可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『おかえり、ブルゴーニュへ』

映画『おかえり、ブルゴーニュへ』を鑑賞しての備忘録

フランスのブルゴーニュ地方で、ワイン用のブドウ畑を所有し、ブドウの栽培からワインの醸造・瓶詰めまでを一貫して行うワイン生産者を「ドメーヌ」という。
あるドメーヌに所有者の長男ジャンが10年ぶりに姿を現す。ジャンは父と対立して家を飛び出して世界を放浪し、母の死の際にも戻らなかったことをきっかけに家族と音信不通となっていた。ジャンはアルゼンチンで知り合った女性とオーストラリアでワイン農家となっていたが、父が危篤であると知って実家に戻ってきたのだ。
父が倒れた後、ワイン造りの中心になったのは長女(ジャンの妹)のジュリエット。次男のジェレミーは地元で手広く事業を展開している資産家の婿養子となり、義父の下で家業の修行中。子供が生まれて間もなく子育てにも追われるが、ことあるごとに実家の農園で姉をサポートしている。
ジャンが戻ってきたのはちょうどブドウの収穫時期。ブドウの熟成を経験や科学(研究所による糖度やpHの分析結果)で判断し、空模様を見極めつつ、ジュリエットを中心に収穫の日取りを決める。その収穫予定日を前に父が亡くなる。多忙を極めるワイン造りのスタートに加え、3兄弟の前には、莫大な相続税の支払いや、ドメーヌや自らの将来設計という問題が立ちふさがることになる。

主にジャンの視線でストーリーが展開。ジャンにはオーストラリアに残した妻子との関係を修復し、自らの抱える債務を返済するという問題がある。ジュリエットは、女性ながらスタッフをリードし、近隣農家との境界争いに立ち向かい、父から継いだばかりのドメーヌを維持してワイン造りを継続できるのかという問題に向き合っている。ジェレミーは辣腕でワンマンの義父のもとで自分の意志を押し殺しながら暮らす状況に不満がたまっている。ただ、それらの問題は、ストーリーの展開においてはおそらく半分のウェイトを占めるにすぎないだろう。描かれるのは、様々な人が手を掛けてきた、ブドウ畑という土地そのものの姿である。
それは原題"Ce qui nous lie"に表わされている。ドメーヌの畑が、「私たちを縛るもの」であると当時に「私達を結びつけるもの」ということである。タイトルの表示の際、ブドウ園の四季の変化の映像が映し出されるとともに、"Ce qui nous lie"文字が何度も重ね合わされるように表示されていた。

展覧会 平子雄一個展『Leftover』

展覧会『平子雄一展「Leftover」』を鑑賞しての備忘録
第一生命ギャラリーにて、2018年11月9日~12月7日。

平子雄一の《Leftover》と題された絵画シリーズの紹介。2018年に制作された《Leftover 5》・《Leftover 6》《Leftover 7》は、いずれも4枚の画面を縦横2枚ずつに組み合わせて1つの作品としたもの。
様々な植物を植えた鉢が、壺や本や楽器や様々な物とともに室内を埋め尽くしている。森の中のように巨大な樹木がうねりながら室内を横切っていきもする。そして、その1つの画面に描かれた樹木が、別の画面の、森の中の樹木だったり、別の画面の人物の腕へと繋がっていく。全く別の世界が樹木のようなかたちを媒介に接続されている。時折描き込まれる、ベッドやソファに腰掛けて読書をしたり、車を運転していたりする、樹木の頭部を持つ人物の存在も、同じ世界であることを表わしている。同時に、樹木の人物は、作品にユーモラスな印象を与え、不思議な魅力を湛えている。

平子雄一は、「観葉植物、街路樹、公園など」は「少し滑稽な状況に思え」るという。というのも、それらが「本来の自然の断片や模倣であ」り、
「通常生活圏では植物は力がコントロールされ、必要のないものは排除される存在(弱者)」となっているため、「そもそも自然とは何か定義する」ことすら「とても困難」だからだ。そこで、「自然物や植物を人や構造物と同価値のものとして扱」い、「境界が曖昧な状況」を作品として呈示しているらしい。

平子勇一の作品を特徴付けている樹木の頭部を持つ人間は、本来的な意味で自然と言えないものを「自然」として享受している状況、人工的環境(人体)への自然物(樹木)の「接ぎ木」する常態の表現であった。そして、この状況に対する「滑稽」との作者の心証までも、樹木人間の持つユーモラスな印象で見事に形象化しているのだ。
また、絵画という形式は、1つの画面(平面)の中に描かれる対象が何であっても押し込めてしまい、それら対象を等価に扱うことを可能にする。同時に、複数の画面で構成することよって境界を区切りつつ、それらを類似のかたちでゆるやかに接続させることで、境界の存在を起ち上げながらその無効を同時に表現してしまってもいる。

