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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『ポーラ ミュージアム アネックス展2021―主体と客体―』

展覧会『ポーラ ミュージアム アネックス展2021―主体と客体―』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2021年1月15日~2月7日。

「ポーラ ミュージアム アネックス展」は、公益財団法人ポーラ美術振興財団の「若手芸術家の在外研修に対する助成」を受けた作家による在外研修の成果発表のための展覧会。「主体と客体」と銘打った2021年前期展では、プラスティック製のボトルやプラモデルなど身近な製品に手を加えた彫刻を手がける伊佐治雄悟(スウェーンデン)、自ら制作した彫刻を用いた映像作品を仕立てる石川洋樹(イギリス)、モザイク画や焼き物を拵える谷本めい(トルコ)、絵画のような表情を持つ写真を制作する脇田常司(ドイツ)を紹介。

石川洋樹の作品について
ブロンズにニッケルメッキを施して作られた銀色に輝く能面《Mask》。《masquerade》は、《Mask》を被った男性がタクシーの後部座席に座り、夜の新宿、六本木、銀座などを巡る様子をとらえた20分強の映像作品。運転手とのやり取りの中で、男性の置かれた状況が徐々に明らかになっていく。父を亡くし、母が病気になり、家族を養うためにフィリピンから技能実習生として来日して2年半。ほうれん草のハウス栽培の経験はフィリピンで役に立つことはなく、何の技能も身につけられない。孤独に苛まれ、とりわけ故郷の娘を思うとき、感極まる。その表情は能面の陰に隠されており、会話から推し量るほかない。暗い車内で、イルミネーションやサインボードの目映い光が鏡面のような能面に映り込む。能面はあたかも車窓と一体となるように溶ける。一方、男性の存在も闇に沈むことで消えている。見ようとしなければ見えない存在に、作家は意識を向けさせようとしているのだ。日本社会の虚飾と、それを支える日の当たらない存在とを鮮やかに映し出す。スタイリッシュに世相を斬る手腕は、デヴィッド・クローネンバーグ(David Cronenberg)監督の映画『コズモポリス(Cosmopolis)』(2012)に通じるものがある。

映画『パリの調香師 しあわせの香りを探して』

映画『パリの調香師 しあわせの香りを探して』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のフランス映画。101分。
監督・脚本は、グレゴリー・マーニュ(Grégory Magne)。
撮影は、トマ・ラメ(Thomas Rames)。
編集は、ベアトリス・エルミニ(Béatrice Herminie)とグウェナエル・マロラン(Gwenaëlle Mallauran)。
原題は、"Les parfums"。

 

