可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『シークレット・スーパースター』

映画『シークレット・スーパースター』を鑑賞しての備忘録
2017年のインド映画。
監督・脚本は、アドベイト・チャンダン(Advait Chandan)。
原題は、सीक्रेट सुपरस्टार。
英題は、Secret Superstar。

「女の子」を意味するインシアという名の少女(Zaira Wasim)は歌手になることを夢見る15歳。学校の遠足の帰路、列車の中でギターを取り出し、弾き語りを始める。6歳のときに母から贈られたギターは美しい音色を奏で、澄んだ歌声に車中の人々が聞き惚れる。インシアに好意を寄せる同級生のチンタン(Tirth Sharma)がやって来てインシアにコンクールのチラシを渡し、歌唱部門で参加することを勧める。駅に母ナジュマ(Meher Vij)が出迎えに来ていたが、サングラスをかけていた。うっかりぶつけたというが、また些細なことで父ファルーク(Raj Arjun)に殴られたことは明らかだった。夜、テレビで音楽賞の授賞式を見ていたインシアは母との受賞者の賭けに勝ち、学生歌唱コンクールへの参加を認めてもらおうとする。ナジュマはできない要求には応えられないと、ファルークに直接頼むよう諭す。夜遅くに帰宅した父は不機嫌で、長時間労働に耐えた夫に食べさせる料理かとナジュマが用意した料理をひっくり返す始末。インシアがコンクール参加をお願いする見込みなど全くなかった。見かねたナジュマは一念発起して金を工面し、コンクールの賞品であったノート・パソコンをインシアにプレゼントする。欣喜雀躍するインシアは、パソコンで様々なサイトをめぐるうち、自分の歌唱を撮影してアップロードし、世界中の人たちに見てもらうことを思い付く。学業専念を厳命する父に万が一でも知られてしまっては大変なので、母のアイデアでニカブを被って演奏し、「シークレット・スーパースター」名義でチャンネル登録をすることにした。少女の歌唱の素晴らしさとニカブによるミステリアスな雰囲気が話題となり、「シークレット・スーパースター」へのアクセスは急速に伸びていくのだった。

 

インド社会における女性の抑圧を、エンターテインメント業界へのシンデレラ・ストーリーの形式を借りて、告発する。鉄道のシーンから始まるのは、敷かれたレールを進まざるを得ないインシアの状況の象徴になっている。インシアは母の境遇に憤りを感じて暴走するが、その原動力はナジュマの捨て身の努力であり、そのような母の姿と、それに応えようとする娘の姿とが胸を打つ。「シークレット・スーパースター」というタイトルの真意がラストで明確に示され、大団円を迎える。

展覧会 菊池絵子個展

展覧会『菊池絵子展』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2019年8月5日~10日。

菊池絵子の絵画展。

鉛筆や消しゴムが転がる中を行く赤ずきん(《歩く・赤ずきんの場合》)、白いテーブル・クロス上を魔法の絨毯で飛行するアラジン(《旅行記 テーブル、砂漠、ポスター》)、日の丸弁当を駆け抜けるランナー(《折り返し地点、ご飯、2枚の紙》)、ホールのベイクド・チーズケーキを觔斗雲で越える孫悟空(《ケーキ、砂漠、2枚の紙》)など、身近な事物を物語の舞台に設え、小さな世界で大きな冒険が繰り広げられる。《雪山、プリン、2枚の紙》ではプリンを雪山に、御来光なのか、頂きのサクランボを目指しての登攀が試みられる。モンブランのように山の名を冠した菓子もあるのはもとより、美術作品においても、ありふれたものを見立てやサイズの変更によって異化効果をもたらす手法は特段珍しい手法とは言えないかもしれない。だが、作家の作品を特徴付けるのは、描かれるモチーフが、紙に描かれる紙に描かれることだ。紙の中に描かれた紙は、角が折れ曲がったり捲れたり、千切られたり、複数の紙がずれて重なっていたりする。あるいは白紙ではなく、真っ白なポスターや本だったりする。何かの寓意を導入する画中画ではなく、複数のモチーフを表わす扇面散らしなどとも異なる。「画餅」という言葉に象徴される、有用性や経済性といった追求を躱そうとしているのかもしれない。なぜなら、餅を描いた絵を描いた紙を描くとき、もはや「画餅」として糾弾されることはないのだから。世界に厳然として存在するシステムからは逃れようとするのは、「釈迦の手」から飛び出そうと孫悟空のようなものなのかもしれない。それでも、その企てに快哉を叫びたい。

