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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『THE BODY 身体の宇宙』

展覧会『THE BODY 身体の宇宙』を鑑賞しての備忘録

町田市立国際版画美術館にて、2019年4月20日~6月23日。

15世紀の西洋古版画から現代日本の美術家の作品まで、約90件の作品を通じて、人体表現を通覧する企画。

「第1章:理想の身体断章」、「断章:聖なるからだ」、「第2章:解剖図幻想」、「断章:ピラネージの建築解剖学」、「第3章: 身体の宇宙へ」の5つのセクションで構成。

「第1章:理想の身体」は2部構成。「美」を掲げた前半では、共和制ローマ期の建築家ウィルトウィウス(Marcus Vitruvius Pollio)の『建築十書(De Architectura)』に示された「人体の調和」を糸口に、ルネサンス期の版画に図解された理想の身体像を中心に紹介する。「力」をキーワードとした後半では、ヘラクレス=英雄とリバイアサン=群衆を併置することなどによって、中世から近世への政治・社会制度の転換を示す。「第2章:解剖図幻想」では、15世紀末から18世紀半ばまでに描かれた、科学観・宗教観・芸術観との混淆により生み出された人体の解剖図譜を紹介。様々なシチュエーションに表された人体を比較・対照できる。「第3章:身体の宇宙へ」では、身体(ミクロコスモス)と天体(マクロコスモス)とのつながりを示す古版画を紹介する前半と、 柄澤齊、池田俊彦、大垣美穂子の作品を紹介する後半との2部構成。

 

第1章で示される、英雄=個の身体から、兵隊=大衆の身体へという表象の対象の変遷が興味深かった。小さな画面に様々な行動をとる兵士を描いたジャック・カロの《教練》シリーズなどは象徴的であった。『リヴァイアサン(Leviathan)』表紙の図像は記憶にあったが、支配者像が多数の人々によって構成されていたことに初めて気付かされた。
第2章では、解剖された人体が様々な背景に描かれているのが興味深かった。湖畔で顎を手にした骸骨、都市の密集する建物の狭間で子宮を見せる女性、自らキャプションを示す頭部を解剖された人物などが掲載されたシャルル・エティエンヌ著『人体部分の解剖図』。あるいは、背景までやたら精緻に描き込まれた、棺から出て左手に砂時計を手にする骸骨を描いたホヴァート・ビドロー著『人体解剖学』。とりわけ強い印象を残したのは、腎臓、膀胱、胆石が六角形の台座の上に岩のように組まれ、血管や導管が樹木のように植えられ、胎児の骸骨が様々な表情とポーズで傍らに立つフレデリック・ルイシュ著『解剖学宝函』。ルイシュは屍体の防腐処理に優れた解剖学医・薬剤師で、コルネリス・ホイベルツが彼の標本をもとに描いたという。映画『ハウス・ジャック・ビルト』の主人公ジャック(自称Mr. Sophisticated)の「作品」に通じるセンスがある。
第3章前半では、『時禱書』の《黄道十二宮と人体の対応図》をもとに、黄道十二宮が対応する身体各部に影響することが、四体液説(血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液)や四気質(多血質、黄胆汁質、黒胆汁質、粘液質)とともに紹介されていた。太陽や月や惑星の擬人化表象などが紹介されていたこのセクションの解説は、もっと詳細にして欲しかった。グランヴィルが原画を描いた《フーリエのシステム》(タクシル・ドロール著『もうひとつの世界』)に表されたオーロラ、月、新生、北極の図像が印象的。第3章後半では、柄澤齊の《傷男》がヒエロニムス・ブルンシュヴィヒ『実用蒸留法』のWound Manと共通するイメージであり、キリストや聖セバスティアヌスの受苦像とも連なっていたのが興味深い。大垣美穂子の《Milky Way》のシリーズ、とりわけ、身体を象ったFRPに無数の穴が穿たれ、内部のLEDライトから発する光が周囲に星空のような空間を生んでいたプラネタリウムのような作品は、ミクロコスモス(身体)とマクロコスモス(宇宙)との繋がり・照応を示していて、本展の掉尾を飾るのに相応しかった。

