可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ティーンスピリット』

映画『ティーンスピリット』を鑑賞しての備忘録
2019年のイギリス・アメリカ合作映画。
監督・脚本は、マックス・ミンゲラ(Max Minghella)。
原題は、"Teen Spirit"。

イギリス・ワイト島。17歳の少女ヴァイオレット・ヴァレンスキ(Elle Fanning)は、ポーランド移民である母マーラ(Agnieszka Grochowska)と二人暮らし。マーラは自らの浮気が原因で夫が去った後、その帰りを待つとして家を売らず、細々と牧畜を続けている。ヴァイオレットは家計を支えるため、学校へ通いながら家畜の世話をし、夜や週末にはパブでアルバイトをしている。多忙なヴァイオレットの心の慰めは音楽を聞くこと。賛美歌ではなく、自分の心を代弁してくれるポップ・ソングにこそ心酔している。ある日パブで"I Was A Fool"を歌うと、酔客の一人(Zlatko Buric)が熱心に拍手を送ってくれた。パブの帰りがけにその男から、娘も哀愁のある歌が好んでいるなどと話しかけられる。車で送るという申し出を断り帰ろうとしたが、一人バスを待っていると男たちに絡まれそうになり、やむを得ず車で送ってもらうことに。ヴラドと名乗る男はかつてオペラ歌手だったというが疑わしい。途中で車を降り、一人家に向かった。後日、通学途上のバスの車窓から、公開オーディション番組「ティーンスピリット」の巨大な屋外広告が目に入る。昨年優勝したキーヤン・スピアーズ(Ruairi O'Connor)がプロ・デビューを果たすなど、注目の番組だった。学校でも、ワイト島で初めて開催される予選の話題で持ちきり。ヴァイオレットはオーディションを受ける決意を密かに固めていた。歌やダンスによる一次予選に参加して見事勝ち残ったヴァイオレットだったが、二次予選の参加には保護者が同伴しなくてはならないと知って途方に暮れる。マーラが歌番組のオーディションに参加することなど賛成するはずがなかったからだ。

 

少女が鬱屈した日常を逃れ、歌手になる夢を叶えるストーリー。主人公に立ちはだかる大きな障害は存在せず、展開にほどんど起伏は無いと言っても過言では無い。それでもElle Fanningの魅力は十分映し出され、彼女の歌唱も見事なため、見応えがあった。Elle Fanningの(長めの)ミュージック・ヴィデオと言ってもいいかもしれない。

Elle Fanningの歌唱では、Ellie Gouldingの"Lights"が役柄の雰囲気・ストーリーに一番ぴったりはまっていた。Sigridの"Don't Kill My Vibe"が採用されていたのも嬉しい。

字幕を追うばかりで聞き取れなかったが、母娘の会話はポーランド語だったのだろう。歌にポーランド語に、Elle Fanningはすごい。

展覧会 川野美華個展『Kein Zutritt』

展覧会『川野美華展「Kein Zutritt」』を鑑賞しての備忘録
日本橋高島屋美術画廊Xにて、2020年1月8日~27日。

川野美華展の絵画展。

ゆがめられたり引き延ばされたりした身体や器官のイメージからはフランシス・ベーコンを、画面に何かを貼り付ける技法や人なつっこさからは桂ゆきの作品を想起させる。人体や生物などの生命を感じさせるモティーフを扱いながら、それらが現実的な形態から離れさせることでダーク・ファンタジーの世界を立ちあげている。だが、その世界に暗さはなく、むしろ明るさを感じる。その相反するイメージの同居は、展覧会のタイトルを「立ち入り禁止(Kein Zutritt)」にしてしまう諧謔からも偲ばれよう。絵画は視覚=非接触知覚の芸術であり、その作品に触れることはできない以上、およそ絵画作品は「立ち入り禁止」だとも言える。だが、触覚に訴えかけるモティーフを描きこむことで、視覚を通じて絵画に「触れる」仕組みを用意している。その仕組みとは触角のように伸ばされた目、舌、つけまつげなどオブジェの貼り付けである。山が雲に覆われようとしている様を描いた《Die Wolke isst den Berg.(雲が山を食べる。)》と題された作品が象徴的だ。手につかむことができないが目にすることはできる雲は視覚を、山は世界=対象を表す。視覚によって対象をとらえる。のみならず、画面には、雲の持つ手の存在が示されている。視覚と触角とが手をつなぎ、世界を飲み込む。絵画によって世界=対象を我が物としてしまうのだ("Die Wolke ist den Berg.(雲は山である。)")。そう気づいたときには既に鑑賞者は作者に包摂されてしまっているだろう。

映画『パラサイト 半地下の家族』

映画『パラサイト 半地下の家族』を鑑賞しての備忘録
2019年の韓国映画
監督は、ポン・ジュノ(봉준호)。
脚本は、ポン・ジュノ(봉준호)とハン・ジヌォン(한진원)。
原題は、"기생충"。英題は、"Parasite"。

