜三人展『The Three Graces』

展覧会『飯田美穂・石井海音・黒宮菜菜「The Three Graces」』を鑑賞しての備忘録
三越コンテンポラリーギャラリーにて、2024年4月3日~15日。

人々の「寝る」姿を描いた名画に取材した飯田美穂、大きな目を持つ少女をモティーフに映像を主題とする石井海音、蝋で固めた画面に描画する黒宮菜菜の3名の絵画を展観。

飯田美穂は人々の「寝る」姿を描いた名画を題材にした絵画のエッセンスを提示する。《Image, Louvre, Eugene Deveria》(608mm×725mm)は、ウジェーヌ・ドゥヴェリア(Eugène Devéria)の《Jeunes femmes assises》(1827)を単純化した作品。椅子に坐る女性が右肘で頭を支えて眠りに落ち、彼女の隣ではもう1人の女性がやはり椅子の背に凭れてまま眠っている。女性の顔は、2本の短い線による目と赤い点の口のみで、平安絵巻の引目鉤鼻よりいっそう簡素である。また、ドゥヴェリアの作品では鏡の蔭から若い紳士が女性の様子を窺っているが、飯田作品では男性は暗がりの中に表わされていない。他方で、絵画の額縁までも作品の中に描き出している。《Image, Henri Toulouse-Lautrec》(912mm×1166mm)の1点は、アンリ・ド・トゥールーズロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)の《Dans le lit》(1893)に基づく。ベッドで枕を並べて眠る2人の人物が布団から顔を出している。これと近しい主題・構図の作品が、2人の幼児が眠る、国立西洋美術館所蔵《眠る二人の子供》(1612-1613)に基づく《Image, Rubens》(457mm×532mm)である。両作品では寝具は眠る顔をトリミングするための装置となる。《Image, Louvre, Fragonard》(608mm×727mm)は、ベッドで女性が幼児のような天使に脱がされている場面を描いた、ジャン・オノレ・フラゴナール(Jean Honoré Fragonard)の《La Chemise enlevée》(1770)を金色の額縁ごと写し取ったもの。フラゴナールが女性の臀部から脚を浮かび上がらせるべく女性と天使の顔を影の中に落とし込んだのに対し、作家は光溢れる中、女性が天使を持ち上げてあやすようである。女性が作者や鑑賞者の視線の客体から、天使を見詰める主体へと反転している。《Image, Harunobu Suzuki》(726mm×910mm)は、鈴木春信の浮世絵版画(1768-1770)を下敷きにした作品で、春信からジュリアン・オピー(Julian Opie)に近付いている。春信は家具調度の幾何学的な線により、男女が坐って口付けを交わす口元に視線を誘っていたが、作家は頬を寄せ合う形に変更している。同題・同サイズの《Image, Henri Toulouse-Lautrec》(912mm×1166mm)のもう1点は、ロートレックの《Au lit le baiser》(1892-1893)に取材し、ベッドで抱き合い口付けを交わす男女を描く。淡い色彩であっさりと描かれた上に、滲みや垂れるなどもあり、エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の水彩画のような風情である。上記作品はいずれも油彩作品だが、《Untitled, mirror》(312mm×225mm)は紙の作品。喜多川歌麿の「ねがひの糸ぐち」シリーズの1点の一部に基づく。鏡とそこに映った女性の右足だけをトリミングしつつ、黄とピンクのトレーシングペーパーを重ねて貼ることでまぐわう男女を抽象的に表現している。

