可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『空に住む』

映画『空に住む』を鑑賞しての備忘録
2020年製作の日本映画。118分。
監督は、青山真治
原作は、小竹正人の小説『空に住む』。
脚本は、青山真治池田千尋
撮影は、中島美緒。
編集は、田巻源太。

セレブが入居することで知られる都心のタワーマンション「ル・ソレイユSHIBUYA」。そのエントランスに到着した小早川直実(多部未華子)が、ペット用のバックパックのカプセルを池に向け、猫のハル(りんご)に見せる。41階に住む叔父の小早川雅博(鶴見辰吾)が直実を迎えに駆けて出てくる。39階にある部屋に着くと、叔母の明日子(美村里江)が2人を迎え入れる。洒落たインテリアのリビングルーム。ハルをバックパックから解放してやる。大きな窓からは眼下の都心の街並みを覆うように大きな青空が広がっているのが見える。雅博叔父さん、ありがとうございます。「雅博叔父さん」なんて呼ばれるのいいね。「マー君」でいいのよ。そうそう、苦しいだろうと思って開けてしまったよ。雅博が、直実の引っ越しの段ボール箱から、交通事故で亡くなった兄夫婦の位牌を取り出す。窓辺に置かれた台に設置すると、3人が手を合わせる。四十九日の代わりね。直実が雅博に訴える。やっぱり家賃を払わせてください。いいんだよ、投資だと思っているから。気に入らなくなったら出ていけばいいわ。
直実は1時間以上電車に揺られて郊外の古民家にある出版社「書肆狐林」へ向かう。同社の編集者である直実にとって、両親の不幸があって以来久々の出社だった。後輩の木下愛子(岸井ゆきの)のお腹は大きくなっていた。柏木(髙橋洋)さんは? 編集長なら吉田先生(大森南朋)の原稿を持って昨晩から自習室に籠もりっぱなしですよ。吉田理は以前直実が担当していた。長年の努力が実って著名な文芸賞を受賞し、原稿は受賞後第一作だった。出前を取ってくれと編集部に顔を出した柏木によれば、吉田は書き下ろしに拘っているという。だが柏木はそれでは後が続かないと月刊誌への連載を考えていた。直実は吉田の担当に復帰することを柏木に願い出るが、留保される。編集部を訪れた吉田は、柏木に書き下ろしで出さないなら他に持ち込むと言い切る。柏木は折れるほか無かった。
叔父夫婦がご馳走を用意して直実の引っ越し祝いをする。僕から一言。それはいいから乾杯しましょ。薄手の今にも割れそうなワイングラスを合わせる。お義兄さんが直実ちゃんのこと褒めてたって言ってたでしょ。そうだったっけ? 結婚式のときよ。兄貴も僕も酔っ払ってたからなあ……そういや「くも」みたいだって、褒めてたよ。
直実はマンションのエレベーターで降りようとして誤って昇りに乗ってしまう。すいません。謝る必要あるの? 居合わせた男は売り出し中の俳優・時戸森則(岩田剛典)だった。直実の部屋の窓からは彼の大きな看板「WILD IS THE WIND」がいつも目に入っていた。
叔父夫婦と直実は休日を釣り堀で過ごすことに。直実と雅博が釣り竿を垂らし、明日子は後ろで横になりながら飲み物を飲んでいる。作家ってのは凄いよな、次から次へと嘘が書けるんだから。嘘じゃないでしょ、創作、フィクションよ。
書肆狐林で昼食をとる直実と愛子。風邪引いたかも、昨日寒いところにいたから。先輩は気付いてましたか、この子が吉田先生の子だって。まあね。やっぱり!
直実がマンションのエレベーターに花を持って乗り込むと、そこには大きな花束を持った時戸がいた。私のはもらったものじゃないんですよ。花瓶の花を枯らしたくないから、枯れる前に買ってくるんです。じゃあこれあげるよ、どうせ捨てちゃうし。39階でエレベーターを降りた直実に時戸が声をかける。花の代わりにオムライス作ってくれない? 今朝からなんだか無性に食べたくなっちゃって。 今……ですか? 戸惑いつつも直実は時戸を部屋に迎え入れる。