ギョーム・ファヴル(Grégory Montel)が、9歳の娘レア(Zélie Rixhon)をスイミング・プールに連れてきた。泳いでお腹が空いたと訴える娘に、菓子の自動販売機を示す。どれにするんだ。小銭がないな。持ってるか? ギョームは娘が心配するのも気にせず自動販売機をガタガタと揺らし出す。ギョームの動きに気が付いたインストラクターがプールサイドから飛び出して来る。硬貨を入れたんだが、出てこないんだ。インストラクターは自動販売機の扉を開けて菓子を取り出すと、レアに渡す。ギョームは、レアから菓子を分けてもらう。
裁判所の一室。ギョームの弁護士(Paul Jeanson)が判事(Jeanne Arènes)に書類を差し出す。20平米のワンルーム? いや、25平米はありますよ。あなたの友人が来たり、深夜にテレビを見ているとき、娘さんはどうなるんです? ルーシー(Lisa Perrio)とその弁護士(Irina Solano)も出席して、ギョームが共同親権を行使してレアと同居することの可否が話し合われていた。年頃の娘のための空間を用意できない限りギョームに同居は認められないと判事は判断を下す。
ギョームが中華レストランに入る。カウンターでコーヒーをもらい、奥のテーブルへ。そこはアルセーヌ・ペリシエ(Gustave Kervern)が営むハイヤー会社の事務所代わりに使用されていた。テーブルの上にギョームの車の鍵が無い。俺の鍵はどこだ? また速度違反しただろ、バッチリ写ってる。アルセーヌはギョームに写真を渡す。9ポイント目だ。もう3ポイントしかない。アルセーヌ、馘は困るぜ。無職になったら娘のために部屋を借りられなくなっちまう。必死に懇願するギョームにアルセーヌが折れ、アンヌ・ヴァルベルグ(Emmanuelle Devos)の送迎をするよう指示して鍵を渡す。
ヴァルベルグの住まいの前に車を停め、門のインターホンを押す。マダム、ハイヤー会社の者です。マダムじゃないわ。3階に上がって。ギョームが顔を見せると、アンヌは荷物を降ろすよう指示する。グレーのスーツケースは丁寧に扱って。荷物を降ろし、車に積む。グレーのスーツケースは嵩が張っているが何とかトランクに詰め込めた。グレーのスーツケースは後部座席に置いて。アンヌが助手席に座る。高速の入口で停止した際、アンヌはギョームにヴァージニア産の煙草を吸っているのではと指摘する。よく分かりましたねとギョームがポケットから箱を取り出すと、アンヌがそれをもぎ取り、車外のゴミ箱に投げ捨てる。何するんですか! 禁煙よ。ギョームは慌てて車を降り、ゴミ箱からタバコを取り出す。途中、給油に立ち寄った際、ギョームは美味そうに煙草を吸う店主(Claudine Baschet)に勧められて一服する。トイレで喫煙の証拠を隠滅したギョームが車に戻る。煙草を吸ったでしょ? ここの店主の煙草の臭いが移ったんですよ。アンヌはギョームの手を取ると臭いを嗅ぐ。すると、車を降りて、トイレへと向かう。水道に取り付けられていた石鹸を見てご満悦のアンヌ。昔、イギリスで海水浴に行ったときに置いてあったお気に入りの石鹸と同じだったのだ。アンヌはこの石鹸が欲しいと訴えると、店主は在庫の新品を取り出してきた。ホテルに泊まると、荷物を運び込んだギョームに、シーツを持参したものと交換するよう指示する。洗剤の化学薬品が嫌なのだ。それは運転手の仕事じゃないと立ち去ろうとするギョームに、経費を誤魔化しているのを知られてもいいのと声をかけ、手伝わせる。ギョームとシーツを掛け替えた後、アンヌは部屋で一人、香りの調合に取りかかる。翌日、車が目的地の森に着くと、何人かの人々の姿があった。付いて来られたら仕事にならないわ。誰なんです? 行政の人たち。何か理由を付けて追い払って。何を言えばいいんです? それは考えて。ギョームはアンヌを待つ人たちのところへ行って話をつける。二人は林道を下って地下の洞窟へ入っていく。私が言ったことを忘れないようにノートに書き留めて。洞窟の壁面には壁画が残されていた。アンヌは壁や地面に手をこすりつけ、臭いを嗅ぎ、何を嗅ぎ取ったかを言葉にしていく。メモを取りながら、アンヌの鋭敏な嗅覚がとらえた繊細な香りをギョームも嗅いでとらえていく。帰りの車内でアンヌがギョームに説明する。地方政府が作った洞窟壁画の忠実なレプリカにふりかける、洞窟の臭いを再現した香料を制作する仕事なのだと。アンヌの住まいに到着し、荷物を降ろしていると、突然通行人の男がアンヌのバッグを奪おうとする。ギョームが跳びかかると、男はギョームを殴りつけて逃走する。何で跳びかかったの? 刃物でもあったらどうするの? あなたはいつも命令ばかりだ。「ありがとう」も「おねがい」もない。もう沢山だ。ギョームは荷物とアンヌを置いて車に乗り込むと、急発進する。

 

輝かしい実績を誇るが、ストレスで嗅覚と信用を一度失ってしまった孤独な調香師アンヌ・ヴァルベルグ(Emmanuelle Devos)と、愛娘レア(Zélie Rixhon)との同居を実現したい貧しい運転手ギョーム・ファヴル(Grégory Montel)という似ても似つかない二人が、嗅覚で繋がり、お互いを刺激し合っていく。
映画『グリーンブック』(2018)に通じるものがある。

展覧会 星山耕太郎個展『PSYCHOLOGICAL COLLAGE』

展覧会『星山耕太郎展「PSYCHOLOGICAL COLLAGE」』を鑑賞しての備忘録
日本橋髙島屋本館6階美術画廊Xにて、2020年12月30日~2021年1月18日。