映画『ハウス・ジャック・ビルト』

映画『ハウス・ジャック・ビルト』を鑑賞しての備忘録

監督・脚本は、ラース・フォン・トリアー(Lars von Trier)。

原題は、"The House That Jack Built"。

 

ジャック(Matt Dillon)がヴァージ(Bruno Ganz)に来し方を語る形で物語が進行。5つの章(事件=incident)とエピローグとで構成される。

ジャックは技師で、幼い頃から潔癖症であり、強迫性障害である。湖の傍に購入した地所に、自ら設計した理想の家を独力で建てようとかねて計画している。ゴシック建築が高く明るい空間を達成できたのは建材の選択によるものであったように、ジャックは建築において建材こそ重要と考えている。

ある日、ジャックが赤いバンで林道を走行していると、車がパンクしたうえジャッキ(jack)が破損してしまった女性(Uma Thurman)に助けを求められる。ジャックは8キロ先にソニー(Jack McKenzie)という自動車修理工がいると伝えてその場を離れようとするが、ソニーのところまで連れて行って欲しいと彼女に頼まれる。車中で彼女は、知らない人の車に乗るべきではないと母に教わっていたとか、ジャックは殺人鬼かもしれないとか喋り散らす。ソニーの工場に着くと、ジャックはジャッキが修理できたら連れ戻して欲しいと彼女に頼まれる。ジャックがソニーに乗せてもらえばいいと言うと、彼女は知らない人の車には乗れないと言う。ジャッキが直って彼女の車の場所まで送ったが、すぐにジャッキは折れてしまう。彼女は再度車でソニーのところまで連れて行って欲しいと頼み、車に乗り込む。彼女はジャックに人を殺せるようなタイプではないなどと軽口を叩いていると、ジャックは右手でジャッキをつかみ彼女の頭部に振り下ろして殺害する。ジャックは冷凍ピザの販売事業のため手に入れていた冷凍倉庫に遺体を運び込むと、車内を洗浄する。

ある日、ジャックは、車から物色して、1人の通りがかりの女性(Siobhan Fallon Hogan)にターゲットを定める。彼女が帰宅したのを確認して、警察官を装って訪問する。捜査を理由に家の中に入ろうとするジャックに女性はバッジを見せるよう要求する。ジャックは階級が上がったのを機に職人に磨いてもらっていると苦しい言い訳をすると、女性はバッジがないと入れられないとつっぱねる。ジャックは女性の対応が素晴らしいと褒め、実は保険会社の調査員で上からの指示で警察官を装ったと、またも意味不明な応答を重ねる。だが、ジャックが年金が2倍になるかもしれないと持ちかけると、女性はジャックを家の中へと招いてしまう。ジャックは理不尽にも長時間ドアの外で待たされたと激昂し、女性の首を絞める。ジャックは女性が事切れたと思ったが、しばらくして女性は息を吹き返す。ジャックはドーナツを砕いて入れたカモミールティーを女性の口に含ませると、改めて首を絞め、その後、ナイフを心臓に突き刺してとどめを刺す。床を洗剤を使って綺麗にしてから遺体をビニールで包んで運び出し、車に積み込みいざ出発となったところで、血が拭き取れていないのではないかが気になり出す。室内に戻って再度清掃し車に戻ると、またも血痕が気になる。そのうち、近所にパトカーがやって来る。あわててバンから遺体を降ろし、警察官に対応する。警察官は空き巣被害の件でやって来たという。ジャックは、亡夫のコレクションの件で女性のもとを訪れたのだが不在であるとか、車で待っている間に変な音がしたとか、警察官に対してあれやこれやとまくし立てる。警察官が捜査は自分に任せて関わるなとジャックに言い置いて室内を捜索し始めると、ジャックは車外に放置していた遺体に巻き付けてあったロープをバンの後ろに結びつけて、血痕が残るのも気にせず、冷凍倉庫まで運んでいく。ジャックが通った経路には赤い線がはっきりと残っていたが、折からの豪雨により血痕は全て綺麗に洗い流されるのだった。


予告編は、カンヌ国際映画祭の公式上映での途中退出者続出を宣伝文句にしていた。連続殺人犯が主人公の物語であり、殺害シーンや遺体の処理に関するシーンに気分が悪くなるような描写は確かにある。だが、フィクションに限っても殺人を扱った作品は極めて多いが、気分を害されないような描写ばかりがまかり通っているなら、むしろそちらの方が問題と言えないだろうか。

