可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『αM2018「絵と、 」vol.4 千葉正也』

展覧会『αM2018「絵と、 」vol.4 千葉正也』を鑑賞しての備忘録

gallery αMにて、2018年11月10日~2019年1月12日。

gallery αMが1年ごとにゲスト・キュレーターを選定して開催しているシリーズ企画。2018年度は蔵屋美香東京国立近代美術館)がキュレーターとなり、『絵と、 』と題して絵画に取り組む。4回目となる本展では千葉正也を紹介する。

展示室に入ると、左手に数本の木が植えられているのがまず目をひく。観葉植物にしてやや大きすぎる木が、展示室の照明を浴びつつ、葉を落としながら、ギャラリーの空間内に置かれているのだ。入口のそばに"You can use these headphones"との書き込みと指さす手の描かれた絵画が掛けられていて、近くの木にヘッドフォンが掛けられている。ヘッドフォンからは実験音楽的な、ノイズ寄りのサウンドが流れている。その木には上の枝に写真がいくつかかけられている。また、少し離れた柱には、双眼鏡が"You can use these binoculars to see the work"と書いた作品とともに置かれている。
展示室の奥には、"You can sit down on this chair"と描かれた絵画とともに椅子やソファが置かれ、近くに設置された木の上にはやはり写真と絵画とオブジェが設置されている。さらに展示室外の階段にはやはり植木が置かれ、そこにはモニターが設置されて、運転中の車からの景色が延延と映し出されている。

よく分からないもやもやを掲げながら展示室内を一巡した。
この時点では、絵画(芸術)鑑賞を通じたライヴ感覚の模索ということを考えた。インターネットを通じた鑑賞がより簡単に、より精細にできるようになり、現場に足を運ばなければ得られない「体験」をどのように産み出すか。そのための手法として「フルクサス」のような鑑賞者の参画を絵画を通じて企図したのか、と。

「絵になる男:千葉正也の作品について」という蔵屋美香の解説を読んで、植木とそこに飾られた作品が「Jointed Tree Gallery」という千葉正也の樹上展覧会のプロジェクトだと分かる。千葉は自らの作品ではなく、他のアーティストの作品を展示するスペースを樹上に用意していたのだ。

そして、千葉の絵画作品そのものについては、次の通りである。

ここで便宜的に、主体(subject)と客体(object)という西洋哲学の伝統的な二分法を用いてみよう。2014年のわたしの理解では、まず千葉という創造の主体がいる。その主体が絵画という客体(オブジェクト)を作る。このオブジェクトは、完成すれば主体の手を離れ外的な存在となる。この(千葉の場合木材と布地でできた)新しいオブジェクトは、現実のうちに新たに位置を占めることで、既存の現実の秩序をいくばくか組み替える。つまりこのようなやり方で千葉の絵画は現実に関わっていく。
 ところが、どうも千葉はこの主体が客体を作る、という構図で制作を行っているわけではないようなのだ。絵画を描くとき、千葉はどんどん絵画の方に寄って行き、最終的には絵画の側から現実に対して何らかの操作を行なっている、という感覚を得るのだという。千葉にとって絵画の制作とは、客体のうちに移動して主体の地位を失う、つまり自らが「絵になる」事態を指すらしいのである。(蔵屋美香「絵になる男:千葉正也の作品について」)

「千葉にとって絵画の制作とは、客体のうちに移動して主体の地位を失う、つまり自らが『絵になる』事態を指す」という言葉と、会場に置かれた双眼鏡("You can use these binoculars to see the work")とが、ぱっとつながった。それは、江戸川乱歩の「押絵と旅する男」という作品を通じてである。

乱歩の「押絵と旅する男」では、語り手が蜃気楼見物に魚津へ行った帰りの車中で奇妙な老人に出会い、彼が持ち歩く額絵を見させられる。その絵には、「黒天鵞絨の古風な洋服を着た白髪の老」人と、「緋鹿の子の振袖に、黒繻子の帯の映りのよい十七八の、水のたれる様な結綿の美少女」とが描かれている。そして、老人に、その絵を双眼鏡で見るよう指示される。