画面を漫画のコマのように分割し、それぞれのコマに異なった描法で描き込むことで制作された絵画20点強を紹介する星山耕太郎の個展。

雪舟水墨画《慧可断臂図》は、壁に向かって座禅を組む達磨に参禅を求め許されなかった慧可が、左手を切断して改めて入門を求めたエピソードをテーマとした水墨画。大口を開けて達磨を飲み込もうとする怪物のようにも見える洞窟と、それに対して眦をひらき泰然と構える達磨、達磨の背後で左手を捧げ持つ慧可をハードボイルドに描く。雪舟の作品を踏まえてのものか定かではないが、作家による同じ題の作品は、達磨と慧可の顔にモティーフを絞り込んでいる。画面を左右に均等に分割し、左側三段に慧可の、右側三段に達磨の顔を配する。慧可に対して、達磨の中央のコマの面積がやや大きい。達磨の上段のコマは壁と達磨との一体感を、慧可の中段のコマは左手の切断で流された血を、想像させる。水墨画を連想させる黒白系の色でまとめているが、禅画風、写実風、漫画風、抽象画風などコマごとに描法が違えられている。例えば「禅画"風"」であるのは、黒い太い描線が一筆で描かれたものではなく絵具を塗り込めて表されているからだ。衒いなく画風を組み合わせてしまうのは、コマ割りとともに漫画的な性格を示している。また、コラージュならば複数の要素を境目を見せずに組み合わせそうだが、コマ割りにより描法の差異を画然と切り分けている。様々な描法の導入の仕方自体が「コラージュ"的"」である。

パブロ・ピカソの《ゲルニカ》をモティーフとした作品は、複雑に分割された12のコマで構成されたモノクロームに近い配色の絵画だ。それぞれのコマは、人物の顔や手、動物の足巨大な腕などがキュビスム、写実、幾何学的イメージなど複数の技法で描き分けられている。コマ割りの線が都市や身体の切断のイメージを強めるとともに、異なる大きさの矩形に細分化されることで粉砕の効果を生んでいる。左下のコマには原作に近い手法で描かれた手を広げた大きな腕(再び断臂図!)があり、その上のコマには磨りガラスのようにぼかされた正方形のコマがある。映画『この世界の片隅に』(2016)の爆弾の爆発シーン(三度断臂図!!)のように、凄惨な表現を回避しつつ、鑑賞者に画面を補う想像力を要求する仕掛けとなっている。

肖像画のシリーズでは、サルバドール・ダリ、サミュエル・ベケット、エトムント・フッサールなど、画家を中心に、文学者、哲学者らがモティーフとして取り上げられている。自画像も複数組み込み、彼らの向こうを張って意気軒昂である。パブロ・ピカソの顔を4分割した作品では頭部のコマにドミニク・アングルの《トルコ風呂》を描き込んだり、8分割したアンディー・ウォーホルの肖像画ではヴァニタスの要素を組み合わせたりと、伝記や人物評の要素が加えられている。自画像からは、個人(individual)レヴェルにおける「分人(dividual)」というテーマも覗われる。

映画『聖なる犯罪者』

映画『聖なる犯罪者』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のポーランド・フランス合作映画。115分。
監督は、ヤナ・コマスィ(Jana Komasy)。
脚本は、マテウシュ・パツェヴィチ(Mateusz Pacewicz)。
撮影は、ピョートル・ソボチンスキ・Jr.(Piotr Sobociński Jr.)。
編集は、プシェミスウァフ・フルシチェレフスキ(Przemysław Chruścielewski)。
原題は、"Boże Ciało"。仏語題は、"La Communion"。

 

