可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 熊谷亜莉沙個展『私はお前に生まれたかった』

展覧会『熊谷亜莉沙「私はお前に生まれたかった」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー小柳にて、2022年4月16日~6月25日。

9点の絵画とそれぞれに付された文章から成る、熊谷亜莉沙の個展。

《You or I》(1950mm×970mm)は、暗闇の中に浮かび上がる、頭部の欠けた陶製の豹を写実的に描いた作品。右耳、額、上顎などが欠落し、釉薬によりつやつやとした赤い口腔下部とそれを取り巻く歯、そして豹の体内へ続く空洞が目を引く。縦長の画面の上半分弱は漆黒で、画面下端は豹の前肢の付け根の当たりで途切れている。作品の脇には、「大勢の神様の顔横並べ一つ選んであなたがいい(Of all the subjects of worship / You are the one for me)」という七五調の言葉が記されたプレートが掛けられている。縦長の画面の《You or I》と対となる、横長の画面の《You or I》(970mm×1950mm)は、豹の陶器の頭部の破片を鏡面に置いて描いたと思しき作品。縦長の画面に描かれた豹の陶器に比して、横長の画面の陶片はかなり拡大して描かれている。モティー釉薬のかけられたオレンジの表面が鏡に置かれ、陶片よりも鏡像の目の方が画面にはっきりと大きく表わされている。本作品の「いつまで経っても 死者は追いかけてくる/彼らの『かけら』が『許されたい』と語りかける/本当に許されたいのは私(It feels like forever / The ghosts stroke me / The 'fragments' of them beg me for 'forgiveness' / It's really me who wants to be forgiven)」という言葉がプレートに記されている。
縦画面の《You or I》に描かれた陶製の豹は、作品に付されたテキストから「神様」であることが分かる。その陶製の豹の頭部が破壊されているのは、神が殺害されたことを表わす。だが、神は死して、より強力な存在として復活を遂げた。それが横画面の《You or I》に描かれた、元よりも拡大された陶片の目である。神は、神を弑逆した作家に内面化され、作家は常に(=「いつまで経っても」)神(=「死者」)の目を通して自らを眺めるようになった。その自己監視を表現するため、陶片は鏡の上に描かれねばならなかったのである。そして常時監視される作家は、「本当に許されたいのは私」と吐露するのだ。

 (略)スラヴォイ・ジジェクは、ラカンの読み方を教えるテクストの中で、ドストエフスキーのこの短篇〔引用者註:「ボボーク」。アルコール中毒者と思しきイワン・イワーヌイッチが、墓地で死者たちの会話を聞く。彼らがあらいざらい本当のことを告白しようと取り決めたタイミングでイワンがくしゃみをすると、死者たちの声は一切聞こえなくなってしまった。死者たちは生きている人間には分からない秘密を隠そうとしているに違いないと考え、イワンは墓地を後にする。〕をとりあげ、これを、カフカの『審判』に出てくる「法の門」の寓話と類比的に解釈するべきだという興味深いことを提案している。
 「法の門」では、田舎から来た男は、開け放された門の前にまで到着しているのだが、いつまでも門の中に入れてもらえず、ついに臨終のときを迎えるのだが、意識を失う直前に、門番から、門はただその男ひとりのためにのみあったということを告げられる。法の門の向こう側には、法の秘密があるのだろう。その秘密が何であるかは、最初から暗示されている。門の向こうには何もなく、法は内容的には空虚だということ、これが秘密である。では、法の効力は消滅しているのかと言えば、そうではない。逆である。田舎から来た男が、律儀に「門の中に入るな」という禁止に従い続けたことが示しているように、法は内容のない形式のままに、厳格にその効力を発揮し、男を捉え続けた。どうしてなのかということは、法の門が、彼のためだけのものだ、ということから解くことができる。形式だけの空虚な法は、男の欲望を投射しうるスクリーンとなっていたのだ。法を求める男の欲望を、である。
 同じことは、「ボボーク」にも言えるのではないか。この生ける死者たちの秘密とは、きっと「神は存在しない」である。だが、「法は空虚である」という秘密が事実上はあからさまになっているまさにそのとき、法が厳格に支配したのと同じように、「神が存在しないという条件が示されているそのときに、なお神が事実上存在しているのと同じ効果が現れるということがあるのではないか。つまり、法の内容を消去してもなお法が形式として支配しえたように、神を殺したつもりでも、なお神が存在し続けるということがあるのではないか。法の門が、田舎から来た男のためだけにあったとするならば、墓場での死者たちの会話は、イワン・イワーヌイッチのためだけに上演された芝居のようなものだ。観劇しているイワン(=ドストエフスキー)は、きわめて宗教性の強い人物だということを考慮しなくてはならない。法の門に、男の法への欲望が投射されるように、墓場での芝居には、イワンの宗教性が投射されている。
 よく見れば、墓場の死者たちの世界が、何でもありの放埒な社会とはほど遠いことがわかる。彼らは、ほんとうのことを語ることを、生者よりも強く求められている。しかも、そうすることに快楽を覚えるようでなくてはならない。イヤイヤではなく、心底から喜んで告白しなくてはならないのだ。「すべてが許されている」どころではない。
 とすれば、神は、何らかの意味でまだ存在している、と考えるべきだ。法の内容が還元されてしまった後で、法が、形式だけになってますます効果を発揮したのと同じように、である。考えてみれば、墓場の死者たちは、自身の肉体的な死を超えて生きているではないか。だからこそ、彼らは、好きなことを語ることができるのだ。彼らが死後を生きることができるのは、神がそれを可能にしてくれているからだ。彼らの存在は、神の不在の証どころか、最もシンプルな神の存在証明である。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.53-55)