 

以下では、結末に関わることにも触れる。

『空に住む』における「空」とは絵「空」事(=フィクション)を意味する。両親からの愛情に飢えていた小早川直実(多部未華子)は幼い頃無理に風邪を引く。両親を自分に振り向かせるために実際に風邪を引いてみせたのだ。そのような心の隙間を埋めたのが猫のハルだった。以来、直実とハルは一心同体であった。両親が亡くなり、叔父夫婦の援助でタワーマンションに暮らすようになる。39階という高い場所に住むことは、空に住むことであり、フィクションの世界に生きることを意味した。若手有望株の俳優・時戸森則(岩田剛典)との交際がそれを象徴している。だが現実という地に足を付けて生きてきた直実(「直」面する現「実」!)を象徴する猫のハルは、フィクションの世界に生きながらえることはできない。ハルの死は、直実がフィクションの世界に(も)生きると決断したことを意味する。ペット葬儀屋(永瀬正敏)の「平行線が交わる話」(川を渡る鉄道の映像が複線もとい伏線になっている)を聞いて、フィクションと現実とはいつか交わると得心したからだ。直実が(ハルがいなくなった)自室に時戸を招いて本を出版するための取材(インタヴュー)をするのは、フィクション(マンション)と現実(古民家)とが交わったことを表現している。
愛子の結婚式に向かう際、吉田理(大森南朋)の一家を見かけた直実は、咄嗟に身を隠そうとする。直実と吉田理との関係が暗示され(雅博(鶴見辰吾)の作家と付き合うというのもフィクションかとの釣り堀での言葉が伏線になっている)、「男も仕事も沢山ですわ」という直実の台詞や、時戸とのサバサバとした交際、さらには破水した愛子(岸井ゆきの)に対して最後まで引き受けろと叫ぶ心理などの背景が明らかにされる。


ポスト・トゥルースなんて、今に始まったことじゃないだろう。

展覧会 奥谷葵個展『日本昔話』

展覧会『奥谷葵展「日本昔話」』を鑑賞しての備忘録
JINEN GALLERYにて、2020年10月20日(火)〜11月1日。

洋館の壁紙を思わせる落ち着いたベージュの画面に西洋風に表された日本の昔話にまつわるモティーフを鏤めた絵画で構成される奥谷葵の個展。

《舌切り雀》には、写真のように精密に描かれた雀のカードが画面にテープで貼られている。カードの一部には挟みが入ったように切り取られているが、切り取られた部分をテープで留めてある。切り取り線のような破線が画面を大きく蛇行しながら横切っている。パピエ・コレに見えるが、黄ばんだ紙やテープも含め全て描かれたものだ。スズメ、切り取り、糊(貼る)という「舌切り雀」の要素を鏤めた一種の留守模様であり、トロンプ・ルイユでもある。
《兎と亀》は、手を繫ぐ姉妹のような2人の少女の後ろ姿のイラストが貼られている。妹(?)の頭に耳、腰に尻尾。姉の背には♯を丸で囲んだものがそれぞれ描き込まれている。無論、兎と亀の見立てである。イラストの上部を留めるのは、スタートラインを示すようなチェックのテープだ。画面下部にはイラストを留める役割をも果たすテープの切れ端は、画面を横切るようにリズミカルに貼られ、ぴょんぴょんと跳ねるイメージを引き出している。全て描かれたトロンプ・ルイユである。「妹」を兎に、「姉」を亀にキャスティングすることで末子成功譚の系譜から外すひねりも加えられている。
かぐや姫》は、画面下部にウェディングドレスの新婦とスーツの新郎の姿。その上部、画面を大きく占めているのは、縦横に貼ったテープで表現された巨大な月。この月を大きく配するバランスが、SF作品のスペクタクルを画面に呼び起こすことに成功している。無論、全ては描かれたものである。
《鶴の恩返し》には『不思議の国のアリス』のアリスを描いたようなイラストが貼られた上に、左右にパラフィン紙が古いものと新しいものとが二重に貼られている(ように描かれている)。カーテン越しに少女を覗き見るような構図になっているのだ。兎穴に落ち、部屋に閉じ込められる、体が変化するといったアリスの姿を自ら部屋に閉じこもる鶴に擬えるのだ。
一寸法師》における「シュレッダー」の表現、《かちかち山》におけるモザイクの表現など、その他の作品にも様々な仕掛けが凝らされていていずれの作品にも強く興味がそそられる。