映画『マーウェン』

映画『マーウェン』を鑑賞しての備忘録
2018年のアメリカ映画。
監督は、ロバート・ゼメキス(Robert Zemeckis)。
脚本は、ロバート・ゼメキス(Robert Zemeckis)とキャロライン・トンプソン(Caroline Thompson)。
原題は、"Welcome To Marwen"。

第二次世界大戦のベルギー。アメリカ空軍のホーギー大尉(Steve Carell)の操縦する戦闘機は、花火のような対空砲火の中を飛行している。遂に右翼に被弾し炎上したため、森を縫うように流れる川へ不時着水を試みる。着水に成功し、戦闘機から脱出することができたが、軍靴に火が燃え移ってしまった。ホーギーはやむを得ず靴を脱ぎ捨て、足にシートを巻くことで歩き始めた。道路脇に自動車が横転して打ち捨てられていて、その中には彼は放置されたトランクを見つける。トランクには女性用の衣類と高いヒールの靴とが入っていて、ホーギーは靴を拝借することにする。草原を抜けた所で、トップ大尉(Falk Hentschel)率いるナチスの兵士に行方を阻まれ、ホーギーはやむを得ず投降する。その際、彼がヒールを履いていることを知ったトップが、彼を嘲笑い、陽物は必要ないだろうとナイフを取り出すと、ホーギーがトップの股間を蹴り上げる。ホーギーがナチスの兵士たちによって殺されそうになるところで、突然銃撃が始まり、蜂の巣にされたナチス兵たちがばたばたと斃れていく。銃撃したのは、様々なコスチュームに身を包んだモデルのような女性たち。間もなくして、場面が揺れると、写真機のファインダー越しの映像であることが明らかになる。マーク・ホーガンキャンプ(Steve Carell)は、自宅の敷地に「マーウェン」と名付けたジオラマを設置してフィギュアを被写体とした写真作品を制作しており、これまでの映像はマークの頭の中のストーリーを再現したものなのであった。地面が揺れたのは、向かいに引っ越してきた住人の家財道具を運ぶトラックがすぐそばを通ったためだった。撮影を中止して自宅に戻ったマークは、フィギュアをしまい、向かいの家の様子をこっそりとうかがう。マークは、酒場で集団から暴行を受けて、瀕死の状態から生還したものの、過去の記憶を失うとともに、極度に他人に怯えるようになっていた。定期的に訪れる介護士のアナ(Gwendoline Christie)からは用量を守るよう強く諭されているが、不安を抑えるためについ処方薬を過剰に摂取していた。薬に救いを求めながらそれが良くないことだと分かっているマークは、デジャ・ソリス(Diane Kruger)と名付けたフィギュアを薬の化身かつ悪魔として祀っていた。ところで、向かいの新たな住人は赤毛のチャーミングな女性ニコル(Leslie Mann)だった。彼女にまとわりついて避けられているカート(Neil Jackson)という男の存在もあわせて知ることとなった。ニコルを気に入ったマークは、早速ロバータ(Merritt Wever)のホビー・ショップに向かい、赤毛の人形を求める。マークのことを大切に思っているロバータは、近日実施されるマークに対する暴行犯の求刑手続にマークが出廷して意見を陳述し、被告たちに相応の刑を負わせたいと考えていた。だが、マークは出廷を何とかして避けたいと考えていた。

 

現実の世界からシームレスにつながるフィギュアの世界を再現した映像が非常に精巧で素晴らしい。そのフィギュアの世界を象徴するのが服用薬と同じ緑色のデジャ・ソリスである。すなわち、フィギュアの世界=薬は、マークの苦痛を取り除くために大きな力を発揮しているが、過剰な依存はかえってマークの心身を蝕んでいくことになるのだ。悲惨な出来事に遭遇したマークを優しく受け止める人々の存在こそが、フィギュアの世界(=箱庭)と現実の世界との相互通行を可能にし、それが彼のリハビリテーションとなるだろう。

展覧会『マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展』

展覧会『マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展』を鑑賞しての備忘録
三菱一号館美術館にて、2019年7月6日~10月6日。

プリーツに覆われたドレス「デルフォス」で知られるマリアノフォルチュニを紹介する企画。

展示は7つのセクションから構成される。3階展示室には、序章「マリアノ・フォルチュニ ヴェネツィアの魔術師」、第1章「絵画からの出発」、第2章「総合芸術、オペラ ワーグナーへの心酔」、第3章「最新の染色と服飾 輝く絹地と異国の文様」が、2階展示室には、第4章「写真の探究」、第5章「異国、そして日本への関心と染色作品への応用」、終章「世紀を超えるデザイン」が、それぞれ当てられている。