神(の目)を表わした横画面の《You or I》の左右には、闇の中に浮かび上がる生花を描いた(同じタイトルとサイズの)《BABY BED》(700mm×600mm)が展示されている。それぞれ左寄り、右寄りに花が描かれ、それらによって挟まれる神(の目)(横画面の《You or I》)と漆黒の闇によって接続する。花々は、供花である。右の《BABY BED》に添えられている詞は「Close to you 口遊む男の上に月暈("Close to you" / There's a moon halo over the man who sings softly)」である。「男」は神であり、「傍にいたい(close to you)」と告げるのだ。「男」は月暈を伴うことで、月に擬えられる。闇すなわち夜にある限り、「いつまで経っても」、死者であり、神である月は「追いかけてくる」。左の《BABY BED》に「耐えながら涙を流す女を見て 男は『真夜中の雪のように静かだ』『真夜中の雪は、すごく綺麗なんだ』と言った(Looking at a woman in tears, refraining, the man said "It's tranquil like snow in midnight" "The snow in late night, you know, is very beautiful")とあるのは、常時監視されることに耐えられない「私」に対する「神」からのお告げである。もっとも、お告げとは、実は「私」のモノローグである。なぜなら、神は月であり鏡であり、それを眺める「私」自身の姿が映っているに過ぎないからだ。神の正体は「私」なのである(第三者の審級は内面化されている)。その証拠に、胸の前で合掌する、クリーム色の陶製の天使を描く《she》(210mm×297mm)の詞書に着目してみよう。「彼女は『あなたみたいな顔の天使を見たことがある』と言う/存在しないペニスの幻想に横たわる友情と呼ぼう何か(She says "I've dreamt of a dear thing with a face just like yours" / Illusion of a penis between the two /  Let's call it friendship for the time being)」。神(=男)と同一である「私」は女であり、そこに男根は存在しない(Illusion of a penis)。翻って、縦長の画面の《You or I》で破壊された豹の像が晒す空洞は、男根を切り取り形成された女陰であったのだ。父なる神の地位を娘が簒奪したことの傷跡である。

光沢のある黄色いジャケットを羽織った老年の人物の左半身が浮かび上がる《Leisure Class》(965mm×1445mm)は、有閑階級(leisure class)とは真逆の存在である、映画『ジョーカー(Joker)』(2019)でJoaquin Phoenixが演じたジョーカーを描いたもののように見える。「男が自分が恐ろしいとあんまりしくしく泣くので/月で否応なく変貌してしまう狼男の気持ちを慮る(Because the man kept on weeping, being afraid of his own impulse / I contemplate over the werewolf's tragedy, turning wild in reaction to the moon)」との作者のコメントも、心優しき道化師であったアーサー・フレックが困窮に喘ぐ中で次々と襲いかかる災難に精神に破綻を来したジョーカーについて述べたものと解して全く違和感がない。