展覧会 清水智裕個展『出現率1%』

展覧会『清水智裕展「出現率1%」』を鑑賞しての備忘録
銀座三越本館7階ギャラリーにて、2020年10月21日~27日。

清水智裕の絵画展。

《遠雷》や《轟音》の佇立する女性像には「震え」を感じる。この「震え」とは、音が波として物理的力を発揮する様と言い換えられる。靄がかかる湿度を感じさせる画面であるがゆえに、かえって障壁をものともせず伝わる振動の威力が強調されるようだ。たとえ他者の存在そのものは表されていないとしても、否、不在であるがゆえに、他者と自己とを自由に往来する共感の力(=共鳴)が感じられる。他者と自己との距離を越えて境界を行き来する感覚は、ディック・ブルーナ(Dick Bruna)の『ミッフィーのおばけごっこ(het spook nijntje)』のように布を被ることで少年が異界へ渡るかのような《ワンダー》、エアコンの室外機を朧月に見立てることで異界へのワームホールを作り上げる《Exit》、アルノルト・ベックリン(Arnold Böcklin)の《死の島(Die Toteninsel)》の向こうを張るかのように都市に不意に姿を現した生命の(bio)場(topos)である《ビオトープ》などの作品に通底するものだ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent van Gogh)の《靴(Schoenen)》を髣髴とさせるブーツを描いた作品を《箴言》と題するのは、世の中を渡るため身につける知恵のメタファーであろう。

映画『博士と狂人』

映画『博士と狂人』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のイギリス・アイルランド・フランス・アイスランド合作映画。124分。
監督は、P・B・シェムラン(P. B. Shemran)。
原作は、サイモン・ウィンチェスター(Simon Winchester)の『博士と狂人:世界最高の辞書OEDの誕生秘話(The Professor and the Madman: A Tale of Murder, Insanity, and the Making of the Oxford English Dictionary)』。
脚本は、トッド・コマーニキ(Todd Komarnicki)とP・B・シェムラン(P. B. Shemran)。
撮影は、キャスパー・タクセン(Kasper Tuxen)。
編集は、ディノ・ヨンサーテル(Dino Jonsater)。
原題は、"The Professor and the Madman"。

 