ポーランドのある少年院。鋸を使って木材を切断する作業が行われている。電話が鳴り、法務教官が短時間現場を離れた隙に、収容者の一人が他の収容者によって押さえつけられ服を脱がされると、陰嚢を机の引き出しに挟まれる。ダニエル(Bartosz Bielenia)は見張り役を任されていて、法務教官が戻ってくると口笛を吹く。何事もなかったかのように作業が再開される。教室では、感情をコントロールするためのプログラムが行われた後、礼拝の準備が行われる。収容者たちが席に着いた教室に、神父のトマシュ(Łukasz Simlat)が入ってくる。形だけ参加する者がいるなら運動場へ行きなさい。そこでも神は君たちとともにある。ひたすら神に祈りなさい。自らの抱える不安や怒り、犯した罪を神に告げなさい。型にはまらず伝えたいことだけを伝えたトマシュは、ダニエルに前に立って賛美歌を歌うよう促す。ダニエルに合わせて、その場の皆も歌い出す。収容者が食堂に集まり食事をしているところへ、巨漢のボヌス(Mateusz Czwartosz)が法務教官に伴われて入ってくる。薄笑いを浮かべるボヌスがトレイを手にやおら腰を下ろしたのは、ダニエルの真後ろだった。どうだ。まさか逃げ切れることなんて思ってないよな。ダニエルは仮退院が決まっていた。何も答えないダニエルの後頭部目がけ、ボヌスが皿を投げつける。法務教官たちがボヌスを押さえつけに飛んで来る。その様子を奥の席で眺めていたピンチェル(Tomasz Ziętek)は愉快でたまらなそうだ。ダニエルはトマシュに神学校に行きたいと相談するが、前科のある者に門戸は開かれていなかった。神父にならずとも神に仕えるべき方法はあるとトマシュはダニエルを諭す。受け入れ先の製材所は国の真反対側だよね。不安なのか。土地勘がないだけだよ。その町の町長は立派な人物だ。いいか、酒もクスリもやるんじゃないぞ。もちろんだよ。
退院したトマシュは地元の仲間のパーティーに顔を出す。酒とクスリに早速手を出して、狂ったように踊り、一人の女の子を誘ってセックスする。心理学を学んでいる女子学生だった。
バスに乗り込み製材所へ向かう。空いた車内の後方でタバコを吸っていると、男(Juliusz Chrzastowski)が近寄ってくる。タバコを消せ。男は警察手帳を示す。ダニエルはタバコを思い切り吸い込むと、窓の外に吸い殻を投げ捨てる。「製材所」に向かうんだろ。いつも見張ってるからな。バスが草原の中にぽつんと立つ停留所で停まる。ダニエルは草原を横切り、人里離れた製材所へ歩いて行く。どうやら自分と似た境遇の連中が集まっているらしい。ダニエルは一頻り様子を確認すると、製材所を離れ、教会の鐘楼を目印に町へ向かう。町のメインストリートには、キリストの図像とともに若者の写真を貼った献花台が設けられていた。教会に向かうと、礼拝堂の信徒席には一人の若い女性(Eliza Rycembel)が座っているだけだった。礼拝は? もう終わったよ。次は明日の朝。明日までは待てないな。製材所の人でしょ? 聖職者だよ。私もそうだけどね。祭服は? ラフな服装のダニエルがバッグから立襟の祭服を取り出す。驚いた彼女の名はマルタと言い、慌てて母親である会堂管理人リディア(Aleksandra Konieczna)のもとに向かう。リディアはダニエルを控室に招き入れ着替えさせる。ダニエルは逃げ出そうとするが窓は嵌め殺しになっていた。祭服を身につけたダニエルがリディアに伴われて教区司祭ヴォイチェフ・ゴオンブ(Zdzisław Wardejn)の住まいへと向かう。リヴィングに通されるダニエル。大画面の液晶テレビではサッカーの試合が放送されていた。姿を現した教区司祭は献金の仕分けを手伝わせながらダニエルに尋ねる。最近叙階されたのだね。どこの神学校かな。ワルシャワには2つあるはずだが。私はもう一つの神学校だった。当時は体制もそうだったが非情に厳しい規律があった。まあよく抜け出したもんだが。君もそうだったろう? 確かに、そういう者もいましたが…。ヴォイチェフはウォッカをダニエルに勧める。司祭は? 私は健康の問題で飲めないのだよ。もう晩から泊まって行きなさい。ダニエルは献金からくすねた紙幣を手に買い出しに向かい、タバコなどを手に入れる。翌朝、ダニエルはヴォイチェフが酒を呑みベッドの傍に倒れているのを発見する。リディアが訪れて信徒が既に集まっているが告解を中止するかどうか尋ねる。ヴォイチェフはダニエルを代理として教会に遣わす。告解室に入ったダニエルはスマートフォンを片手に信徒に言葉をかける。女性が語り出す。3週間ぶりです。息子が小学校でタバコを吸っています。ときどき手を上げてしまうのです。どうしたら良いのでしょう。お子さんは強いタバコを与えれば止めますよ。私は吸いません。タバコの臭いがしますが。ときどきです。手を上げるのもときどきですか? 告解を無事に務めたダニエルに、ヴォイチェフは病気の治療法を探る間、司教には内密で3日間ほど代理を務めて欲しいと依頼する。ミサのために慌てて聖書の字句を頭に叩き込むダニエル。ミサを迎え、信徒の前に立つダニエル。沈黙もまた祈りです。しばらく間を置いたダニエルは、壁に掲げられたキリスト像を見上げて語り出す。私に彼の代わりは務まりません。塵のようなものなのです。神はあなた方とともにある。ひたすら神に祈りなさい。自らの抱える不安や怒り、犯した罪を神に告げなさい。頼りなさそうに眺めていた聴衆はダニエルの衒いの無い説教に心を打たれる。ダニエルが賛美歌を歌い出すと、皆も声を合わせる。

 