展覧会 流麻二果個展『その光に色を見る』

展覧会『流麻二果「その光に色を見る」』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2022年4月22日~5月29日。

絵画14件32点(うち《Square》は273mm×273mmの18枚組、《色の跡:松林雪貞「雪貞画譜」》は211mm×333mmの2枚組)で構成される、流麻二果の個展。

《泉の下に》(1940mm×970mm)は、模糊とした色の広がりの中、青、赤、黄、白がモティーフとして立ち上がる作品。右側の中段から下に向かい、横方向に擦れる青い線が平行するように繰り返されている。その上からは縦方向に何本もの赤が滴る。画面左側の上部には黄が二股に分かれるように中段に向かって配され、中央には白が淡い緑の中を滝の落水のように最下端に流れ落ちる。縦長の画面によって縦方向の描線の動きが強調されるのみならず、タイトルが風景を喚起させるのだ。山蔭の落水が遠くの光に恰も感電して発光するようだ。
《曖昧の眼》(1300mm×1940mm)は、画面下半分の大部分を占める暗い青が、赤・緑・黄などが薄く重ねられで出来ている赤味を帯びた領域を挟んで、画面上部の明るい白とはっきりとしたコントラストをなしている。水辺とそれを囲む崖地、地平線近くの雲とそれを超えて光を届かせる太陽といった風景にも見える。
《曖昧の眼》と同じく横長の画面で、画面下部の青と画面上部の白とが対照的な作品に《言外の意味》(1300mm×1940mm)がある。青と白の中間地帯から、朱・黄・紫などが周囲に拡散していくように描かれることで《曖昧の眼》よりも動きを感じさせる作品となっている。タイトルに冠された「言外の意味」という言葉からは、文学における俳句のように、実際に描写されている要素で描かれていない事柄をも伝えたいとの作家の意思が窺える。隣に展示されている、青・黄・朱・桃を用いて正方形の画面を9つに分割するような画面を持っている作品《かたちは残る》(727mm×727mm)のタイトルは、5・7・5の17音に縛られた俳句の定型性を思わせずにいない。一見邦題の《曖昧の眼》の英題が齟齬を感じさせる"More Than Meets the Eye"(「目に映る以上」)とされていたのも、作家が「余韻」の絵画を探究していることに気が付けば、むしろ齟齬は必然であり、納得される。

既存の絵画作品をモティーフとした「色の跡」シリーズから、女性作家の作品を取り上げた「女性作家の色の跡」の4件5点が展示されている。《色の跡:藤川栄子「裸婦」》(997mm×733mm)は、藤川栄子《裸婦》(997mm×733mm)の色を写したものである。藤川の《裸婦》では、アメデオ・モディリアーニを彷彿とさせる画風で描かれた女性が青と緑のクッションとともにソファ(?)に腰掛けている。画面の大半を占める女性の肌とソファの色とがかなり近しいが、女性の姿ははっきりと黒い輪郭によって浮かび上がっている。流の《色の跡:藤川栄子「裸婦」》では、淡い赤褐色の画面に微かに女性の頭部や首、腕などを表わす白が看取できるが、それは原作の存在を知っていればこそである(会場で配布されるハンドアウトに原作の図版が掲載されている)。原作に膝より先が描かれていないのは偶然であろうが、恰も足が無いという幽霊のようだ。絵画を見たときに網膜に映る光学的な像(像の倒立はさておき)が形ないし型として前提されつつ、その残像を描き出している。すなわち「色の跡」シリーズもまた、作家の探究している「余韻」の絵画であった。作家(=絵筆)は依代となり画布にモティーフをなぞることで、作家の魂を召喚してみせているのである。言わば絵画的降霊術である。『マジック・イン・ムーンライト(Magic in the Moonlight)』(2014)、『プラネタリウム(Planetarium)』(2016)、『ブライズ・スピリット 夫をシェアしたくはありません!(Blithe Spirit)』(2020)など、近年でも映画では降霊術(降霊会)がモティーフにされてきている。降霊術がインチキなトリックと示したいのではない。死者(=過去)に対して真摯に思いを馳せ、耳を傾けよとのメッセージなのだ。作家もまた、それを絵画において実践しているのである。

