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芸術鑑賞の備忘録

映画『シャイニー・シュリンプス! 愉快で愛しい仲間たち』

映画『シャイニー・シュリンプス! 愉快で愛しい仲間たち』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のフランス映画。103分。
監督・脚本は、セドリック・ル・ギャロ(Cédric Le Gallo)とマキシム・ゴバール(Maxime Govare)。
撮影は、ジェローム・アルメーラ(Jérôme Alméras)。
編集は、サミュエル・ダネシ(Samuel Danesi)。
原題は、"Les Crevettes pailletées"。

 

マティアス・ル・ゴフ(Nicolas Gob)が部屋で一人早朝の日課のトレーニングをしながらテレビ画面を見つめている。50メートル自由形の銀メダリストである彼のインタヴューには「終わりの始まり」とのキャプションが付けられていた。プロテイン・ドリンクを作り、荷物をまとめると、自転車に乗ってプールへ向かう。コーチ(Camille Thomas-Colombier)は状態は悪くないとマティアスを励ますが、隣で練習していた選手に比べても、自らの泳ぎが精彩を欠くことはよく分かっていた。
会議室に座るマティアスは居心地が悪い。先日のインタヴューを担当したエルヴェ・ラングロワ(Jean-Louis Barcelona)がいて、非難の眼差しをマティアスに向けている。エルヴェに対するマティアスの発言がゲイ差別であると問題になり、フランス水泳連盟による審問が行われるのだ。会長(Yvon Back)ら、お偉方が居並ぶ前で、マティアスがゲイに対する差別の意図は無かったと弁明し、同席の弁護士が、マティアスにはエルヴェがゲイだとの認識は無かったと擁護する。会長は、認識の有無は問題ではなく、水泳は個性を持つ人々の相互理解に奉仕するものでなくてはならず、いかなる差別も許容しないと明言する。結果、会長はマティアスの世界大会への出場資格を剥奪するとともに、3ヶ月後に開催されるゲイ・ゲームに出場する水球チーム「プリップリッの小エビちゃん」のコーチを務めることを課した。


簡単な板のベンチがフックの並ぶ白いタイルの壁に取り付けられた質素な更衣室に、グザヴィエ(Geoffrey Couët) 、セドリック(Michaël Abiteboul)、ダミアン(Romain Lancry)が入っていく。ジョエル(Roland Menou)とアレックス(David Baiot)が既にいた。会話が弾む更衣室を恐る恐る覗き込むマティアス。ノックして尋ねる。水球における寛容と尊重を目指す同性愛者協会ってのはここでいいか? 皆がマティアスを歓迎する中、ジョエルだけはマティアスがホモ嫌いのチャンピオンだと敵意を剥き出しにする。ジャン(Alban Lenoir)がやって来て、皆にマティアスを新しいコーチだと紹介する。

50メートル自由形の銀メダリストであるマティアス・ル・ゴフ(Nicolas Gob)は、インタヴュアーのエルヴェ・ラングロワ(Jean-Louis Barcelona)から揶揄され、同性愛者に対する差別ととれる発言をしてしまう。マティアスは世界水泳大会参加資格を剥奪された上、ゲイの水球チームのコーチを担当することが課された。3ヶ月後にクロアチアで開催されるゲイ・ゲームズ出場を目指す水球チーム「プリップリッの小エビちゃん」の練習に顔を出すと、メンバーが好き勝手に水遊びをしているだけで、常に勝利を意識して水泳に取り組んできたマティアスには受け容れがたいものだった。
マティアスは水泳で勝利する(チャンピオンになる)ために全てを捧げてきたし、今も全力を注いでいる。エルサ(Anaïs Gilbert)と離別してしまい、エルサと暮らす娘ヴィクトワール(Maïa Quesemand)からの愛情も失いかねない状況にあるのもそのためだ。水球チームのコーチとして指導に力が籠もらないのは、彼らがゲイだからではなく、勝利に対する執念を持たないからだ。不治の病に冒されたジャン(Alban Lenoir)が残されたわずかな時間を水球に賭け、勝利を手にしたいと零したことで、マティアスのスイッチが入る。マティアスの勝利に対する執念は最初から最後までブレることがない。
長年ゲイの権利擁護のために闘ってきたジョエル(Roland Menou)は、セドリック(Michaël Abiteboul)が同性婚をして子供を持てることに貢献していると自負している。また、年を重ねてモテなくなるにつれて僻みがちになっていて、トランスジェンダーのフレッド(Romain Brau)に対して敵愾心を燃やす。因みに、フランス映画『MISS ミス・フランスになりたい!』(2020)には、年を重ねた同性愛者のローラ(Thibault de Montalembert)がその悲哀を主人公のアレックス(Alexandre Wetter)に訴えるシーンがある。