ファッション・デザイナーとして著名なマリアノ・フォルチュニは、スペインの画家として名が通った父と、芸術界一家出身の母の間に生まれた。豊かな家庭には古今東西の様々な文物があふれ、幼い頃から絵を描き、早くから写真機を手にした。また、リヒャルト・ワーグナーのオペラに感化されて「総合芸術」を志し、衣装のみならず舞台照明や劇場設計までも手がけた。

 

展示の前半では、自ら撮影した肖像写真とそれをもとにしただろう肖像画をはじめ、父の作品もあわせて、絵画作品が紹介される。父がスペイン絵画を研究したように、フォルチュニもスペイン絵画やイタリア絵画を模写して研鑽を積んだという。フォルチュニによる模写の中には、聖人が垂直落下するように現れる《聖マルコの奇跡》や、美徳や高貴を宙を舞う天使(?)として、無知を落下する人物として、見上げるように描いたジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの《無知に対する美徳と高貴の勝利》が含まれている。この浮遊と落下のイメージが、プリーツにより構成されるドレス「デルフォス」に連なる。「デルフォス」は様々なカラー・ヴァリエーションのものが会場の随所に展示されているが、とりわけ床に裾が広がるものは、円山応挙の巨大な掛軸《大瀑布図》の滝の落水を想起させる。この落下・急降下のイメージは、「デルフォス」の着想源とされる青銅像デルフォイの御者》が、1896年になって突如デルフィの古代遺跡に姿を現したことにも繋がる。遙かなる時を遡行する運動は、デルフォイの御者の現代への降臨=落下そのもではないか。あるいは、ティエポロの浮遊するイメージへの憧憬に、日本の型紙に表わされた雪輪文様への愛着とを重ね合わせることもできるかもしれない。雪は舞うのか降るのか。いずれにせよ、落下のイメージがつきまとう。だが、落下だけでは「デルフォス」が生き続けることはできない。再び降臨するため、「デルフォス」には上昇のイメージも隠されている。なぜなら、「デルフォス」はたたむのではなく、巻き取り、捩ることでしまわれるドレスなのだから。再び現れる(着用される)ための回転運動。それは上昇する力として働くだろう。そのとき、プリーツは立涌文となる。あるいは、「クノッソス」を巻き付けて、着用したまま回転運動を巻き起こすのも一興だろう。このようなことを考え合わせると、フォルチュニの肖像画に描かれた手が、なぜ縦に組み合わされていたのかが分かる。そこには上昇と下降とが暗示されているのだ。

展覧会 片山高志個展『距離と点景』

展覧会『片山高志個展「距離と点景」』を鑑賞しての備忘録
Alt_Mediumにて、2019年7月25日~8月6日。

片山高志の絵画展。

壁面に並んだ《点景》のシリーズは、グワッシュ不透明水彩)で描かれた風景画。正方形の木枠に収められた、正方形の画面の中に、正方形の区画の土地をある深さで切り出した海や山、道などを描いている。科学研究のためのサンプルを取り出すように切り出された土地は、異次元の空間に放擲されたように、得体の知れない空間のなかを漂う。だが切り取られた土地に存在する波(海)や川の流れや湖面の広がり、あるいは自動車の走る道路は、切り出される前の周囲との繋がりを強く意識させる。また、画面全体に散らされた絵具の飛沫は、切り出された空間と周囲の環境を分け隔て無く覆う。

土地は隣接地と連続し、周辺環境に包摂されて存在している。資本主義の社会においては、宅地造成して分譲される住宅のように、土地を区画し売買することが当然のこととして行われているが、区画や交換が可能であるからといって、土地の本来持っている周辺環境との結びつきまで否定することはできない。だが、『ヴェニスの商人』のシャイロックが1ポンドの肉を貸付金の代わりに手に入れようとしたように、人は土地の繋がりを忘れてしまっている。《点景》は、あたかも『ヴェニスの商人』の若き判事が肉を切り取る際に一滴でも血を流せば契約違反だと難じたように、土地が環境との密接な関係性の中でしか存し得ないことを訴えようとしているのではないか。とりわけ、復興の名の下に進められる移転や、放射性物質の拡散といった、東日本大震災以後の状況に思いを致さないわけにはいかなかった。