少年院でトマシュ神父(Łukasz Simlat)に感化されたダニエル(Bartosz Bielenia)は聖職者を志すが、前科のために叶わない。仮退院で向かった町で、司祭のふりをしたダニエルは、行き掛かり上アルコール中毒の教区司祭ヴォイチェフ・ゴオンブ(Zdzisław Wardejn)の代理を務めることになる。飾らない言葉で教区の人たちの信望を集めるダニエルは、1年前に地元で起きた悲劇について首を突っ込むことになる。
Bartosz Bieleniaが、善悪の境界線を危なっかしく綱渡りするダニエルの存在を生々しいものにした。とりわけ彼の表情が強い印象を残す。


以下では、核心に触れる。


少年院に収容されたダニエルは、改心して聖職者の道を志す。そのきっかけは、トマシュ神父の行う、形式ばかりの空虚な内容を退け、神への祈りを重視する説教に感銘を受けたことだった。ところが、前科のあるダニエルには神学校進学の道が閉ざされていた。聖職者のふりをしたことから実際に教区司祭の代理を務めることになったダニエルの説教は、風変わりだが真に信仰に支えられているがゆえに、教区の人たちを引きつけていく。資格を持たない「偽物」が本職を超えた支持を得るのだ。だが、ダニエルを変えたトマシュ神父は、ダニエルの「本物」の信仰に気が付きながらも、「偽物」の司祭であるとして彼を許容することができない。トマシュ神父が、一度は改心させたダニエルに再び過ちを犯させてしまう愚を描くことで、信仰や正しさの意味を鑑賞者に問いかける。
原題の"Boże Ciało"は「キリストの身体」のこと。「師」であるトマシュ神父から教会を追われることになったダニエルが祭服を脱いでキリスト像と同じ姿を晒すことで、トマシュ神父が犯す過ちをダニエルが贖うという結末の予兆とする。それを表した、それ以外にないというような秀逸なタイトルである(もっとも『キリストの身体』では邦題として成立しないだろう。邦題を考案する苦悩が偲ばれる)。

展覧会 冨安由真個展『漂白する幻影』

展覧会『冨安由真展「漂白する幻影」』を鑑賞しての備忘録
KAAT神奈川芸術劇場にて、2021年1月14日~31日。

冨安由真による、廃墟となったホテルのインスタレーションを展示。

ドアを開くと、ホテルらしき建物の通路が正面に真っ直ぐに延びている。その奥にドッペルゲンガーを目撃する。鏡の中の世界、すなわち彼岸(からの視線)を目でとらえる。通路を進み、左手にあるドアを開くと、暗闇の中、廃墟の断片的な光景が次々と浮かび上がっては消えていく。泥を被ったテーブル、倒れた椅子、鍵盤の失われたピアノなど。うち捨てられ、人々の姿が消え去った世界には、クマやシカ、キジなど動物たちが姿を見せる。ラジオが言葉ではない何かを受信している。靄が垂れ込める。能舞台の鏡板を地で行く鏡の世界(=彼岸)と今立つ空間(=此岸)とが地続きになる。鑑賞者はいつしか夢幻能の舞台に立ちワキを務めている。再び、ドアを開けて通路に出ると、天井灯が明滅し、世界が過去と未来に向かって無限に増殖している。「今」が永遠に連なっている。通路の向かい側にあるドアを開くと、今し方目撃した世界が、鏡の中に固着されている。変化を免れた、永遠の世界としての絵画である。
ラジオのようにアンテナを立て、茫漠と広がる空気の中から不可視のものをとらえよとのメッセージが明快だ。網膜に倒立する像は陰画(negative)に過ぎない。ネガ(negative)を印画紙に焼き付けるように、図と地とを反転させることで、目に映らなかったもののイメージが得られる。存在するオブジェから、何が見えなくなっているのか、何が不在か、何が失われているのかをつかみ取らなければならない。それは暗闇の中にこそ存在するだろう。

暗闇の中に目を凝らし、微かな音に耳をそばだてる世界。だが、そこにはオートフォーカスのための補助光が走り、液晶画面のバックライトが浮かび、さらにシャッター音が立つ。今時の鑑賞は撮影がセットなのかもしれないが、このインスタレーションに関しては撮影不可でも良かったのではないか。劇場で開かれる展覧会の意義が謳われ、本作品を演劇に擬えてもいた芸術監督は、自らの演出作品の上演中に撮影を許可するだろうか。演出効果の妨げとして、撮影を禁じはしないのだろうか。ご高説を賜りたいが、見えているものにとらわれすぎだと当方の集中力不足を指摘されるのがオチだろう。凡夫に偉才の意図は推し量ることは難しいが、敢えて想像を逞しゅうすれば、作品(展覧会)のヴァンダリズムにより、作品のモティーフである廃墟に対し「メタ廃墟」を呈示しているということになる。