映画『ブラック・ウィドウ』

映画『ブラック・ウィドウ』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のアメリカ映画。134分。
監督は、ケイト・ショートランド(Cate Shortland)。
原案は、ジャック・シェイファー(Jac Schaeffer)とネッド・ベンソン(Ned Benson)。
脚本は、エリック・ピアソン(Eric Pearson)。
撮影は、ガブリエル・ベリスタイン(Gabriel Beristain)。
編集は、リー・フォルソム・ボイド(Leigh Folsom Boyd)とマシュー・シュミット(Matthew Schmidt)。
原題は、"Black Widow"。

 

1995年。オハイオ州の郊外にある緑豊かな住宅街。木立の中の車道をナターシャ(Ever Anderson)が自転車で通り抜けていく。遊んでいる子供たちの脇を通ると、軽く手を挙げて挨拶を交わす。家に戻ったナターシャは自転車を置くと、林の中に入って口笛を鳴らす。「妹」のイェレーナ(Violet McGraw)が口笛を吹いて答える。イェレーナがブリッジの姿勢をとる。逆さまだよ。ナターシャも同じ姿勢になって、勝負を持ちかける。私が勝つよ。ナターシャはイェレーナを笑わせて、姿勢を崩させる。ほら、言った通り。イェレーナはずるいとナターシャを追いかけるが、途中で転んでしまう。ママー! 「母」のメリーナ(Rachel Weisz)が現れ、イェレーナを抱き起こす。痛い思いをしないと強くなれないわ。日が落ちて茂みでは蛍が飛び交い始めた。「生物発光」って言うの。さあ、夕飯にしましょう。家に入り、メリーナが「夫」のアレクセイ(David Harbour)に声をかけると、彼は「妻」に1時間後に出発だと告げる。食卓に着いたアレクセイが「妻子」に向けて語り出す。いつか大冒険に出発するって話してただろう? 遂にその時がやって来たぞ。幼いイェレーナは笑顔を見せる。だが、事情を知るメリーナとナターシャは悲痛な表情を浮かべざるをえない。アレクセイは食事もそこそこに席を立ち、慌ただしく準備を始める。メリーナがアレクセイが手にしたディスクを目にして確かめる。それだけなの? ああ、残りは焼却した。イェレーナが履くものがないというのを裸足でいいとアレクセイが連れ出し、ナターシャが写真アルバムを持ち出そうとするのをメリーナが止める。一家4人を乗せた車は、アメリカンフットボールの競技場など郊外ののどかな光景が広がる道を行き、やがて徐々に人気のないあたりへと進んでいく。いつもの曲をかけてよ。後部座席に座るイェレーナがアレクセイにせがむ。「父」はカセット・テープをセットする。ドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」が流れ出す。"This'll be the day that I die" 人気のない夜の農場に着くと、アレクセイはビニールハウスに格納してあった飛行機を運び出す。ナターシャは降車の際にサンバイザーに挟んであった「姉妹」の写真を取り出す。メリーナが操縦席に着き、「娘たち」も飛行機に乗り込む。アレクセイは銃を構えたまま周囲の様子をうかがう。回転灯を点けた警察車両が近づいてきた。メリーナが飛行機を発進させる。アレクセイは銃撃しながら飛行機の後を追う。警察官の発射した銃弾の1つがメリーナの方に命中し、「母」の指示のもとナターシャが操縦桿を握る。飛行機は警察車両に挟み撃ちにされるが、間一髪、離陸を果たす。アレクセイは翼に捕まり、何とか飛行機に乗りこむことができた。飛行機が向かったのはキューバだった。空港に降り立ったアレクセイは作戦の総指揮を執るドレイコフ(Ray Winstone)にディスクを手渡す。負傷したメリーナは「姉妹」が不安げに見守る中、兵士たちによって担架で運ばれた。兵士が妹を連れ出そうとすると、ナターシャは咄嗟に銃を奪い、イェレーナを守る。アレクセイがナターシャを説得して銃を下ろさせる。俺の娘たちは世界最強だ。二人はきっと支え合える。だから大丈夫。首筋に鎮静剤を打たれた「姉妹」は兵士に担がれて連れ去られた。ドレイコフは孤児の少女を拉致し、適性を持つ者を「レッドルーム」で自らの意のままに操れる特殊工作員「ブラック・ウィドウ」に仕立て上げていた。