まさかそんなことはないだろうという判断が、まさかの事態を呼び込む。度を超える要素は笑いやコメディに通じる。逆に、笑いは恐怖となる。事態は反転の可能性を抱えていることが、作中、ゲーテがその下で思索したという木のある場所にナチスによって強制収容所が建設されたことで示される。

時折挿入されるグレン・グールドの演奏風景には狂気しか感じなかった。デヴィッド・ボウイの「フェイム」は、ナイフによって切り刻むような、からっとした狂気をもたらしていた。

タイトルは、マザーグースの"The House That Jack Built"から。次から次へと新しい出来事が起きても、必ず、"the house that Jack built"に帰ってくる。この童謡の構造(一種の円環構造)が、作品の骨格を成している。
アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』でも童謡がモティーフになっているが、童謡と恐怖との連関はあるのだろうか。

ゴシック聖堂。恵みの雨。ダンテの『神曲』。ラース・フォン・トリアーの旧作(『アンチ・クライスト』)。キリスト教(神)へのアプロ―チ。

映画『ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた』

映画『ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた』を鑑賞しての備忘

2018年のアメリカ映画。
監督は、ブレット・ヘイリー(Brett Haley)。
脚本は、ブレット・ヘイリー(Brett Haley)とマルク・バシェ(Marc
Basch)。
原題は、"Hearts Beat Loud"。

ニューヨーク市ブルックリン区レッドフックにあるレコード店「レッド・フック・レコーズ」。レトロな佇まいの内装とレコード・ジャケットとが味わい深い空間を生んでいる。店主で元ミュージシャンのフランク・フィッシャー(Nick Offerman)は、音楽への愛着、センス、知識については人後に落ちるつもりはない。だが、ネット販売に押されて売り上げは減少する一方で、テナント料は上昇していく。それに加え、最近痴呆が進行している母親マリアンヌ(Blythe Danner)のことがますます気がかりになっていた。フランクは、娘のサム(Kiersey Clemons)がUCLAに進学するのを機に店をたたむ決心をする。密かに恋心を抱いている友人で店舗のオーナーでもあるレスリー(Toni Collette)が来店した際、その旨を告げた。フランクは、ミュージシャンだった妻を交通事故で亡くしていたが、サムが妻の才能を引き継いでいると信じており、娘との音楽活動をかねてから望んでいた。サムは医師志望で家でも予習に励んでいるが、フランクは今を逃せばその機会はないと思い、ある晩、無理矢理即興の曲作りに参加してもらう。サムの歌声に感心したフランクはともにバンドを組もうと持ちかけるが、サムに「バンドじゃない」と断られる。フランクはサムとのセッションで作成した曲を「バンドじゃない」名義の楽曲「ハーツ・ビート・ラウド」としてSpotifyにアップロードする。サムは、ニューヨークへやって来たアーティスト志望のローズ(Sasha Lane)と付き合い始めていたが、自らはロサンゼルスへと向かう日が迫っていた。

 

登場人物それぞれの"Don't leave me here alone!"(「ハーツ・ビート・ラウド」の歌詞)が交錯するストーリー。地に足の着いたフィクションと言おうか、現実と虚構とのバランスがとれている。音楽の魅力が花を添えている。

展覧会 宏美個展『木と森』

展覧会『宏美「木と森」』を鑑賞しての備忘録
新宿眼科画廊(スペースS)にて、2019年6月7日~12日。

宏美の絵画展。

多くの作品に描かれているのは、自宅の庭。母の手入れが行き届かず、繁茂した植物により鬱蒼となった庭は、思春期から現在まで折り合いの悪い母と自分との関係に重ね合わされるという。作者は、庭に自らを投影しているのだ。

作品を印象づけるのは、描き込まれた草木の茎や枝や葉や蔓の中に、アニメーションに登場するキャラクターのような顔が複数挿入されていることである。木陰に隠れてあたりの様子を窺う様子を表現するのに、キャラクターの眼など一部だけを茂みの中に表現する手法に見覚えはある。だが、ここで描かれるキャラクターの顔は、空間に蔓延するかのように大きかったり、複数のキャラクターが重ね合わされていたり、眼だけであったりする。眼前に広がる景色に存在する植物を可視化する、あるいは植物によって見られている様を描くようにも見える。