キム・ギテク(송강호)の一家は全員職がなく、半地下で貧しい暮らしを強いられている。上に住む家族のWi-Fiを使用していたが、ある日パスワードが設定されてしまったため、ネットにアクセスできなくないと息子のギウ(최우식)が困惑している。ギテクがスマートフォンを上に向けてフリーのWi-Fiを探すようアドヴァイスすると、トイレで最近出来たカフェのWi-Fiを拾うことができた。一家は近所のピザ屋から宅配用の箱を組み立てる内職を請け負っていたが、引き取りに来た店長(정이서)からは4分の1は使い物にならないと報酬を10%減額されてしまう。娘のギジョン(박소담)は、ピザ屋のスタッフが辞めてしまった情報をつかんでおり、ギウはアルバイトさせて欲しいと店長に申し出るが、色よい返事はもらえない。一家が内職の報酬で食事をとっているところへ、ギウの友人でソウル大学校工科大学に学ぶミニョク(박서준)が祖父のコレクションだという縁起物の山水石を手土産に
訪れる。ギウを飲みに連れ出したミニョクは、留学するに当たって、高校2年生のパク・ダヘ(현승민)の英語の家庭教師の仕事をギウに引き継いでもらいたいと申し出る。ギウは大学生ではないため、ミニョクの大学の同級生に当たるよう提案すると、ミニョクは、本気で愛情を持っているダヘを工科大学の連中には任せられないと言い、酒浸りの学生などより大学受験を何回も経験しているお前の方がはるかに指導に向いているとギウを説得する。妹のギジョンが美術の才能を活かしてソウル大学校の学生証を偽造すると、ギウは「ケヴィン」としてダヘの家へと向かう。指定された住所は目を見張る豪邸だった。ダヘの父パク・ドンイク(이선균)はIT企業のCEOとして成功した人物で、ギウを迎えた家政婦(이정은)によれば、建物はかつて高名な建築家が自ら設計した自邸だったという。ダヘの母ヨンギョ(조여정)は、ミニョク先生のレヴェルで指導できないのならばお引き取り願いたいと、授業の様子を見学するという。ギウはダヘの問題の解き進め方を観察し、受験に向けた意識について諭す。娘ダヘと母ヨンギョの心をつかんだギウは、ヨンギョから息子ダソン(정현준)についての話を聞く。芸術的な才能は持っているのだが落ち着きがなく困っていると。ギウはアメリカ帰りの優れた美術の先生がいるから紹介しますと、妹のギジョンを家庭教師として送り込むことを企てる。

 

自分の匂いは、他人からは比較的容易に認識されたとしても、自分自身ではなかなか認識できない。自分の匂いは恐ろしい。

キム・ギウが豪邸での生活にふさわしいのかどうかパク・ダヘに尋ねるシーンがある。環境が「下流社会」に固定化してしまうまなざしを生んでしまう。それもまた恐怖だろう。

恐ろしさは心理面が中心で、過激な残虐描写はないので、幅広く見てもらえる作品に仕上がっている。

パク家の人物が抱える問題は匂わせる程度に提示されるがはっきり描かれない。その匙加減が絶妙。

「運転手用の食堂」や「ドイツ人」は송강호が主演した장훈監督の『タクシー運転手 約束は海を越えて(택시운전사)』を連想させるが、それを踏まえて制作されているのだろうか。