映画『流浪の月』

映画『流浪の月』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
150分。
監督・脚本は、李相日。
原作は、凪良ゆうの小説『流浪の月』。
撮影監督は、ホン・ギョンピョ。
照明は、中村裕樹。
美術は、種田陽平と北川深幸。
装飾は、西尾共未と高畠一郎。
衣装デザインは、小川久美子。
ヘアメイクは、豊川京子。
音響は、白取貢。
音響効果は、柴崎憲治。
編集は、今井剛。
音楽は、原摩利彦。

 

人気の無い公園。花柄のワンピースを身につけた少女(白鳥玉季)が一人ブランコを漕いでいる。ブランコに飽きたのか、少女は近くのベンチに座って『赤毛のアン』を読み始める。隣には赤いランドセルが置かれている。頁に雨粒が落ちてきた。次第に雨脚が強まるが、少女がベンチから動く様子はなかった。雨に打たれる少女に気が付いた青年(松坂桃李)が少女に傘を差し掛けた。朴訥な青年は家に帰らないのか尋ねるが、少女は家に帰る気がなかった。…うち、来る? 少女は青年の顔をゆっくり見上げると、頷く。雨風が強まる中、2人は青年の家に向かう。
少女がベッドで目を覚ます。日が射し込み、カーテンが揺れている。傍では青年が少女の姿を見詰めていた。少女は戸惑う。死んだみたいに眠っていたから。青年が謝る。ずっと眠れなかったから。少女が答える。青年は「佐伯文」と名乗った。「文さん」と言う少女に「文」でいいよと告げる。少女は「家内更紗」だと自己紹介した。「更紗ちゃん」と言う文に「更紗」でいいよと注文する。
夕食にアイスクリームを出された更紗は、アイスクリームを食べていいのか、文に尋ねる。食べたいと言ったから出したんだよ。夕食にアイスクリームは食べさせてもらえなかった。更紗の父は亡くなって、母は彼氏とどこかで暮らしている。更紗は叔母の家に引き取られていた。
ベッドに横たわって『赤毛のアン』を読んでいた更紗は、机に向かっている文に背後から近付き、エドガー・アラン・ポーの詩集をくすねる。一度は文に取り返されるが、再び更紗が本を取り上げると、諦めた文が、更紗にはまだ分からないよと言いつつ、一編の詩を朗読してやる。子供の頃からずっと、他の人たちと同じじゃなかった、見えてこなかった、他の人たちと同じようには…。
ピザをとらせてアニメを見たり、ビー玉やら何やらで部屋を散らかしたり、風呂場で1人で水浴びをしたり。更紗は文の部屋で自由気儘に振る舞った。ある日、テレビで10歳の少女が公園で遊んでいる姿を目撃されたのを最後に行方不明になっているとのニュースが流れる。更紗の雲隠れは、誘拐事件となっていた。帰りたいならいつでも帰っていい。文の言葉に、更紗は帰りたくないと答える。叔母の家では、皆が寝静まった後、叔母の中学2年生の息子が更紗の寝床に忍び込んで、嫌がる更紗の体に触るのだった。ただ文が困った立場に立たされていることは更紗にも分かっている。いいの? 良くは、ない。
更紗が文とともに湖に出かけたとき、2人は警察官に囲まれた。更紗は文から引き離され、文は逮捕された。
ファミリー・レストラン。ホール・スタッフの家内更紗(広瀬すず)が料理をテーブルに運んでいると、高校生のグループが15年前の少女誘拐事件の犯人逮捕の動画で盛り上がっていた。休憩時間、更紗は外の空気を吸おうと屋上に出る。喫煙していた安西佳菜子(趣里)が更紗にも勧める。更紗は一口吸ってひどくむせる。久しぶりだったんで。…すいません、本当は吸わないんです。だと思った。
更紗がマンションに戻り、段ボールを抱えて部屋に入る。更紗は夕食の支度に取りかかる。同棲相手の中瀬亮(横浜流星)が帰宅する。汗だくだと言いながら抱きつこうとする亮に、更紗は体を拭かせる。亮の祖母から荷物が届いたと伝えると、具合が悪いらしいから日曜日に会いに行こうと更紗を誘う。更紗が日曜日はシフトが入っていてと断ると、休日は合わせるって約束したじゃないかと領は更紗を非難する。急に入れなくなった人がいたのと言い訳する、更紗。
日曜日。更紗はファミリー・レストランの女性の同僚の飲み会に参加した。いつも誘っても来ない更紗がいるのを皆が珍しがる。同居人の面倒を見なくちゃならないからよ。あら、あなたそんなプライヴェートな話、家内さんとしたことあるの? 店長(三浦貴大)と話してるの聞こえちゃったのよ。同棲相手に束縛されていると指摘された更紗が、私のことが心配なんだと思いますと言うと、一同は微妙な空気になる。先に抜けた更紗に佳菜子も付いてきた。旦那に生活支えてもらって、集まれば人の噂話ばかり、いい身分だよね。私なんか、夜のバイトも掛け持ちして子供育ててんのにさ。佳菜子はアンティーク・ショップの上にある雰囲気の良さそうなバーが気になっていると、一緒に飲み直そうと更紗を誘う。1階のアンティーク・ショップは閉っていて、2階の店はカフェだった。コーヒーでも飲んでいこうと佳奈子に言われ店に入った更紗は店主の姿を見て動揺する。隠れ家のような薄暗い店を切り盛りしているのは、間違いなく、佐伯文その人だった。