石井海音の絵画には、顎から頬にかけて緩やかな円弧を描く線に、下に凸の二次曲線の頂点がほとんど接するような縦長の大きなな目を持つ漫画キャラクターのような少女が登場する。《スクリーン》(325mm×440mm)には、粉雪の舞う中、紫のハイネックのセーターを着た「少女」の胸像が左に45度傾いて描かれている。下に大きな指と液晶ディスプレイの枠が覗くことから、スマートフォンあるいはタブレットのカメラで目の前の少女を映し出している場面と考えられる。少女に降りかかる粉雪は、画面の中のみならず、少女に向けられたスマートフォンあるいはタブレットにも舞い散る。雪が画面の内外あるいはイメージと現実とを繋ぐ。《瞳を泳ぐ》(530mm×455mm)には、葉のパターンのデザインされたやや淡い青紫のシャツを着た「少女」の両目に、海を背にした白いワンピースの少女の姿が映る(同題・同サイズで「少女」の顔を大きく表わした作品が隣に並ぶ)。青紫のシャツの「少女」と瞳の中の白いワンピースの少女とは同じ向きに髪が靡く。《スクリーン》同様、《瞳を泳ぐ》でも瞳の内外、イメージと現実とに同じ風が吹く。その不可視の風を可視化すべく、波飛沫と思しき銀色の粒が画面に散らされている。《外に出たい手》(1120mm×1940mm)の画面は左右に2:1に分割され、左側の画面には右手を軽く顎を支える「少女」の顔を、右側の画面に2階建ての建物の6つの窓からそれぞれ突き出された腕が描かれる。どちらにも大きな銀杏の葉が舞い、そのうち1枚が左右の画面の境界に跨がるとともに、「少女」の顔と建物の壁面に銀杏の樹と思しき斑の影が映ることで、2つの場面が同じ場所である可能性を示唆する。建物の窓から伸ばされる腕は、スマートフォンを操作するディスプレイ越しのコミュニケーションのメタファーであろう。映像を介さない現実の接触を求めているようだ。《外は寒いのので中に入れて下さい 1》(1455mm×1455mm)には、雪の舞う高原ないし山間部の集落にある1軒の民家の結露した窓から「少女」が外を眺める姿が描かれる。「少女」が手でガラスを拭い、曇りが消えた部分に紫の壁紙を背にした「少女」の姿が現われる。曇ったままの窓は鏡のように窓外の集落の景色を映し出す。すっかり葉を落とした街路樹の向こうに似たような木造の民家がいくつも姿を見せる。雪によって覆われ始めた道ではケンタウロスが「少女」に向かって右手を挙げている。「少女」は無表情でその心の裡は読み取れない。《外は寒いのので中に入れて下さい 2》(1455mm×1120mm)は、《外は寒いのので中に入れて下さい 1》に姿を現わしたケンタウロスの胸像。ケンタウロスの目には家の中から姿を見せた少女の姿が映っている。目の映像とともに、降りかかる雪が2つの世界を繋ぐ。屋内の「少女」と屋外の異形の存在との邂逅は、移民や難民の受け容れのメタファーであろう。戸惑っているようにも見える「少女」に対し、ケンタウロスの微笑みが事態の好転への兆しを示唆する。

黒宮菜菜は蝋を用いた画面で絵を生み出す。「Whaite scratch」シリーズは、蜜蝋では固めた画面を削ることでモティーフを表わしている。《Whaite scratch―袖を振る》(235mm×285mm)はベージュの画面を削って女性が舟(円弧)の上に立ち腕を羽搏くように上下に振る姿が下地の黒い絵具によって描き出される。《Whaite scratch―魂の舟》(235mm×285mm)は舟の上の馬と鳥の姿がベージュの画面に暗赤色で彫り出される。《空(から)の馬、空(から)の舟 #2》(740mm×920mm)の、葦や日陰鬘といった植物がその形が浮き立つように蝋で塗り込められたごつごつした画面には、赤みがかった色彩で舟の上に立つ馬と馬の首を撫でる(?)女性の姿がぼんやりと浮かび上がる。《船に乗る》(1325mm×1640mm)の、葦、薄、日陰鬘、定家葛、米、大麦、粟、黍、大豆、小豆を蝋で固めた凸凹の暗緑色の画面には、水辺に浮かぶ船に横たわる女性と、周囲の草叢の鳥たちの姿が白く表わされる。《空の馬、空の舟 #2》や《船に乗る》のモティーフは画面からある程度離れないと認識できない。実際の植物を画面に塗り込めるという制作の過程には儀式を想起させるのみならず、舟(船)・鳥・馬といった魂を運ぶモティーフと相俟って、作品と距離を取らせて近寄り難くする仕掛けは、作品に神聖さを吹き込んでいる。