可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『荒野にて』

映画『荒野にて』を鑑賞しての備忘録
2017年のイギリス映画。
監督・脚本はアンドリュー・ヘイ(Andrew Haigh)。
原作は、ウィリー・ブローティン(Willy Vlautin)の『荒野にて』("Lean on Pete")。
原題は、"Lean on Pete"。

15歳のチャーリー・トンプソン(Charlie Plummer)は、父レイ(Travis Fimmel)とともにポートランドに越してきたばかり。父は早速新たな女性を部屋に連れ込んでいた。彼女はリン(Amy Seimetz)といい、父の勤め先で秘書をしているという。チャーリーとレイのために、出社前の忙しい中、手際よく朝食を作ってくれた。がたいの大きいサモア人の亭主がいるらしい。チャーリーにとっては、前の交際相手の意地悪なストリッパーよりは印象が遙かに良かった。チャーリーは母を知らない。幼い頃に姿を消してしまったからだ。伯母のマージー(Alison Elliott)を母親のように慕っていたが、チャーリーが12歳のときに父と不和となり、以来音信不通となっていた。チャーリーが近所をジョギングしていると、競馬場でデル(スティーヴ・ブシェミ)という老人に声をかけられる。右手を負傷して車の修理に難儀して、チャーリーに助けを求めたのだ。10ドルの駄賃をもらい気をよくしたチャーリーは、デル・モンゴメリー(Steve Buscemi) というこの老人の仕事を手伝うことにする。デルは小規模な厩舎のオーナーであった。温和しい競走馬リーン・オン・ピートの世話を頼まれたチャーリーは甲斐甲斐しく働き、すぐにデルに気に入られるのだった。その晩、自宅のドアをけたたましく叩く音で目が覚める。リンの不貞を知った夫がレイのもとに押しかけて来たのだ。激しく殴られた上に窓ガラスに投げつけられたレイは腹部に大怪我をする。病院に搬送されたレイの容態は良くない。不安に駆られたチャーリーはマージ―の連絡を聞き出そうとするが、レイに頑なに拒まれる。入院には費用がかかるという父の言葉を受け、チャーリーはデルの下で仕事を続けることにする。リーン・オン・ピートに怪しげな「ヴィタミン剤」を打って走らせ、レース後にはそそくさと競馬場を後にする。20年来の付き合いという女性騎手ボニー(Chloë Sevigny)には競走馬はペットではないと距離を置いて世話するよう諭されるが、チャーリーのリーン・オン・ピートへの思い入れは深まるばかりだった。仕事場から電話した際には問題ないと言われた父の元を訪れると、病室に姿は無い。スタッフから急変して亡くなったと告げられ、父の着用していたベルトを渡される。身寄りが無いなら施設に連絡を取ろうとスタッフが目を離した隙に、チャーリーは病院を抜け出す。厩舎で一夜を明かしたチャーリーは、リーン・オン・ピートが負ければ処分されるというレースに臨むことになる。

チャーリーの無鉄砲な行動は、彼の幼さや愚かさとともに、不安や孤独、持って行き場のない怒りが綯い交ぜになってのものだろう。理解しがたい暴走は、彼の苦境の合わせ鏡になっている。冷静に周囲を見渡せば、意外と救いの手は差し伸べられているのだが、境遇がそれに気付くことを許さない。チャーリーは若い暴れ馬であり、それを反映してか作品も前へ前と強引に突き進んでいくのだ。

映画『ROMA ローマ』

映画『ROMA ローマ』を鑑賞しての備忘録
2018年のメキシコ・アメリカ合作映画。
監督・脚本は、アルフォンソ・キュアロン(Alfonso Cuarón)。
原題は"Roma"。