1872年。ロンドン。収監されていたウィリアム・チェスター・マイナー博士(Sean Penn)が法廷に勾引されていく。ジョージ・メレット(Shane Noone)殺害事件の審理が行われるのだ。マイナー博士はかつてアメリカ陸軍の軍医だったが、左頬に焼き印のある男に命を狙われてイングランドに渡る。ある晩部屋に自分を付け狙う男が侵入していることに気が付き、拳銃を手に追跡する。自宅に逃げ込もうとした男を、出迎えた妻のイライザ(Natalie Dormer)の目の前で撃ち殺すが、人違いであった。陪審員(David Heap)は精神異常により無罪であると判断し、それを受けて裁判長(Bosco Hogan)は保護処分の判決を下す。マイナー博士はブロードムアにある精神病院に収容されることになった。独居房に入ったマイナー博士は最初の三日間は一睡もできなかった。左頬の焼き印のある男の襲撃を相変わらず恐れていたのだ。院長のリチャード・ブライアン博士(Stephen Dillane)は地位も学識もある男の症例に興味を抱き、身体的特徴や行動を詳細に記録していった。ある日、施設内で収容者を移動させている最中、昇降式の鉄製の門扉が落下し、不運にも刑務官の脚に刺さってしまった。刑務官のマンシー(Eddie Marsan)らが門扉を引き上げるが脚から抜くことができない。マイナー博士は自分のベルトを取り出して止血を図った上で、マンシーに最寄りの外科医や鍛冶屋を尋ねる。遠距離だと知ると、鋸を持ってこさせる。マイナー博士は果断に切断の処置を成功させる。この一件の後、マンシーやコールマン(Sean Duggan)ら刑務官はマイナー博士に敬意をもって接するようになった。
ロンドン郊外のミルヒル。ジェームズ・マレー(Mel Gibson)が妻のエイダ(Jennifer Ehle)とともに学生たちが興じるホッケーを観戦している。選手である息子のハロルド(Robert McCormack)を呼び寄せて指示を出す。狙い通りハロルドは得点するが、暴言を吐いて退場となる。
オックスフォード。オックスフォード大学の図書館で、英語辞典の編纂者候補に対する面接試験が行われている。14歳で学業を終えた後は独学してきたと主張するジェームズ・マレー(Mel Gibson)に対し、オックスフォード大学出版局の面々は苦笑する。だがマレーの能力を買うフレデリック・ジェームズ・ファーニヴァル(Steve Coogan)は、これまで20年間に渡り錚々たる学者の面々が編纂に当たりながら成功していないことを指摘し、アカデミックのお歴々とは異なったマレーの力が必要だと訴える。マックス・ミュラー(Lars Brygmann)から学位に代わるような資格は無いのかと尋ねられたマレーは、アーリア語族、シリア・アラビア語族の言語の一般的な知識を有し、ロマンス諸語のうちイタリア語、フランス語、カタルーニャ語スペイン語ラテン語には詳しく、チュートン語派ではオランダ語を身につけているなどと淀みなく答える。"clever"の定義や語源を尋ねられたマレーは、「賢い」、「巧みな」、「ずる賢い」などの語義を列挙した上で、「切れ味がいい」を意味するドイツ語やオランダ語に由来すると即答する。晩餐の席でも議論は続いた。ミュラーによれば、大英帝国の版図は世界に跨がっており、現在頂点を極める英語は今後衰退していくこと必定、従って現在の典雅な英語を規範として採録すべきだという。ファーニヴァルは古語や死語、外来語も含め、あらゆる言葉を見出し語に採用し、文献から用例を収録して語義の変遷を辿ることのできる辞書こそ編纂する意義があると説く。だが、そんな大それた企ては可能なのか。マレーはナプキンにソースでボランティアを募る文面を描いて回覧させる。英語を話す世界中の人たちに自分の使っている言葉を記録したカードを送ってもらうというアイデアであった。
マレーは妻にオックスフォード大学出版局が刊行する英語大事典の編纂者になったと告げる。せっかく築いた安定した生活を擲つ必要があるの? これまでの研鑽を活かせる畢生の大事業なんだ。これまで通り私を支えてくれないか。決めたのならやり遂げてください。子供たちが2人のもとにやって来る。辞書を作ることになったんだ。辞書って何? 言葉の意味が説明されている本だよ。マレーは沢山の本を積み上げてみせる。これまでにない大きな辞書なんだ。happyもある? もちろん、sadも載っているよ。

 

