可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ちいさな独裁者』

映画『ちいさな独裁者』を鑑賞しての備忘録
2017年のドイツ・フランス・ポーランド合作映画。
監督・脚本はロベルト・シュベンケ(Robert Schwentke)。
原題は"Der Hauptmann"。

第二次世界大戦の末期、憲兵隊の追跡を辛うじてかわしたドイツ軍の脱走兵ヘロルド(Max Hubacher)は、民家に侵入して食料を物色するなどして彷徨っていた。偶然、泥濘にはまって打ち捨てられたドイツ国防軍の車両に出くわし、後部座席に残されていた鞄から空軍大尉の制服を発見する。脱走兵であることを隠せると悦に入って着用していると、部隊とはぐれたという兵士フライターク(Milan Peschel)が通りかかる。フライタークはヘロルドをドイツ軍将校と勘違いし、自ら進んで車両を泥濘から救出し、運転手役を買って出る。ヘロルドは許可を与え、付近の食堂を目指すよう指示する。ヘロルドとフライタークが入った食堂は大勢の客で賑わっていたが、二人に極めて冷たい視線を浴びせる。彼らは、軍紀の緩んだ兵士の掠奪に手を焼いていたからだ。ヘロルドは、機転を利かせ、掠奪による損害を補償するためにやって来たから被害を報告するようにと告げる。すると、人々の対応が変わり、食事にありつくこともできた。人々が捕えた略奪犯を処刑したり、近隣の民家に居座っていた脱走兵のキピンスキー(Frederick Lau)らを部下に加えながら、ヘロルド一行は「特殊任務」のために移動を続ける。ところが、燃料切れのために立ち往生してしまい、通りがかった憲兵隊に、軍隊手帳を呈示するよう命じられる。

ヘロルドは空軍大尉の制服を手に入れることで、他人の持つ権力を手に入れる。放った噓が力を生むと、その力が自信を与え、自身がさらなる噓を吐かせる。他人のものだった制服が次第に馴染んでいく。ただ、ヘロルドの制服の丈が長いということが、ヘロルドの権力が本来他人のものであることを示している。キピンスキーは端からそのことに気がついている。自分では制服を手に入れることはなかったが、ヘロルドの懐に入り込み、ヘロルドに制服を着させ続けることで、間接的に権力を利用していく狡猾さを備えている。フライタークは、制服を手に入れなかったヘロルドの姿を映しているのだろう。上官に怯え、空腹に耐えきれず食事を貪るように平らげ、殺害行為に躊躇する。それでも、ヘロルドの権力に関わるうち、次第に感覚が麻痺していってしまう。

虚偽に拠って立つ権力を手中にしたヘロルドの存在が、一種の怪物として描かれている作品ではある。だが、怪物に疑義を呈したり刃向かうことなく、"Der Hauptmann"と呼びかけ阿ねってしまう人々の存在こそ、怪物を生き長らえさせ、災厄を拡大する装置なのだろう。エンドロールの映像は、観客への問いかけになっている。

実話がベースになっていることに驚いた。

展覧会 ソフィ・カル個展『Parce que』

展覧会『Sophie Calle Parce que』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー小柳にて、2019年2月2日~3月5日。

ソフィ・カルによる文章と写真とを組み合わせた作品の展示。

壁に掛けられた木枠にはそれぞれ文章が刺繍された布が垂らされている。その布を捲るとことで、中に置かれた写真を見ることができるようになっている。

例えば、《David》と題された作品の布には、

David est mort.
Parce que je n'ai pas de mots pour décrire son univers

とある。「Dacvidは死んだ。なぜなら、私は彼の世界を叙述するための言葉を持たないから」。なぜ「私」が言葉を持たないことでDacidが死ぬことになるのかと言う疑問がまず思い浮かぶ。そして、布を持ち上げると、花柄のカーテン、花の絵などが掛けられた部屋に、やはり花柄の大きなソファが画面手前に置かれていて、その上には動物のぬいぐるみがあるだけ。
花のイメージに埋め尽くされた賑やかな室内は、ぬいぐるみの存在と相俟って、子供のための空間を思わせる。すると、そもそもDavidは幼く、言葉を持つ以前に亡くなったのかもしれない。彼の言葉が描く世界を知ることができなかったということ。あるいは、Davidの喪失が大きすぎて、「私」はそのことについて言葉にすることはできない、ということかもしれない。
一色の布に綴られた簡潔な文章は、様々な想像を呼び起こす。そして、その想像を後から現われる写真のイメージが限定していき、同時に写真の解釈をテキストが制限する。ただ、写真のイメージも広がりを持つため、テキストの解釈を改めていくことにもなる。
文章と写真とが同時に示されないことで、いったんは文章だけから想像を広げていくことになる。そして、布を捲るという隠されたイメージを暴いていくこととが、文章を読む行為への訴求力を高めている。