 

陶製の立体作品《Compost》シリーズ4点もあわせて展示されている。

展覧会 荒木経惟個展『片目』

展覧会『荒木経惟 片目』を鑑賞しての備忘録
ラットホールキャラリーにて2018年9月29日~12月16日。

荒木経惟の近作のモノクロ写真を紹介する企画。
1,000点を超える作品が、縦に8点で整然と並び、ギャラリーの4つの壁面を埋め尽くしている。
女性のヌードや人形、性器を連想させる食べ物や街の中の物体などに加え、新聞の死亡記事や、自らをキャラクターとして用いた人形や漫画などの写真も混ぜ込んである。
個々の写真自体ではなく、写真の上下の写真を支える部分にではあるが、ピンで止められている。それが、虫たちがピン止めされて整然と並んだ昆虫標本を想起させる。
性的イメージがあふれているにもかかわらず、性的な生々しさが表面に出ていないのは、カラーではなくモノクローム=白黒であることから生じる静かな印象と、昆虫標本的展示が産み出す、擬似的な科学の眼(客観的視点)の持つ乾いた印象とからだろう。
女性と人形とは生きているものと生きていないものとを対照させる。
死亡記事は、死をきっかけにして、生きていたときの事績と写真とを伝えるものだ。昆虫標本も死骸を持って昆虫の生を伝える。死を見つめて生を思う。

自らをキャラクターとして用いた人形や漫画の写真には、自らを揶揄する姿が見える。この点も、展示が持つ乾いた印象を増しているだろう。

「片目」というタイトルを墨書した紙が全体の中央に掲げられている。タイトルは、網膜中心動脈閉塞症によって右目の視力を失った5年前から撮影された作品により構成されていることに因んでいる。写真作品群の中では、作者の描く「目」という文字が、片方の性の性器の形象に近づいているように見えた。ミイラとりがミイラとなっているような印象を受けた。

映画『くるみ割り人形と秘密の王国』

映画『くるみ割り人形と秘密の王国』を鑑賞しての備忘録

母マリー譲りの頭脳を持ち機械仕掛けに強い関心を持つクララは、母を亡くして、塞ぎ込みがち。母の死や家族を気にかけない父ベンジャミンに不満を抱えている。クリスマス・イヴに、母からのプレゼントとして、父から手渡された箱の中には、金属製の卵が入っていた。「あなたに必要なものはすべてこの中にある」とのメッセージが添えられているが、複雑な仕掛けの鍵がかかっていて開けることができない。
父と姉ルイーズ、弟フリッツとともに恒例のクリスマス・パーティーに向かうクララは、パーティーの主宰者で発明好きのドロッセルマイヤーに鍵を開けてもらうつもりでいた。
ドロッセルマイヤーの屋敷でクリスマスプレゼントを探すゲームに参加するうち、クララは雪化粧の森に迷い込む。クリスマスツリーに卵の鍵がかかっているのを見つけるが、手にしようとしたところを鼠に攫われてしまう。鼠の後を追ううち、橋のたもとで一人の兵士フィリップに出会う。彼は、クララがマリーの娘だと知ると、王女として遇し始める。この地はマリーを女王とする王国であるというのだ。
フィリップとともに鍵をさらった鼠を追いかけるうち、二人は、マザー・ジンジャーという危険な存在に遭遇してしまう。フィリップに伴われて王城に辿り着いたクララは、花の国・雪の国・お菓子の国の摂政たちに歓待される。彼らによれば、マザー・ジンジャーは遊びの国の摂政だったが、戦争によって荒れ果て、今では「第4の国」と呼び習わされているという。

ディズニー映画のイントロムービーからフクロウが飛び立ち、後を追うカメラがクリスマスの街並みを次々と映し出していく。フクロウがクララの住む屋敷の屋根にある窓にとまるまでノンストップの展開。屋根裏部屋ではクララがフリッツとともに気球の模型に火を点し、気球が浮き上がると、ピタゴラスイッチ的な仕掛けが次々と作動して、鼠を捕らえる。が、そこへメイドが扉を押し開けた拍子に鼠が逃げ出し、姉弟は階下へ降りていく。
この冒頭のシーンが全体を象徴している。登場人物の設定は分かるものの、個々の人物の性格を丁寧に描き出すことはなく、とにかく次から次へと話がスピーディーに展開していく。テーマパークのライドのような映画と言えようか。齟齬を感じさせる暇なく、力技でファンタジー世界を起ち上げ、終幕を迎えさせている。
クララとシュガー・プラム、マザー・ジンジャーについては絶対に、できればドロッセル・マイヤー、ベンジャミンについても、人物をもっと掘り下げるシーンが欲しかった。
ファンタジーの世界を破綻なく描き出すのは難しい。有無を言わさぬ展開というのもファンタジーを成り立たせる手法としてありえるのかもしれない。
クララからの目線で捉えた映像をもっと織り込み、主人公を通じて作品世界を見せる手法もありえたのかもしれない。ただ、子供が作品を鑑賞する場合、ヒロインを中心に捉える客観視点の映像の方がストーリーを追いやすいのだろうか。