1970年、メキシコシティのローマ地区。クレオ(Yalitza Aparicio)は、 アデラ(Nancy García)とともに、医師アントニオ(Fernando Grediaga) の家庭に、住み込みのメイドとして働いていた。アントニオは家を空けがちで、妻ソフィア(Marina de Tavira)が家庭を切り盛りしている。ソフィア自身、生化学で教鞭を執っているため、ペペ(Marco Graf)、ソフ ィ(Daniela Demesa)、トーニョ(Diego Cortina Autrey) 、パコ(Carlos Peralta)の育ち盛りの4人の子どもたちの世話は、日中は、ソフィアの母テレサ(Verónica García)とクレオが担っている。子どもたちもクレアを家族のように慕っている。ある日、出張から帰ってきたアントニオは、再び学会のためケベックへ向かい、数週間滞在するという。ソフィアはアントニオを引き留めたいと強く願い、縋るようにして見送るが、夫は淡々と出発してしまった。ある休日、クレオは、アデラとその恋人ラモン(José Manuel Guerrero Mendoza)、そしてラモンの従兄弟フェルミン(Jorge Antonio)と映画を見に出かける。既にクレオフェルミンは顔見知りで、お互いを意識し合っていた。フェルミンは天気がいいのに映画はないとの口実でクレオを連れ出し、部屋を借りて関係を持つ。その後、生理が遅れていることに気が付いたクレオは、フェルミンと映
画を観ている最中、彼に妊娠を告げる。フェルミンは間もなく映画が終わるにも拘らず、トイレに行くと上着を置いたまま席を立つ。クレオを置き去りにしたフェルミンは、以後、クレオの前から姿を消してしまう。不安でいっぱいのクレオがソフィアに相談すると、ソフィアはすぐさまかかりつけの病院へクレアを連れて行き、検査を受けさせる。ソフィアも、アントニオが愛人との生活を選んだことを知って苦悩し、アント
ニオを取り戻そうと必死であった。

全篇モノクローム
冒頭は通路のタイルを固定して映し出す(エンドロールの空と対照的)。水をかけ、こする音が聞こえ、次第に水が画面のタイルにまで流れ込んでくる。早朝、クレオが通路の清掃を行うシーンだと分かり、そこからクレオの一日を描き出していく。

政治情勢がクレオの人生と交錯し、影を落とす。だが、主題はあくまでもクレア(日常)だ。口数少なく実直なクレオの姿に、いつの間にか感情移入してしまう。洗濯物を干している屋上で、兄にいじめられたパコが「死んでる」といって拗ねて寝そべる。すると、クレオが一緒になって寝そべり、パコに問いかけられても「死んでる」としか答えない。クレオが家族に慕われる理由を一瞬に理解させ、日常の中にあるささやかな幸福を味わわせるシーンとして、忘れがたい。武術にはまっているが、頭も心も働かすことのできない、「棒」を振り回すだけのフェルミンの醜悪さは、クレオをより美しく際立たせる。クレオフェルミンを捜して訪れた武術の屋外道場のシーンは、象徴的だ。

コメディ、バラエティのテレビ番組、映画などの映像が織り込まれる。1970年という時代を示すとともに、登場人物の心情を表し、あるいは物語の伏線を張る。

映像に限らず、象徴や伏線の盛り込みは豊富で、ソフィアを象徴する自動車や、クレオの杯など、探せばきりがなさそうだ。

この作品が多くの賞を獲得したことはよく納得できるし、嬉しくもある。

展覧会『第20回写真「1_WALL」展』

展覧会『第20回写真「1_WALL」展』を鑑賞しての備忘録
ガーディアン・ガーデンにて、2019年3月19日~4月20日

王露は、緑(植物)をプリントした仮囲いや、フェンスに合わせて切断された樹木などを写真に収める。日常の中に不意に姿を表したそれら被写体は、都市の「誤作動」により生み出された景観であるとという。意思(主体)が生み出さない芸術(作品)という点では、赤瀬川原平らの「トマソン」に通じる。だが、王露には、トマソン考現学的視点は希薄で、言葉(概念)により現象を捉え、分類(理解)しようという意図はなさそうだ。また、自然と人工といったような二分法も有効ではなく、すべては都市という人工の環境から成るフラットな世界を前提としている。視覚で捉えた世界=画像データ(情報)上に見出したエラーを掬い取っているのだろう。

石川清以子の作品は、ビニールシートのようなものをつなぎとめるテープや、タマネギや容器が積み重なる様など、日常の中に奇跡的に現われたバランス(均衡)をとらえる。福原信三がラフカディオ・ハーンの旧居の入口を捉えた写真のように、写真の構図に対する意識は明確に存在する。だが、そこに物語(歴史)は存在しない。モノとモノとがつくるバランスのみを抽出するために、匿名性こそが求められるのだ。無数に存在する第三者のツイートの中から興味深いものをリツイートするような感覚の写真だ。

