展覧会『二藤建「ヘルニア 第1部《労働のエステティクス》」』を鑑賞しての備忘録
gallery N 神田社宅にて2018年11月17~2018年12月1日。
最近まで勤め人でアーティストであった作家が、脱サラ後初めて行う展覧会とのこと。医学用語としておなじみの「ヘルニア(hernia)」をタイトルに関しているが、この言葉にはもともと「脱出」という意味があるという。
白いワイシャツの襟(ホワイト・カラー)とそこにかかったねずみ色のボロ雑巾でできたネクタイから成る《labor's symbol》が入口で来場者を迎える。
リズミカルに聞こえる悲鳴は、扉の中に設置された《welcome》という作品の音声。扉を開けると、扉にぶつかるように、バルーン・アートで用いる風船がたくさんつまったポリ袋が設置されている。発光ダイオードか何かの光に照らされている風船はソーセージ(腸)のように膨らまされている
。
続いて引き戸を開けて中に入ると、緑の画面に描かれたヘルニアの図解らしきものが壁に掛けてある(《ヘルニア1-1》)。
黒いカーテンを抜けると2作品が展示された暗い空間が控えている。いくつかの白いモニター画面がお互い向き合うように垂直に並べられた、腰椎を模した作品《カジフカフカシの腰椎》が隅に置かれている。家事労働にかかわる音声がそれぞれのモニターから聞こえ、隙間からわずかに映像を見ることができるようになっている。もう1つはドタバタと大きな音を立てた巨大な箱のような《労働の美》と題された作品。両作品は一定時間が経過すると、同時に静寂が訪れる対の作品になっている。
二つのヘルニア
労働が生活を壊すとき
人の価値が金に置き換わるとき
防衛本能が他者の安全を脅かすとき
手段が目的への従属をやめるとき
システムへの信仰が暴走を始めるとき
そこにはヘルニアが起こっている。
不遇の中に生きる糧を育む時
気にも留めなかったものごとの価値に気づく時
繰り返されてきた過ちに目を向ける時
自らの至らなさの延長に世界の性質を見つける時
怠惰を振り切って行動を起こす時
そこにはヘルニアが起こりうる。
社会は誰のためにあるのか。
その答えが揺らぐ今
ヘルニアに気をつけて、
ヘルニアを目指せ。(二藤建人)
ヘルニアの両義性。
1つは、痛み。
「痛みとは、身体的損傷によって機械的に生じる反応ではなく、自分への対処とケアを求める反応であり、援助を請う動作だということである。」「痛みとは、自分自身に対して行動を求める呼びかけであると同様に、他者に対しても向けられている呼びかけなのだ。」(河野哲也『境界の現象学』66頁)
1つは、脱出。
「意味のあるものとは」「関連性のもとに置かれること、文脈の中に位置づけられることである。」「逆に無意味なものとは、周囲との関連性を失い、孤立してしまったもの、そして、それゆえに相対的な位置づけをもたなくなったもの、言い換えれば、絶対的なものである。」「周囲との関係性を切るもの、孤立するもの、無根拠なものとは、すなわち、個体だということであり、生物だということである。そして、無意味であると同時に絶対的であることの最終的な根拠とは、私たちが死ぬということにある。死ぬ存在であるということは、裏を返せば、個体として生きているということである。この死すべき個体であることが、無意味性と無根拠性、また独立性と絶対性を湧出するのである。」(河野哲也『境界の現象学』168~169頁)
ヘルニア(自他への行動を求める呼びかけ)に気をつけて、
ヘルニア(独立性と絶対性)を目指せ。