クララ役のマッケンジー・フォイは魅力的だった。シュガー・プラムを演じたキーラ・ナイトレイはエキセントリックなキャラクターを演じ切ってファンタジーを起ち上げるのに貢献していた。マザー・ジンジャーの設定はよく分からず、ヘレン・ミレンに演じさせるのがもったいない気がした。

クララが観劇する形で挿入されたバレエのシーンは素敵だった。バレエ以外のシーンでも、振付でもっと遊んでみても面白かったのではないか。

展覧会 二藤建人個展『ヘルニア 第1部《労働のエステティクス》』

展覧会『二藤建「ヘルニア 第1部《労働のエステティクス》」』を鑑賞しての備忘録
gallery N 神田社宅にて2018年11月17~2018年12月1日。

最近まで勤め人でアーティストであった作家が、脱サラ後初めて行う展覧会とのこと。医学用語としておなじみの「ヘルニア(hernia)」をタイトルに関しているが、この言葉にはもともと「脱出」という意味があるという。

白いワイシャツの襟(ホワイト・カラー)とそこにかかったねずみ色のボロ雑巾でできたネクタイから成る《labor's symbol》が入口で来場者を迎える。
リズミカルに聞こえる悲鳴は、扉の中に設置された《welcome》という作品の音声。扉を開けると、扉にぶつかるように、バルーン・アートで用いる風船がたくさんつまったポリ袋が設置されている。発光ダイオードか何かの光に照らされている風船はソーセージ(腸)のように膨らまされている

続いて引き戸を開けて中に入ると、緑の画面に描かれたヘルニアの図解らしきものが壁に掛けてある(《ヘルニア1-1》)。
黒いカーテンを抜けると2作品が展示された暗い空間が控えている。いくつかの白いモニター画面がお互い向き合うように垂直に並べられた、腰椎を模した作品《カジフカフカシの腰椎》が隅に置かれている。家事労働にかかわる音声がそれぞれのモニターから聞こえ、隙間からわずかに映像を見ることができるようになっている。もう1つはドタバタと大きな音を立てた巨大な箱のような《労働の美》と題された作品。両作品は一定時間が経過すると、同時に静寂が訪れる対の作品になっている。

 

二つのヘルニア

 

労働が生活を壊すとき
人の価値が金に置き換わるとき
防衛本能が他者の安全を脅かすとき
手段が目的への従属をやめるとき
システムへの信仰が暴走を始めるとき

 

そこにはヘルニアが起こっている。

 

不遇の中に生きる糧を育む時
気にも留めなかったものごとの価値に気づく時
繰り返されてきた過ちに目を向ける時
自らの至らなさの延長に世界の性質を見つける時
怠惰を振り切って行動を起こす時

 

そこにはヘルニアが起こりうる。

 

社会は誰のためにあるのか。
その答えが揺らぐ今
ヘルニアに気をつけて、
ヘルニアを目指せ。

(二藤建人)

 


ヘルニアの両義性。

1つは、痛み。

「痛みとは、身体的損傷によって機械的に生じる反応ではなく、自分への対処とケアを求める反応であり、援助を請う動作だということである。」「痛みとは、自分自身に対して行動を求める呼びかけであると同様に、他者に対しても向けられている呼びかけなのだ。」(河野哲也『境界の現象学』66頁)

1つは、脱出。

「意味のあるものとは」「関連性のもとに置かれること、文脈の中に位置づけられることである。」「逆に無意味なものとは、周囲との関連性を失い、孤立してしまったもの、そして、それゆえに相対的な位置づけをもたなくなったもの、言い換えれば、絶対的なものである。」「周囲との関係性を切るもの、孤立するもの、無根拠なものとは、すなわち、個体だということであり、生物だということである。そして、無意味であると同時に絶対的であることの最終的な根拠とは、私たちが死ぬということにある。死ぬ存在であるということは、裏を返せば、個体として生きているということである。この死すべき個体であることが、無意味性と無根拠性、また独立性と絶対性を湧出するのである。」(河野哲也『境界の現象学』168~169頁)


ヘルニア(自他への行動を求める呼びかけ)に気をつけて、
ヘルニア(独立性と絶対性)を目指せ。