映画『ザ・プレイス 運命の交差点』

映画『ザ・プレイス 運命の交差点』を鑑賞しての備忘録

2017年のイタリア映画。
監督はパオロ・ジェノベーゼ(Paolo Genovese)。
脚本はイザベル・アギラル(Isabella Aguilar)とパオロ・ジェノベーゼ(Paolo Genovese)。
原作は、クリストファー・クバシク(Christopher Kubasik)の『The Booth~欲望を喰う男(The Booth at the End)』(アメリカのテレビドラマ)。
原題は"The Place"。

ローマ市内の、緩やかにカーブする通り沿いに、弧を描くファサードを持つ建物が立つ。その1階にカフェ「ザ・プレイス」がある。店内には、カウンター席とは別に、通りに面したガラス張りの壁沿いにテーブル席が並ぶ。入口から一番遠いテーブルには、一日中スーツを着た男(Valerio Mastandrea)が座っている。彼のもとには老若男女、様々な人たちが入れ替わり訪れる。彼らは自らが抱えている悩みを解消するための望みを一頻り語るのだ。男は黒皮の大きく厚い手帳を開いてメモをとり、彼らに望みの引き替えとなる条件を出す。強奪された金を捜す警官エットレ(Marco Giallini)は、誰かを血が出るまで殴るよう指示される。会計士のルイージ(Vinicio Marchioni)は、癌の息子を救うため、少女を殺害しなくてはならない。老婦人マルチェラ(Giulia Lazzarini)は、夫がアルツハイマー病から快復するために自作の爆弾で多数の人命を奪う必要がある。アッズッラ(Vittoria Puccini)は、夫が再び彼女を求めるようにするために、別の夫婦の関係を壊さなければならない。自動車修理工のオドアクレ(Rocco Papaleo)は、職場のポスターのモデルと一夜をともにするため、2週間少女の安全を守るよう指示される。マルティーナ(Silvia D'Amico)は、美しくなるために、10万ユーロと5セントの強盗を働く必要がある。神の存在を感じられなくなった修道女キアラ(Alba Rohrwacher)は、妊娠を求められる。盲目のフルヴィオ(Alessandro Borghi)が視力を取り戻すためには女性を犯さなくてはならない。

カフェ「ザ・プレイス」で繰り広げられる舞台作品のような映画。事件はカフェで起きてるんじゃない、現場で起きているんだ。だから観客は事件の事後報告のみを見せられていることになる。それでも最後まで飽かせず見せるのは、テンポ良く話を展開する脚本の妙だろう。

悩みを解消するための望みは、けっして自らは叶えられないものなのか。その望みは絶対に叶える必要があるものなのか。そもそも悩みは解消されなくてはならないものなのか。

展覧会 色部義昭個展『目印と矢印』

展覧会『第21回亀倉雄策賞受賞記念 色部義昭展「目印と矢印」』を鑑賞しての備忘録
クリエイションギャラリーG8にて、2019年4月4日~5月21日。

大阪メトロのCI計画が亀倉雄策賞を受賞した色部義昭の仕事を紹介する企画。

大阪メトロのモーションロゴは、コーポレートカラーの群青を背景に、螺旋状に動く白いリボンが"M"の形をつくって止まり、さらにそれが90度回転すると"O"の形が見えるというもの。動くリボンはチューブ(=地下鉄)と車両の進行・停車をイメージさせ、同時にその運動が常に大阪(頭文字"O")を形作っているというもの。駅や車両の案内表示にフルカラーのディスプレイ―が導入されつつある中、シンボルやサインのアニメーション化もますます普及することは間違いない。競合する企業・機関が多いであろう"M"や"O"などの文字を用いて、「動き」で企業活動を表現し、他との差別化を果たした印象深い作品。

市原湖畔美術館の案内表示はドットの荒いデジタル文字のような細かな正方形を用いている。レトロな印象を狙ったのかと思いきや、湖の漣をイメージしているという。