 

ナターシャ・ロマノフ(Scarlett Johansson)は、ドレイコフ(Ray Winstone)の率いる「レッド・ルーム」で特殊工作員「ブラック・ウィドウ」として訓練されたが、組織を抜け出してドレイコフを暗殺することで「レッド・ルーム」を壊滅させた。創設に加わったヒーロー組織「アヴェンジャーズ」が解体し、ソコヴィア協定違反として国際指名手配を受ける羽目になったナターシャは、密かにノルウェーに渡った。メイソン(O-T Fagbenle)から提供を受けた潜伏先を覆面の暗殺者に襲撃されたナターシャは、車に積んでいた化学薬品が暗殺者の狙いだと気付く。辛うじて襲撃を逃れたナターシャは、化学薬品のケースの束に挟まれた「姉妹」の写真を見付ける。ナターシャはブダペストに移り、同じく「ブラック・ウィドウ」となった「妹」のイェレーナ(Florence Pugh)との再会を果たす。

以下、全篇について言及する。

アレクセイ・ショスタコーフ(David Harbour)はドレイコフからの指令を受け、科学者で「ブラック・ウィドウ」であるメリーナ・ヴォストコフ(Rachel Weisz)とともにオハイオに3年間滞在した。アレクセイとメリーナは任務遂行を円滑に進めるため、ナターシャとイェレーナを「娘」として「家族」を装っていた。
「ブラック・ウィドウ」のイェレーナは、モロッコで「レッド・ルーム」を裏切ったオクサーナ(Michelle Lee)を殺害するが、その際、オクサーナが噴出したガスによって化学的な洗脳を解かれ、自分の過ちに気が付く。イェレーナはナターシャに化学薬品を送り届ける。
ナターシャは、ドレイコフを暗殺することで「レッド・ルーム」を壊滅させたと思っており、イェレーナに再会するまで、ドレイコフが生き延びて「レッド・ルーム」も存続していることを知らなかった。また、ナターシャは、ドレイコフを暗殺する際、偶然居合わせた彼の娘アントーニャ(Ryan Kiera Armstrong)もろとも建物を爆破したことを悔やんでいる。
ナターシャは、「父」アレクセイ、「母」メリーナ、「妹」イェレーナとの結びつきと、アヴェンジャーズという、2つの疑似「家族」を極めて大切なものと思い、なおかつ、暗殺者として命を奪った過去の行動に対する後悔の念が重くのしかっている。映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)での彼女の決断を導くことになった背景が、本作で明らかにされている。
少女時代の口笛やブリッジ(逆さまで見る)が、「再会」後に繰り返されることで、「姉妹」の結び付きが強調されている。姉妹の結び付きを描くシーンはこの映画を味わい深いものにしているが、とりわけ、イェレーナがナターシャの「決めポーズ」をからかう件は秀逸である。それは作品の自己批評であるのみならず、ナターシャのアヴェンジャーズとしてのアイコニックな性格を際立たせる。誰もいない場所で一人イェレーナがポーズを真似して「絶対わざとやってるよな・・・」と独り言ちて笑いをとりつつ、ポスト・クレジットの「継承」を予告している。
「ブラック・ウィドウ」たちは化学的に洗脳され、それを解くガスによって自分の意思を持って行動する。女性が自らの意識を変えることで、「ガラスの天井」のような社会慣行を打ち破って、自由に行動できるとのメッセージが込められている。例えば、極めて能力の高いアントニア(Olga Kurylenko)が、あっさりとガラス張りの空間に閉じ込められてしまうのは発想が縛られている女性を象徴していよう。
オハイオから脱出する際、一家が車中で聴くDon McLeanの"American Pie"は作品にモティーフを提供している。"When I read about his widowed bride"(ブラック・「ウィドウ」)や、"a pink carnation"(メリーナの住まいをドレイコフの部隊が襲撃する際にアレクセイが撃ち込まれる)など。
血のつながりのない家族の情愛による結びつきを訴えるという点では、映画『万引き家族』(2018)と共通する。
原則として「ヒーロー」の力に頼らず姉妹の力で逆境を乗り越えるという点では、映画『アナと雪の女王』(2013)と共通する。