 

家内更紗(広瀬すず)は、ファミリー・レストランの同僚・安西佳菜子(趣里)と偶然立ち寄った喫茶店で、店主が佐伯文(松坂桃李)であることを知る。15年前、母親に捨てられ、叔母夫婦の家に引き取られた更紗(白鳥玉季)は、従兄から性的虐待を受けて、家に帰れないでいた。その更紗を匿ってくれたのが文だった。文との間に性的な関係は一切無く、全幅の信頼を置いていたが、文は女児誘拐犯として逮捕されてしまった。今、更紗には自分に好意を持ってくれた中瀬亮(横浜流星)という同棲相手がいたが、更紗は文の喫茶店に通うのを止められなくなる。

本人や当事者にしか分からない事情があり、誤解されても知られたくない秘密がある。他人の詮索や誹謗中傷に傷つきながらも、否、傷つくからこそ、更紗と文とは2人にしか分からない思いを大切に生きていくのだろう。とりわけ、更紗が自分のことを可哀想だと同情されることを否定しようとする姿が印象に残る。そのとき、警察で従兄から受けた性的被害を訴えることができず、結果として文の行為を正当化できなかったという拭いがたい後悔の念に更紗は襲われているのだ。
主演の広瀬すず松坂桃李とが更紗と文とを実在させて見事であった。少女時代の更紗を生き生きと演じた白鳥玉季は広瀬すずを髣髴とさせる声や面立ちで(逆も又然り)15年の懸隔を繋いで説得力があった。横浜流星が一方的な思いをぶつけるDV男になりきった。
これぞ映画という美しい画面。更紗が滞在する文の部屋に入る日射し、風にそよぐカーテンといった身近なものが掛け替えのない貴重なものに見える。雨風が強まる中、橋(川)を渡る場面の雲と日射しの動きであるとか、文と恋人との後を追って更紗が横断歩道を渡るときの信号の切り替わりであるとか、タイミングも計算され尽していた。
文の母親(内田也哉子)が発育不全の若木を引っこ抜くという演出も明快で見事。

展覧会『不透明な視界 Invisible wall』

展覧会『第10回大学日本画展 名古屋芸術大学 日本画コース二人展「不透明な視界 Invisible wall」』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2022年4月29日~5月15日。