《Le jour des noces》では、

Parce qu'on m'apprend qu'elle est morte le jour de ses noces

と記された布の下に、墓地にある花嫁の石像の写真が、《Pourquoi elle?》では、

Parce que "Pourquoi elle?"

という文があり、立ち並ぶ石仏(水子地蔵?)の中に1つだけ赤いよだれかけをしたものがあるイメージが現われる。死が、死そのものではないとしても、作品の基調、少なくとも重要なテーマになっている。

展覧会 石井早希子個展『限られた居場所』

展覧会『石井早希子個展「限られた居場所」』を鑑賞しての備忘録

GALLERY b.TOKYOにて、2019年2月11日~16日。

石井早希子の絵画展。

会場付近には《扉》や《MY HOUSE》が掛けられ、会場には展覧会タイトル「限られた居場所」を連想させる《入れない居場所》や《閉ざされた入口》といった作品が並ぶ。いずれも囲うことや閉ざすことがモティーフになっている。だが、表された壁や扉や柵は、完全に奥を見通すことを許さないようには描かれていない。囲ったり閉ざしたりするのは、そこに向こう側の世界が、そしてそこへの入口や通路が存在するからだろう。そこに可能性に踏込まなければ、フランツ・カフカの『掟の門』のように、門前で息を引き取ることになるだろう。

メインヴィジュルアルに採用されている《仮面》は、黒髪の女性の肖像画。白い短い線が茣蓙か畳表のように女性の顔を覆い、一切顔は見えない。人物の周囲にも白い線が無数に拡がっていて、顔の目の辺りに流れ込むかのようにいくつかの渦を描いている。その場の状況に合わせて、周囲になじむ顔を作り出す。画像修正による「盛り」の時代の人物像か、平野啓一郎らが紹介する「分人主義」的な他者とのつながりか。もっとも、画面に明るさはなく、状況肯定的な印象は受けない。現状に対するもっと冷徹な批評性こそを汲み取るべきだろうか。虚偽よりも感情に訴えるポスト・トゥルース的状況への揶揄というように。

展覧会『インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史』

展覧会『インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史』を鑑賞しての備忘録
埼玉県立近代美術館にて、2019年2月2日~3月24日。

未来社会の提案あるいは既存制度の批評として構想された建築や、社会条件によって実施できなかった建築など、あえて「アンビルト」の建築に焦点を当て、建築の可能性を探る企画。

特に章立てはなく、おおよそプロジェクトや構想の時代順に、作家ごとにまとめて展示されている。

 

展示室に入ると、まず、ウラジミール・タトリンの《第3インターナショナル記念塔》の模型が目に入る。高さ400メートルの鉄製の二重螺旋の内部に、下から立方体(あるいは円筒形)の会議場(1年で1回転)、三角錐の行政官庁(1月に1回転)、円柱の情報センター(1日に1回転)などが入居する構想だった。模型やその図版により世界に知られ、20世紀を体表する建築(彫刻)となった。左手の壁面には、長倉威彦がCG映像により再現した記念塔投影されているが、都市に聳える亡霊のようにも見える。