展覧会 髙木優希個展『ゆうれいのいないところで』

展覧会『髙木優希個展「ゆうれいのいないところで」』を鑑賞しての備忘録
ARTDYNEにて、2021年7月2日~18日。

絵画15点で構成される髙木優希の個展。

展示作品中、最も大きな画面(1280mm×2250mm)の《Room》は、中央に置かれたチェストで半分に仕切られた部屋を描いている。カーテンを閉めた上に遮光ロールスクリーンが下ろされて暗い空間の中、チェストの上のレターケースなど収納ケース、ボトルなどが照明によって浮き立つ。チェストの左側の空間には、枕やクッションの載ったベッドが置かれ、チェストとの間には本や箱を積み重ねた山がいくつかあって床を占拠している。ベッドサイドの壁際には小さな棚があり、その上にはエアコンが設置されている。右側の空間には壁に向かってデスクが置かれ、その上の棚からはファイルが飛び出している。椅子や収納ケース、抽斗などの他、、デスクや壁には棚板のようなものも立てかけられている。多くのものが乱雑に溢れる空間でありながら、どこか静謐な印象を受けるのは、白と青みがかったグレーで濃淡を表したモノトーンの世界だからだろう。そしてベッドとその上のクッションなど、直線的な形を持たないものではっきりするが、この部屋は紙粘土やスチレンボードで作られた模型がモティーフになっている。模型であることを示すために画面左上・右上・右下には模型の端(スチレンボードの断面)と周囲の闇とが示されている。さらに、本作品では他の出展作品に比べ判断しづらいが、焦点の合っている部分とそうでない暈けた部分とによって、模型を写真で撮影した上で、絵画にしていることも仄めかされている(例えば、本作品のデスクのあたりのみを描いた《勉強机》という作品では、画面奥の勉強机に焦点が合わされているため、手前に位置するチェストはかなり暈けている)。すなわち、描画の対象を模型、写真、絵画と三段階の工程を重ねることで表現しているのである。模型として造形する際に文字情報などが省略されて形だけが浮かび上がり、写真に撮ることで陰影ないしグレースケールの平面に変換され、絵画に描くことでその世界は作家の色に染められることになる。屋根を描かず部屋の斜め上から俯瞰する構図は、やまと絵の吹抜屋台に通じるものがある。室内の静寂を表す点ではヴィルヘルム・ハンマースホイの作品を想起させる。生活の場から人の存在だけが消し去られることで、廃墟の美術史に連なる作品とも言えそうだ。模型と書割との類似や「照明」の当て方から舞台装置を連想させつつ、役者=人物の不在が「吹抜屋台」の視点と相まって、鑑賞者にアヴァターとしての人形=役者を立ち回らせる「ドールハウス」の空想を誘う。そして、展示会場の白い展示壁は、作品中のスチレンボードとのアナロジーによって、鑑賞者の「人形」と同期させるだろう。鑑賞者のイメージする「人形」こそが「幽霊」である。展覧会のタイトル「ゆうれいのいないところで」は、その不在を強調することで、かえって「幽霊」の召喚を強く促す。
模型、写真、絵画と三段階の工程でモティーフを写す作品群の中で、小さい画面(910mm×1167mm)の《Room》や《棚のある部屋》に登場する姿見は、映る(あるいは映ってしまう)ことを増幅する。
《no title》と題された作品群は、明暗を表すのに用いる基調色が緑や黄などと異なるが、いずれも、天井や壁や柱などのつくる線・面により画面を分割して見せる抽象絵画の面白さがある。