磯部絢子6点、福本百恵5点、計11点の日本画で構成される二人展。両者の大画面作品の黒と赤とが会場に鮮烈なイメージを生んでいる。

磯部絢子《drops》(1800mm×5460mm)は、6枚のパネルを組合わせた漆黒の画面に、雨の景観を表わした作品。左端の中段よりやや低いから3枚のパネルにわたって画面中央向かい次第に幅を狭めながら青い水が広がる。入り組んでいるが、それが浜辺に打ち寄せる波であるかどうか、すなわち海岸や湖岸であるのか水溜まりであるのかは判然としない。地平線は右4枚のパネルの中央に姿を覗かせている。それより上の空間は濃灰色で、それより下の地はさらに白さの加わった灰色である。6枚のパネル全ての下部にも水を表わすと思しき白を中心とした広がりがある。これもまた水溜まりの表現であるのかどうか分明でない。そして、この白い水の手前には画面の中で一番暗い漆黒となっている。展覧会が「不透明な視界」と題されているように、掴み所の無い景観となっている。作品のタイトル「drops」が示す雨滴(雨)は、左からパネルごとに引かれている3本、2本、2本、2本、3本、3本の計15本の白い直線によって表わされている。そのうち10本は垂直に引かれている。その垂直線が基調のリズムを生む。そしてその垂線自体の長短(青い水か、灰色の地か、白い水か、漆黒の地のいずれにまで延びるのか)と、垂線の間に挟まれる5本の白い斜線とが画面に動きを生んでいる。雨は穀雨であり慈雨であるのか、泥濘を作りひいては水害をもたらす豪雨となるのか、闇として広がる虚空が答えることは無く、鑑賞者の想像に委ねられる。もっとも、青い水面の輝きは、明るい兆しを捉えるよう配されているように思われる。
磯部絢子《Day gone by》(1710mm×5460mm)は、画面の左上から右下への対角線の上側に枯れて項垂れる向日葵の群生を表わす。黒い画面は闇であり夏が過ぎたことを、白や茶の線は雨を表わす。掲示されている作家本人の解説によれば、スマートフォンの画面に向かう人々の姿を表したものだという。狭い地域に群生するその姿は、人口密度の高い島国と、皆が下を向いているのだからと安心する国民性とをよく表わしている。衰頽する国家のサーカスは、何もケンゴな負けない建築で行なわれるものでなくともよい。掌の上でサーカスは常に光り輝いている。

福本百恵《燦爛赫赫東西花鳥図》(1800mm×5460mm)は、6枚のパネルを組合わせた鮮紅の画面に、花鳥を表わした作品。左端のパネルの左下から右上に向かって伸びる太い木は、蔓状になってうねるように右へ向かう。2枚目のパネルにはイチゴ、3枚目のパネルには朝顔、3枚目から4枚目にかけては葡萄が絡まり、5枚目から6枚目の群生する赤、紫、ピンク、白の花々(ケシ? ビオラ? ペチュニア? ストック?)の中へと姿を消していく。木々や花々の中にはタイハクオウム、オニオオハシ、あるいはカワセミやツバメなどが、首を傾げたり鳴き叫んだりと剽軽な姿を見せる。一際目を引くのが画面右上で日輪のような金円(半円)に重ねられるクジャクの羽であり、それと画面左下で扇のように羽を広げるアカコンゴウインコとが対になっている。黄緑、青、ピンクなどで表わされる蔓が画面全体にわたって横方向に伸びているのは、二重螺旋構造のDNAを表わしたものであろう。多様で華やかな生命の世界を支えるのは、思いの外シンプルな4種の塩基の組み合わせであることを示すものである。全ては繋がり、そこに壁などは存在しない。
福本百恵《不透明な視界》(1710mm×1760mm)は、赤い画面に同じ色の絵の具でエンボスのように盛り上げて椿の木を表現し、その周囲に15羽の雀を配している。掲示されている作家本人の解説によれば、新型コロナウィルス感染症の蔓延を防ぐために距離をとらなければならなくなった人々の世界を描いているという。ゴージャスな絵画が、椿事に当たり「唾(ツバキ)を避ける」人々を表現していたとは、驚きである。