タトリンの向かいには、カジミール・マレーヴィチのシュプレマティズム(単純な幾何形態による絵画)の素描と、そこから発展した建築模型が展示されている。

続いて、構造よりも芸術性を建築に求めた「分離派建築会」の瀧澤眞弓(《山の家》)や山口文象(《丘上記念塔》)が、それぞれ模型とともに紹介されている。

ブルーノ・タウトについては、『アルプス建築』という書籍の紹介(スライドショーも)から始まる。アルプスの山々に寄り添う輝く都市の構想が絵画で表現されている。人物こそ描き込まれていないが、ヘンリー・ダーガーの描く少女達が描き込まれても違和感のないような世界が拡がっている。敗戦国ドイツでは建築の仕事が期待できず、また芸術家サークルに参加するなど芸術への関心が強かったことから生まれた作品と考えられるという。来日したタウトは、生駒鉄道ケーブルカー終着駅にある山頂の遊園施設に、ホテルと住宅団地を追加整備する設計を依頼されていた。「山頂の建築は二つの観点において適切でなければならない。第一に遠くからの眺めがその山の自然な特性を強調しなければならない。第二に、山の上での生活を気持ちの良いものにしなければならない。」とタウトは設計趣意に記し、遠望図や鳥瞰図などを描いている。タウトに続いて、"Less is more."で知られるルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエの《ベルリン、フリードリヒ通り駅の摩天楼のコンペ案》が紹介されているが、従来ヨーロッパに存在しなかったガラス張りの高層建築の着想源の一つはブルーノ・タウトの《天上の館》であるらしい。

タウトの向かい側、ミースの隣では、ヤーコフ・チェルニホフの書籍《建築ファンタジー 101のカラー・コンポジション、101の建築小図』が紹介されている。カラーで表現されたスタイリッシュな高層ビル群や工場施設はSFのイメージを湛えつつ懐かしさも感じさせる。時折カンディンスキーの絵画のような建物の配置図などを挟みつつテンポ良く切り替わるスライドショーで、チェルニホフの世界を堪能できる。

神秘主義山田耕筰の影響を受けた川喜田煉七郎の《霊楽堂》と《ウクライナ劇場国際設計競技応募案》に続き、前川國男の《東京帝室博物館建築設計図案懸賞応募案》が紹介される。新帝室博物館のコンペでは、鉄筋コンクリート造を前提にしつつ「日本趣味ヲ基調トスル東洋式トスルコト」など設計条件には問題が多かった。前川國男は敢えて条件を無視し、ル・コルビュジエなどから学んだスタイルで挑んだ。当選案(現在の東京国立博物館本館)と、前川の提案(模型が分かりやすい)を比べると、そのスタイルの違いは歴然としている。そして、今、上野公園には、前川の絡んだ建築(国立西洋美術館東京文化会館東京都美術館国立西洋美術館新館)が並ぶ。前川が官軍にな
ったのだった。
前川と同じ空間で、ジュゼッペ・テラーニの《ダンテウム》、岡本太郎の《おばけ東京》も紹介されている。

続いて、菊竹清訓黒川紀章とが紹介される。菊竹の《海上都市1963》など一連の海上都市構想の背景には、大地主であった菊竹家が農地改革で土地を失ったことがトラウマとなり、海上への亡命を企図していたという。また、黒川の、人工地盤を地上4メートルに造成し、協同所有地とする《農村都市計画》は、伊勢湾台風の結果泥の海と化した農村に道路だけが見えた経験から、インフラは人の職住を確保するためにも存在するべきだと考えたのが発端となったという。

ヨナ・フリードマンは、通信手段やエネルギーの調達に加え、水の管理なども個人の管理可能な時代、「クラウドインフラストラクチャー」の時代が到来すると予言。都市は放棄され、生活需要に応じたキャビンによる可動式住居を提案する。

コンスタンは、ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」に影響を受け、入口も出口もない迷路である《ニュー・バビロン》を提案した。遊戯的精神をもって彷徨することで、人間は根源的な生と想像力とを回復するべきであり、その装置として建築を構想したという。

ハンス・ホラインは、握り拳を突き上げた腕を高層ビルに見立てたドローイング《超高層建築》が印象的。建築の原初の姿や、自然に対する暴力といった問題の呈示であるらしい。"ALLES IST ARCHITECTURE"というスローガンの下、情報や環境をも含めた建築を提案した。

エットレ・ソットサスの建築事務所にはタイガー立石が在籍していた。

セドリック・プライスの《ファン・パレス》は、用途に応じて空間の再編成を可能にする建築を提案。立体トラスの柱と梁によって骨格を形成し、床面は様々な階層に設置可能で、梁から施設全体を中空に吊るすことすらできる。上方には資材運搬のためのクレーンも設置してある。劇場の舞台装置を思わせる建築。

