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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『バレエ 究極の美を求めて』

展覧会『薄井憲二バレエ・コレクション特別展 The Essence of Beauty バレエ 究極の美を求めて』を鑑賞しての備忘録

そごう美術館にて、2018年11月23日~12月25日。

 

兵庫県立芸術文化センター所蔵の薄井憲二バレエ・コレクションを中心に、絵画・写真・衣装など様々なバレエに関する資料400点超を紹介する見応えある企画。

 

エントランスでは牧阿佐美バレヱ団の『くるみ割人形』のハイライト映像と衣装がお出迎え。今年(2018年)はチャイコフスキーの三大バレエ(『眠れる森の美女』・『くるみ割り人形』・『白鳥の湖』)の振付で知られるマリウス・プティパの生誕200年に当たるという。

第1章は「バレエを知る」と銘打って、フランスを中心にヨーロッパにおけるバレエの変遷、日本におけるバレエの受容、バレエに関わった美術家たち(コクトーシャガールピカソ、ダリ、ドガローランサン)を紹介する。
第2章は「バレエを観る」と題し、牧阿佐美バレヱ団の衣装、チャイコフスキーの三大バレエ関連資料を展示する。
第3章は「バレエを踊る」と題したコーナー。トウシューズやバレエ・バーが紹介されている。

 

個々の資料に関する解説だけでなく、随所にコラムのような文章が掲示されていて、資料をより興味深く見せる工夫がなされている。

 

出展される資料のうち300点は薄井憲二バレエ・コレクション。薄井憲二(1923~2017)は偶然耳にしたバレエ音楽に打たれ、バレエに興味を抱く。バレエを探究するため東勇作の門を叩き自らダンサーとなった。東京帝国大学在学中に学徒出陣により満洲へ出征し、敗戦後はシベリアに抑留された。その間、ロシア語の習得に努め、ダンサーであることを訴えて現地の人とも交流した。引き揚げ後すぐにバレエ界に復帰し、ダンサー、振付家、教育者として日本バレエに貢献し、世界三大コンクール(モスクワ、ヴァルナ、ジャクソン)などの審査員も歴任した。薄井自身の業績も第1章で紹介されている。

 

イタリア・ルネサンス期の社交ダンス「バロ」が、合唱曲に合わせて踊る「バレット」や「バレッティ」となった。フランス王家に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスによって「バレエ」の語が初めて用いられたという。

 

ニジンスキーの写真(1909年の「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の記事)は、彼の卓抜した跳躍力をよく示している。跳躍の秘訣を問われて「簡単なことだよ、飛び上がったら、空中で止まればよいのだから」と答えたというエピソードも伝わる。

 

ジャポネズリが席巻したパリでは、日本を舞台にしたバレエ『ル・レーヴ』が1890年にオペラ座で公演された。当時のポスター(テオフィル・アレクサンドル・スタンラン画。多数の扇が印象的)などとともに、長く幻であったこの作品が今年(2018年)京都で演じられた際の資料も展示されている。

 

トウ・シューズは、19世紀前半のロマン主義文学の特徴をふまえた「ロマンティック・バレエ」で登場した。妖精や精霊などの存在を浮遊感をもって表わすのに効果的だった。マリー・タリオーニの『ラ・シルフィード』を描いた絵などにその特徴が伝わる。

 

「プロセニアム・アーチ」と呼ばれる額縁で囲まれた舞台は、絵画を意識。

 

ボックス席は鑑賞には不向きだが、他の観客から最も視線を集める。

 

ボックス席の客は上演中でも自由に楽屋や舞台袖に出入りできた。高額な年間定期券(アボネ)の購入特典として「ホワイエ・ド・ラ・ダンス」と呼ばれるウォーミング・アップ・エリアが開放された。紳士たちはお気に入りのダンサーに贈り物をし、食事に誘い、場合によってはより深い関係にもなった。「オペラ座は上流階級の男達のための娼館」と評する批評家もいたという。
フランスではなく、帝政ロシアが舞台の映画『マチルダ 禁断の恋』でも政府高官とバレリーナの関係が描かれていた(映画『レッド・スパロー』もきちんと伝統を踏まえているということだろう)。
このような事情もしっかり紹介している点が本展の素晴らしいところ。

 

エリアナ・パヴロバはロシア革命を逃れて来日し、日本初のバレエ学校「パヴロバ・バレエ・スクール」を1925年に鎌倉に開校した。エリアナは後に日本に帰化し、戦争慰問中に死去。「日本バレエの母」とも呼ばれている。なお、エリアナ・パヴロバを紹介するセクションでは主に鎌倉市所蔵の資料が紹介されている。

 

三浦雅士は、「本年最大の話題」として、東京シティ・バレエ団による「白鳥の湖」で、藤田嗣治による舞台美術を奇跡的に復元したことを挙げている(毎日新聞2018年12月11日夕刊4面)。本展では藤田嗣治の舞台美術の再現資料が紹介されている。