 娘は動いていた訳ではないが、その全身の感じが、肉眼で見た時とは、ガラリと変って、生気に満ち、青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動こどうをさえ聞いた)肉体からは縮緬の衣裳を通して、むしむしと、若い女の生気が蒸発して居る様に思われた。

そして、老人はこの絵に描かれた男、自らの兄について語り出す。兄は浅草にあった塔「十二階」から双眼鏡をのぞいているときにみかけた女性に激しく恋をする。そして、その女性が覗きからくりに描かれた「八百屋お七」であることが分かる。しかし兄はその女性を諦めきれず、「押絵の中の男になって、この娘さんと話がして見たい」と言い出す始末。

 もうすっかり暮切って、遠くの玉乗りの花瓦斯が、チロチロと美しく輝き出した時分に、兄はハッと目が醒めた様に、突然私の腕を掴つかんで『アア、いいことを思いついた。お前、お頼みだから、この遠眼鏡をさかさにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれでないか』と、変なことを云い出しました。『何故です』って尋ねても、『まあいいから、そうしてお呉くれな』と申して聞かないのでございます。(略)さかさに覗くのですから、二三間向うに立っている兄の姿が、二尺位に小さくなって、小さい丈けに、ハッキリと、闇の中に浮出して見えるのです。外の景色は何も映らないで、小さくなった兄の洋服姿丈けが、眼鏡の真中に、チンと立っているのです。それが、多分兄があとじさりに歩いて行ったのでしょう。見る見る小さくなって、とうとう一尺位の、人形みたいな可愛らしい姿になってしまいました。そして、その姿が、ツーッと宙に浮いたかと見ると、アッと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。
(略)
 ところが、長い間探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻って参った時でした。私はハタとある事に気がついたのです。と申すのは、兄は押絵の娘に恋こがれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の身体を押絵の娘と同じ位の大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。そこで、私はまだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せて貰いましたが、なんとあなた、案の定、兄は押絵になって、カンテラの光りの中で、吉三の代りに、嬉し相な顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。

 

千葉の作品そのものは壁に掛けられているので双眼鏡を用いる必要は無いが、「Jointed Tree Gallery」の作品は、双眼鏡で見るにふさわしい程度の距離が作品までの間に存在する。肉眼で見上げているときには、遠くに小さくしか見えず、しかも写真や絵画という形式であることを意識せざるを得ない。しかし、双眼鏡を通して見ると、写真のフレームは視界から消え、被写体だけを捉えることができる。そのとき、遠方の人物をレンズを通して眺めている感覚を味わうことが可能になる。「生気に満ち」ているとは言わないまでも、「その全身の感じが、肉眼で見た時とは、ガラリと変」ることはありうるのだ。

また、「Jointed Tree Gallery」がgallery αMというギャラリーの中のギャラリーである(あるいは展覧会の中で開催されている展覧会)ということも、「押絵と旅する男」が語り手の体験という大枠の小説の中に、老人を語り手とするもう1つの小説が存在することと同じ形式をとっている。

それでは、千葉の絵画における"You can use these binoculars to see the work"のような言葉は何であろうか。「絵画の制作とは、客体のうちに移動して主体の地位を失う、つまり自らが『絵になる』事態を指す」のならば、その言葉は絵画=千葉のメッセージと解するのが素直だろう。そして、双眼鏡で作品をのぞき込む私は、絵画に入ってしまった作者について語り出す老人の役割を担うことになる。やはり鑑賞者は、絵画の鑑賞を通じて、この展覧会に参画せざるを得ない。

 

なお、乱歩の「押絵と旅する男」については、平野嘉彦『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』(みすず書房)の解釈が面白い。