アーキグラムスーパースタジオの展示に続き、磯崎新の《東京都新都庁舎計画》、安藤忠雄の《中之島プロジェクトⅡ》、レム・コールハースの《国立図書館》が紹介される。

ジョン・ヘイダックの《犠牲者たち》というドローイングが目をひく。ナチスゲシュタポ本部があった地区に、67体の多様な構築物を30年かけて配置する構想だという。ヘイダックは、場所の意味や記憶を蘇らせる「仮面劇」というプロジェクトの提案を行っており、《ランカスター/ハノーバーの仮面劇》のためのスケッチなども紹介されている。

荒川修作とマドリン・ギンズの《問われているプロセス/反命反転の橋》の巨大な模型のある展示室では、石上純也藤本壮介の構想も紹介されている。

会田誠山口晃による都庁や日本橋の構想図を挟んで、ザハハディドの新国立競技場の模型と膨大な設計資料、マックスフォスター・ゲージによるデジタル素材の再利用による設計(CGアニメーション)が紹介される。

映画『ファースト・マン』

映画『ファースト・マン』を鑑賞しての備忘録
2018年のアメリカ映画。
監督は、デイミアン・チャゼル(Damien Chazelle)。
脚本は、ジョシュ・シンガー(Josh Singer)。
原作はジェームズ・R・ハンセン(James R. Hansen)の『ファーストマン("First Man: The Life of Neil A. Armstrong")』

NASAのテストパイロットであるニール・アームストロングライアン・ゴズリング)は、X-15に搭乗中、大気圏突入に失敗してしまう。何とか再突入を成功させ、モハーベ砂漠に着陸するが、事故の原因はパイロットの精神的な問題であるとして、ニールは地上勤務となる。ニールが心中穏やかで無いのは、2歳半になる娘カレンが脳腫瘍の治療を受けているためであった。放射線治療などあらゆる手を尽すが、その甲斐も虚しく、ニールは、カレンを小さな棺に納めなくてはならなくなってしまう。カレンの治療のために応募を見送っていた有人宇宙飛行計画「ジェミニ計画」に応募したニールは、NASAの宇宙飛行士に採用される。宇宙開発競争でソ連の後塵を拝するアメリカは、月面着陸で一発逆転を狙う魂胆だった。その実現のため、宇宙飛行士たちには苛酷な訓練と膨大な学習が課せられていた。ニールは、採用面接で顔見知りになったエリオット・シー(パトリック・フュジット)と打ち解け、向かいに住むエド・ホワイト(ジェイソン・クラーク)ともよく話し込む仲になった。妻のジャネット(クレア・フォイ)もホワイトの妻パトリシア(オリヴィア・ハミルトン)と気心を通じさせていた。エドは一足先にジェミニ4号でアメリカ人初の宇宙遊泳を成功させると、ニールもジェミニ8号の船長に決まる。ところが、その矢先に、エリオットが事故に巻き込まれ亡くなてしまう。

冒頭から宇宙の恐ろしさ、宇宙飛行の緊張感を体感できる。ニールが登場するX-15は大海原で波に翻弄される小舟のよう。こんなにがたつく機体で大気圏外を飛行していたのか、と。この後に出てくる宇宙船も皆、頼りない。宇宙飛行士が身体的・精神的に苛酷な訓練に耐えなければならない理由が嫌でも分かってしまう。

ニールにとって娘カレンの喪失は途方もない衝撃だった。感情をあまり表に出さないニールが、カレンの葬儀の際、一人隠れて嗚咽するシーンが長く映し出される。エリオットの葬儀では、カレンの姿を一瞬幻視する。そして、ニールは、一人夜空の月を見上げる。地球と離れてしまった月(月の形成については諸説あるが)に親と離れてしまった娘を投影している。ニールが月に向かわなければならなかった必然が示されている。

宇宙飛行士になる以前からニールは同僚の事故死を経験していたことがジャネットの科白で知られる。そして、宇宙飛行士になってからも同僚の死を避けることができなかった。月面探査に向かうことになったニールに対する記者達の「一番乗り」になることについての質問の数々。ニールにとっては、亡くなっていった友や同僚たちとのつながりの中、たまたま自分の目の前に月面があったに過ぎないのであった。宇宙を体感した者の視野の広がりが、地上を這いずりまわる記者たちの近視眼を炙り出す。
そして、その感覚の違いは、妻との間にも、見えない壁を生んでいることがラストシーンで象徴的に示されている。