アカデミズムから離れた場所にいながら『オックスフォード英語大辞典(OED)』編纂を担当することになったジェームズ・マレー(Mel Gibson)と、彼の協力者で精神病院に収容されていたウィリアム・チェスター・マイナー博士(Sean Penn)という2人の人物とその交流に焦点を当てた、OED誕生秘話。
ジェームズ・マレー(1837-1915)が独学でヨーロッパを中心とする諸言語に通じていたことに驚嘆する。彼のようにアカデミズムに属さない人物が業績を残したという点で、日本においては植物分類学者の牧野富太郎(1862-1957)が匹敵するだろうか(アカデミズムの人間に敵愾心を抱かれてしまう点でも似ている)。マレーの場合、スコットランド出身ということも気に入られなかった理由であることが劇中で示される。
南北戦争での体験がウィリアム・チェスター・マイナー博士の精神に異常を来した。また、精神病院の「治療」が病状を悪化させた。戦争と精神病院とによる人間の破壊。
文献の探索、カードの整理、早くからの補遺の計画など、大部の辞書の編纂事業の過程が面白い。
approveの17~18世紀の用例がない(まだaの途中なのに編纂が進まない!)とか、artの持つ多岐にわたる語義をどのようにまとめるかといった辞書編纂の悩みをもっと堪能させて欲しかった(例えば発音の採録など)。
ジョン・ミルトン(John Milton)の『失楽園(Paradise Lost)』やチャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)の『大いなる遺産(Great Expectations)』など英文学に精通しているともっと楽しめそう。
かつて原作は読んだことがあったが、幸か不幸か初めて接するように映画を味わうことができた(原作の内容をほぼ忘れてしまっていた)。
マレーの妻エイダ(Jennifer Ehle)の首が強調された映像が多かったように思うが、どのような意図があったのだろうか。

展覧会 小川愛個展『sand sea』

展覧会『小川愛「sand sea」』を鑑賞しての備忘録
gallery N 神田社宅にて、2020年10月17~31日。

トーストの立体作品のような絵画(キャンバスに油彩)のシリーズから成る、小川愛の個展。

バターやジャム、半熟の目玉焼きなどが載ったトーストが壁面に並んでいる。石膏その他の素材が併せて用いられているが、4枚切り(?)にスライスされた食パンを模したキャンバスに油絵具を用いて描いた絵画である。焼きすぎて焦げたかのように黒ずんでいるものが多い。ホテルやカフェで供されるトーストではなく、時に焦げ付かせてしまい、また時に蜂蜜やジャムを塗りすぎてしまう日常性を映し出そうとの意図であろうか。荒々しい筆触にはフィンセント・ファン・ゴッホの絵画を想起させるものがある。溶け残るバターがひまわりに、渦巻くクリームとジャムや半熟の目玉焼きが太陽に見えてくるのだ。ところで、ゴッホはかつて聖職者の道を志したが、キリスト教において、パンはキリストの肉体を表す。トーストに作者の身体ないし自画像を重ねることも不可能ではないだろう。
ほとんどの作品には展覧会タイトルと同じ《sand sea》というタイトルが冠されている。なぜパンが"sand sea"なのか。作者は「絵を描き、生きていくことは、果てのない砂漠や砂浜を歩き続ける感覚と似ている。」とのコメントを寄せている。生きることが食べることであるなら、トーストにバターを塗る(=食べる)ことはキャンバスに絵具を重ねていく(生きる)ことかもしれない。生み出された作品がそのまま人生行路(すなわち"sand sea")を表すことになる。
展示室の中央には、立方体に近い(「半斤」の?)巨大なトーストが鎮座している。イチゴジャム(?)の混ざったクリームがど真ん中に瀧のように流れ落ち、その重みに耐えかねるようにパン(キャンバス)がへこんでいる。旧約聖書において「乳と蜜の流れる地」(出エジプト記第3章第8節など)と表現される「約束の地」のように、"sand sea"のどこかには安住の地があるのであろうか。あるいは、女性のからだのメタファーかもしれない。白い精液が赤い血液と混ざり合い、穿たれた穴へと注がれる。女性の身体表象と"sand sea"を重ねるのならば、安部公房の『砂の女』が連想される。"Two's company, three's none."(恋人たちは2人にしておけ)との諺もある。そもそも"company"とはpanis(パン)をcom(ともに)することを原義とする語であった。