展覧会 目個展『まさゆめ』

展覧会『目「まさゆめ」』を鑑賞しての備忘録
東京都心にて、2021年7月16日。

ある人物の頭部を表した気球を都心で浮かべる、荒神明香・南川憲二・増井宏文を中心としたグループ「目」によるプロジェクト。

気球で作られた頭部が浮上するとは、立ち上がることを模している。それと同時に、横並びに対する意識が強い社会で、周囲から文字通り「浮く」ことでもある。
平等の価値と、自由の価値とは相容れない面がある。一人一人の価値が平等なら、より多数の人が支持するものがより大きな力を持つという結論に帰結しやすい。とりわけ表現において自由の尊重が強く要請されるのは、多数の人が必ずしも支持しない価値を許容するためだ。表現を広く許容できる社会は、多様性を有する結果、既存の仕組みや主流の考え方が行き詰まったときなど、その危機を乗り越えて持続する力を持つことになるだろう。
「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」という岡本太郎の言葉がある(岡本太郎『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』光文社〔光文社文庫〕/1999年/p.98以下参照)。それは、禁止規範の体裁を持つ鋭いメッセージである。この言葉をソフトに解釈してみると。例えば、芸術は、必ずしも多数の人が「うまい」とか「きれい」とか「心地よい」とか思うものでなくともよい、と捉えられよう。
人物の頭部を表した気球は、クリストとジャンヌ=クロードの行った議事堂の梱包のように、見慣れた光景を一変させた。「首吊り気球」のようだと捉える人もあったそうで、「目」による「まさゆめ」プロジェクトで浮かせた気球は、「きれい」とか「心地よい」とか思うものでなはかったかもしれない(会場では、気球が膨らんで顔が次第に姿を現すのを面白がりながら、完成した顔を恐れる幼い子供の姿もあり、微笑ましかった)。だが、ふらふらとよろめきながらも一人立ち上がった「人物」は、社会を俯瞰して、今日の芸術の意義を訴えようとしていた。公共空間を舞台にして行われ、多くの人の目に触れるプロジェクトは、当然、否定的な評価も織り込み済みであり、多様な意見が出されることこそ狙われていただろう。異なる意見にも耳を傾ける姿勢こそ、理想社会の構想を「まさゆめ」とする一里塚である。

展覧会 会田誠個展『愛国が止まらない』

展覧会『会田誠展「愛国が止まらない」』を鑑賞しての備忘録
ミヅマアートギャラリーにて、2021年7月7日~8月28日。

宙に浮かぶ巨大な兵士の亡霊が墓石のようなモニュメントに手を伸ばす立体作品《MONUMENT FOR NOTHING V~にほんのまつり~》、1粒の梅干しを描いた絵画シリーズから44点、糠漬け・キムチ・ザーサイが競うイヴェントを夢想して制作された写真と文章から成る《北東アジア漬物選手権の日本代表にして最下位となった糠漬けからの抗議文》で構成される、会田誠の個展。