展覧会『BankART Under 35 2022 第1期』(ユ・ソラ個展)

展覧会『BankART Under 35 2022 第1期』(ユ・ソラ個展)を鑑賞しての備忘録
BankART KAIKOにて、2022年4月28日~5月15日。

BankART Under 35」は、2008年にスタートした、35歳以下の作家を個展形式で紹介するシリーズ企画。今年は4期にわたり8名の作家を紹介する。第1期は、ネット上に現れるニュース(主にゴシップ)や広告をA4のコピー用紙にマジックインキで描き出す小野田藍、そして、木綿のニット地などに中綿を入れた支持体と黒糸の刺繍とで日々の生活で取り囲まれているモノを表わすユ・ソラの個展がそれぞれ行なわれている。白い支持体に日常を記すという点で共通するが、色取り取りのペン画を床に散蒔くという、雑多なモティーフを乱雑に展示するインスタレーションと、コードが絡んだり衣類が丸められたりしながらも白の力で整然と仕上げられた空間との対比は鮮烈である。以下では、ユ・ソラの個展を取り上げる。

《日々をかさね、》は、牛乳パック、マグカップ、皿、スプーン、レシートなどを載せたテーブルと、椅子2脚、皿や本を積み重ねたベンチ、段ボール箱などが、輪郭などを黒い糸で縫い付けた白い布を用いて、おそらく原寸大で立体的に表わされた作品。型取りされているわけではないが、日常的に用いる品々の実寸(life-size)の立体的な記録であり、なおかつ白い作品であるという点で、石膏で作られるデスマスク、否、ライフマスクとの共通点がある。白い支持体に黒い「線」を用いて輪郭線や文字を表わす点は、ドローイング的と言える。だがその黒い線は、アウトラインステッチであろうか、刺繍によるものだ(何本取りにするかはモティーフにより違えてある)。線は細いが、白い布の中ではっきりとその存在を主張している。刺繍する際の、糸が行ったり来たりする規則的な動作は、時間の進行でああるとともに日々の積み重ねでもある。また、生地の表と裏との往還は、昼と夜との繰り返しをなぞるものでもある。そして、何より作品を特徴付けているのが、ぞんざいに垂らされている黒糸だ。モノを白い形と黒い輪郭線とで正確に写す型が定まっていて、余剰の黒糸は余韻を具現化する。《日々をかさね、》というタイトルの「、」は、その黒糸を示すものであったのだ。そして、「日々をかさね、」は省略法であるが、作品自体は対象の形態全てをそっくり写し呈示しているので、留守模様、換喩とは言えない。韻文に擬えるなら、俳句よりは短歌に近しいと思しき表現である。
なお、《日々をかさね、》と同題のインスタレーションとしては、電気スタントや筆記具などを載せた机と椅子などを組み合わせたもの、クッションとハンガーを載せたソファと本やカップや鋏やリモコンなどを載せたロー・テーブル、壁の照明スイッチを組み合わせたもの、枕や掛け布団などのあるベッド、時計やアイロンなどの載るサイドボード、床に落ちたピザの箱、壁掛けの時計などを組み合わせたものがある。
ハンバーガー・ショップのガムシロップや角砂糖を白い布に黒糸で刺繍した《些細な記念》(各500mm×500mmの2点組)、床に置かれた6口の電源タップに挿された5個のプラグのコードが絡まり合っている様を白い布に刺繍した《机の下のもの》(黒糸、白糸の2種。各1600mm×1100mm)など、平面的な刺繍作品は、実寸から拡大されて表現している。展示作品中、最大の規模の《普通の日》(2400mm×3600mm)もまた、ハンガーやピンチハンガーに干された衣類を大きく表現している。拡大表現は、原型の縮尺を変更して鋳造できるブロンズ彫刻を思わせる。生活の記念碑としての意味合いも生むのみならず、原型という型の存在が想起されるだろう。そして、鑑賞者を圧倒する衣類は、白い布で鑑賞者を取り囲む、いわば本展の「縮小鋳造」でもあることに気付く。会場に滞留する時間が延びてしまうのは、陽光のもと洗われた白いシーツに包み込まれるような感覚が味わわれるからであった。