樹木を見るのではなく、樹木によって見られる。画家アンドレ・マルシャンはそう語ったという。モーリス・メルロ・ポンティが『眼と精神』で紹介したエピソード。河野哲也は、デカルト以来の近代的な主体概念では、思考(視る)を中心としたがゆえに、見ることの受動性(視られる=身体性)を置き去りにしてしまったという論を展開する中でこのエピソードに言及していた。 

 (略)私が樹木から見られるということは、他者の顔に共感して自分を見る眼とその視線を理解したように、私は樹木たちに共感し、その樹木たちの視点から自分を捉えたのだ、と。しかし樹木に共感するとは、どういうことか。それは、私が他者の身体と自分の身体を重ね合わせたように、樹木と自己の身体を重ね合わせることである。

 森が見るとか、樹木と身体を重ね合わせるといったここでの表現は、アニミスティックで神秘主義的に思われるかもしれない。人間である私は、動物でさえない植物と、どのように身体を重ね合わせるというのか。樹木は見ることはない。そもそも眼がないのだから。こう私たちは考える。しかし、どうして私たちは、眼があれば他者が見ていると思うのだろうか。他者の視線とは何であろうか。(略)他者の視線を理解するとは、見ている他者の身体に共感し、その見るという行為、そのひとが首を向け、眼を向け、眼を凝らし、焦点を合わせている様子と見えている光景の関係性を理解することである。他者の身体の運動や表情を、自分の内的な運動感覚によって理解することが他者理解である。

 (略)樹木をひとつの運動体として捉えたときに、私たちは樹木の知覚を知る。そして、樹木が見ている経験とは、そういた運動体が私に感心を持ち、私に向けてさまざまな見る仕種を向けているかのように感じるということである。樹木が私の存在に関心を持つと感じるとは、私が樹木に与える影響を知っているということである。それは、樹木にとっての私の持っているアフォーダンスを知ることである。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房(2014年)p.54~55)

作者が植物ないし庭への関わり方は、自らの感覚の投影による擬人化であろうか。母の手入れしてきた庭に、作者は、母の存在あるいは母の視線を見出す。また、母が手に負えなくなった庭に、作者は、自分の存在を投影する。それにとどまらず、蔓延る植物に、母や自分ではどうにもならない現状(母子関係など)や、それに対する第三者から注がれる視線をも見出しているのだろう。そこには、植物からの視線、見ることの受動性も存在するように思われる。

ところで、作品をユニークなものにしているもう1つの特徴は、作品の多くに、絵画の上下左右の側面にまでキャラクターの顔(眼)が描き込まれていることだ。それぞれの側面へは、中心画面のキャラクターの髪の毛などが伸びることで、鑑賞者の視線が誘導される。それと同時に、中心画面に描かれるいま・こことは違う世界へのつながりの表現でもある。自己、自己と母、母子と第三者が織りなす現在の世界に加え、今は亡くなってしまった人たち、あるいは今はまだ関わりのない人たちといった、「見えない」存在への関係への希求が表明されているのだ。それは、作品の上側や下側に描き込まれた部分が鑑賞しづらくなっている仕掛け、普通には鑑賞できない展示から覚られる。

展覧会 北島敬三個展『UNTITLED RECORDS Vol. 16展』

展覧会『北島敬三「UNTITLED RECORDS Vol. 16展」』を鑑賞しての備忘録
photographers' galleryにて、2019年5月20日~6月16日。

北島敬三が2011年から2017年にかけて福島や青森で撮影した写真9点を展示。

北島敬三の代表作に白いシャツを着た人物のシリーズがあるせいだろうが、南相馬のショッピングセンターでも、いわきの元商家(?)でも、三厩の漁師の小屋(?)でも、川俣の山中のカーブでも、富岡のフレコンバッグでも、写し取られた対象が、薄いグレーを背景に白いシャツを着て佇む肖像のように見えて仕方がない。カラー写真ではあるが、モノクロームの世界へと遷移していく過程にあるようにも見える。そして、全ての写真が遺影でありうることに思い至る。