展覧会『サラ・ベルナールの世界展』

展覧会『パリ世紀末ベル・エポックに咲いた華 サラ・ベルナールの世界展』を鑑賞しての備忘録
渋谷区立松濤美術館にて、2019年12月7日~2020年1月31日。

アルフォンス・ミュシャのポスターなどでおなじみの、ベル・エポックのフランスを代表する女優サラ・ベルナールを紹介する企画。

2階展示室では、第1章「サラ・ベルナールの肖像 女優、時代の寵児として」と銘打って、サラ・ベルナールの肖像写真や肖像画とともに、舞台での装身具などが紹介される。女優として活動を開始した19世紀中葉と肖像写真の流行期とが重なっていた彼女は、肖像写真や舞台の写真など、自らのイメージの演出にも腐心したらしい。ウジェーヌ・サミュエル・グラッセが手がけた舞台『ジャンヌ・ダルク』のポスターでは、縮れ毛や顔の向きが気に入らないと修正させたという(修正前後の作品を展示)。家族や仕事仲間だけでなく、ギリシャ彫刻のような肉体を誇ったルー・テリジェンを始め、恋仲にあった人々の姿も写真により紹介されている。
地下1階展示室は3つのセクションで構成されている。第2章「パトロンとしてのサラ・ベルナール ミュシャとラリックの関係」では、アルフォンス・ミュシャがデザインし、ルネ・ラリックが制作した冠を象徴として、サラ・ベルナールが有能な作家を庇護したことを紹介する。第3章「サラ・ベルナールとその時代 ベル・エポック」では、アルフォンス・ミュシャの制作したポスターやルネ・ラリックの手がけたアクセサリーをはじめ、ベル・エポックを街を賑わせた大判のカラー・リトグラフのポスターなどが紹介される。第4章「サラ・ベルナール伝説」では、サラ・ベルナールが自ら興業を取り仕切る経営者であり、劇団を起ち上げ、劇場を借り上げたこと、さらに、戯曲を書いたり(『告白』を展示)、彫刻を制作したり(《嵐の後》の石膏原型の写真を展示)と、マルチな才能を発揮したことを取り上げる。ブロンズ作品《キメラとしてのサラ・ベルナール》には八面六臂の自らのイメージが投影されているようだ。彫刻家としてのイメージを自刻像の前で白いピエロの衣装に身を包んだ写真(撮影はアシル・メランドリ)で流布させているが、アンドレ・ジルなどがカリカチュアに翻案してそのイメージをさらに広めることになった。諷刺画家のシャルル・アンドレの《サラ・ベルナール礼賛》では横向きで天を仰ぐサラ・ベルナールの顔は蛇の体のように複雑に折れ曲がった形で表されているが、揶揄よりもむしろ驚異的な能力に対する畏れが含意されているのかもしれない。異才の片鱗は、1878年のパリ万博で搭乗した気球の経験をもとに著した本において、「椅子」が印象を語る体裁をとっていることにもうかがわれる(書籍『雲の中である椅子の印象』)。

展覧会 立原真理子個展『くさまくら』

展覧会『立原真理子展「くさまくら」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2020年1月6日~18日。

会場の中央には、上半分を白い糸で下半分を青い糸で縫った蚊帳が吊ってある。4
面あるが、3面は正方形のうちの3辺を作るコの字型に廃され、奥の面だけは、蚊帳が囲う空間の内部に入ることができるよう斜めに配されている。緑色を基調とした糸を用いていくつかの島影が刺繍され、蚊帳の白と青とが空と海とを強くイメージさせる。《くさまくら》と題されたこの作品に近づくと、垂(しで)を下げた注連縄(しめなわ)が結ばれた樹木や、五色絹の吹き流しなど、境内のような聖域を表す表現が目に入ってくる。島の中に立つ朱の鳥居にも気がつく。

イタリア・ルネサンス期のレオン・バッティスタ・アルベルティが、その著書『絵画論』の中で「私は自分が描きたいと思うだけの大きさの四角のわく〔方形〕を引く。これを私は、描こうとするものを通して見るための開いた窓であるとみなそう」と記して以来、「窓」が絵画における重要なテーマになってきたという(蔵谷美香「窓からの眺め、リミックス」東京国立近代美術館編『窓展:窓をめぐるアートと建築の旅』平凡社/2019年/p.148-149)。絵画は、窓の持つ機能のうち、外界を見渡す役割を代替してきた。見通しのきかない壁面に世界への眺望を導入したのだ。その点、立原真理子は、窓の眺望機能の代替ではなく、窓の眺望と共存する装置として、網戸に着目した。網戸に刺繍することで、絵画として現在しない景観を表しつつ、現前の光景を見通すことを同時に可能にしたのだ。《くさまくら》は網戸ではなく蚊帳をメディウムとして用いている。襖絵や屏風絵のように絵が建具に描き込まれきたという来歴に照らせば、網戸や蚊帳に装飾を施すのはむしろ正統な表現とも言える。それでも、ガラスやアルミサッシなどによる密閉型の住環境が主流の現代日本において、蚊帳の利用は減っているだろうから、蚊帳の利用は奇異に映るかもしれない。だが蚊帳の選択はむしろ必然であった。美術品の展示空間の多くは、平均的な住空間よりもさらに密閉された空間であろう(だからTHE PLAY《MADO 或いは返信=埒外のものを愛せよ》が衝撃的な作品になり得た。前掲書p.118)。ゆえに開口部のない展示会場では、網戸を用いた作品の意義を十分に理解させることは難しかった。外部環境との境界に設置できないからである。だが、蚊帳であれば、そもそも屋内空間において緩やかな境界を生み出す装置であるから、ギャラリー内部に設置するとき、その機能をより容易に認識しうるのだ。現実の視界を確保したまま、作者の刺繍による表現が組み合わさる。これは、スマート・アイウェアの社会のメタファーである。仮想・描出された表現のみをモニターに見るのではない。現実までもがその皮膜のようなディスプレイを通じてとらえられているのだ。その皮膜を聖化して有り難く受け容れるのみで良いのだろうか。一歩足を踏み出して境界を越えて見よ。そこには空虚が広がるばかりかもしれない。