《MONUMENT FOR NOTHING V~にほんのまつり~》は、ねぶたの山車灯籠の人形のように、針金を組んだ構造に着彩した紙を貼り付けて制作された、飢餓に苦しんだ兵士の亡霊を表した立体作品。天井から伸びた長い首の先には、ほとんど頭蓋骨となってしまった頭部に、落ちくぼんだ眼窩の眼球と口から剥き出しになった歯と歯茎が覗いている。天井からは左腕も長く伸ばされ、左手の人差し指が、花を左右に供えた国会議事堂風の墓石に触れている。ギャラリーの吹き抜けの展示空間いっぱいに設置され、入口・受付側からは顔・手・墓石の部分が展示室の入口でトリミングされて見える仕掛けとなっている。
ところで、先代が「張貫ニテ模造シ」た鎌倉大仏を展示するためウィーン万国博覧会(1873年)を訪れた人形師・鼠屋伝吉は、帰国後に現地で目にしたヨーロッパ風俗を「石像楽圃」という見世物で再現した(1875年)。街を行き交う人々の背景には台座に載った「石像」が置かれていた。鼠屋伝吉は、図らずも西洋の「彫刻」をいち早く日本に伝える役割を果たすことになった。その鼠屋伝吉と「育った環境も身につけた技術もよく似ていたはず」で、なおかつ「大仏の見世物を手懸けた経験」もあった仏師・高村光雲は、東京美術学校に招聘され、「彫刻家」として美術史に位置づけられた。それに対し、人形師・鼠屋伝吉はそうならなかった(木下直之「石像楽圃」同『美術という見世物』筑摩書房ちくま学芸文庫〕1999年/p.19-50参照)。祭礼のつくりもの、張りぼての人形は、近代的な美術の枠組みから偶然、漏れてしまったものである。
翻って、《MONUMENT FOR NOTHING V~にほんのまつり~》は、日本の近代化の1つの結果である敗戦をモティーフとしているが、針金の構造や中の木製の芯が見えるようあえて紙で表面を張り尽くさず穴の開いた張りぼてとして呈示されている。近代(美術・史)の枠組みの穴や荒さ、歪みを訴えているのだ。
壁面には、1粒の梅干しだけを描いた絵画「梅干し」シリーズから44点が並べられている。テーブルかまな板か(あるいは白飯か)、白い台の上に置かれた梅干しは、1つ1つ違う形をしていて、光源や影の向きも異なる。色彩も、白と赤とを基調としながら、作品によって青、緑、紫、黄などが配色の中心となっている。作家は、高橋由一の《豆腐》(1877)を「日本で最初にして最良の油絵」と評価し、それを念頭に制作された作品だという(但し、油絵具のみで描かれているのは8点で、その他の作品はアクリル絵具、もしくはアクリル絵具と油絵具の併用となっている)。
高橋由一は、満足に入手できなかった画材を自作しながら描いた油絵の先駆者である。徹底して時間を排除した「物そのもの」の姿を描くことで、「写外の余趣を想像せしむるの妙」を有する「永久保存の功ある」油絵を開拓した(古田亮『ミネルヴァ日本評伝選 狩野芳崖高橋由一 日本画も西洋画も帰する処は同一の処』ミネルヴァ書房/2006年/p.209-213, p.251-252参照)。その代表作が《鮭》や、作家が評価する《豆腐》である。作家は、「梅干し」という卑近なモティーフに取り組むことで、「近代」絵画の歴史をなぞっている。「梅干し」絵画のシリーズは、近代(美術・史)の枠組を問い直す《MONUMENT FOR NOTHING V~にほんのまつり~》とパラレルなのである。
《MONUMENT FOR NOTHING V~にほんのまつり~》の旧日本軍兵士の亡霊を取り囲む「梅干し」シリーズ絵画は、霊魂を招くための提灯のようだ。招魂社を前身とする靖国神社戦争博物館遊就館」の当初の姿は、高橋由一の美術館構想を実現するものであったことも思い出されよう(木下直之「美術館がほしい 今から120年前の夢について」兵庫県立美術館編『松方・大原・山村コレクションなどでたどる 美術館の夢』兵庫県立美術館神戸新聞社/2002年/p.26参照)。のみならず、「国会議事堂」のモニュメントや展覧会タイトル「愛国が止まらない」」を勘案すれば、「梅干し」に「日の丸」(=国旗)を見ない訳にはいかない。しかし、描かれているのはあくまで「梅干し」であり、「日の丸」ではなく「日の丸弁当」だ。「太陽」(=日の丸)に擬えられる単一の近代国家という抽象的な枠組みから、家庭や地域によって多様な製法・味わいのある「梅干し」が象徴する、それぞれが日常生活を送る具体的な足場へと目を向けることが目論まれている。愛の対象は「(近代)国家」から、「お国自慢」の「国」、すなわち「故郷」にずらされている。それは、《北東アジア漬物選手権の日本代表にして最下位となった糠漬けからの抗議文》における「北東アジア漬物選手権」なる架空の大会が、日本の糠漬け、韓国・北朝鮮のキムチ、中国のザーサイが競うものであり、酒場で闘わされる「お国自慢」の戯画のような作品であることからも明らかである。愛国のあり方は十人十色であり、またそうあってよく、そのイメージの広がりは留まることを知らない。ところで、壁面に飾られた絵画は、(例えば縦に2作品を横に22列などと)「整列」されて展示されることなく、高さを微妙に変えながら飾られている。それぞれの絵画の背景は、分光された光のように多様な色彩を見せていることも相俟って、印象派絵画の水面描写に見えてくる。「梅干し」絵画シリーズは水の流れと目されよう。すると、「梅干し」は「ゆく河の流れ」の「よどみに浮ぶうたかた」として、「梅干し」絵画シリーズは諸行無常を表すインスタレーションとして立ち上がるだろう。