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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『大原大次郎・田中義久 二人展 大原の身体 田中の生態』

展覧会『大原大次郎・田中義久 二人展 大原の身体 田中の生態』を鑑賞しての備忘録

クリエイションギャラリーG8にて、2019年1月11日~2月14日。

デザイナーである大原大次郎と田中義久の仕事を互いが紹介し合う企画。

「大原による田中の生態研究」と「田中による大原の身体考察」という2つの展示と、その制作過程映像を紹介するの3つの空間で構成される。

「大原による田中の生態研究」では、田中義久によるブック・デザインを大原大次郎が分析する。田中がこれまで制作した本が会場内の柱の脇に閲覧可能な状態で置かれ、それらの本のデザインの解説が壁面に絵画のように額装されて展示されている。例えば、ホンマタカシの『ニュードキュメンタリー』では、写真展の記録としての写真はどうあるべきか、写真展を本(カタログ)にまとめる際の空白やページの割り当て方(時間の流れ方)などといった「論点」が提示されている。
会場内に黒板を設置し、本に関わる仕事を「進行形」で書き込んで紹介していく試みも同時に行われている(現在、中平卓馬の写真集の制作が進行している模様)。

「田中による大原の身体考察」では、手漉き和紙が空間につり下げられ、新聞の束や石などが床に置かれている。大原が滞在先で採集したモノや、大原の行為に内在する身体性を表現した和紙を展示することで大原の「行為を収集する」試みだという。作品ではなく「行為」を展示しようという試みのため、「大原による田中の生態研究」に比べ分かりづらい。別室の制作過程映像を見れば、意図を汲める仕組みなのかもしれない(が、そちらは未見)。

「もしそう〔引用者註:縄文・弥生期の山焼きによる微粒炭が土壌中に留まり黒土を形成したとする山野井徹の説)であれば、普段よく目にする黒土は、1万年かけて縄文人が人工的につくったことになる。自然だと思っていた森が、実は人工林だったと気付いた経験を思い出した。自然に対する境界線の曖昧さは、日常に溢れているのかもしれない」という田中の考え方は、美術家の平子雄一の絵画作品(問題意識)に通じる。

田中は「震災が起きてから、およそ半年に渡って捨てられていく新聞紙を拾い集め」、「異なる新聞社の紙面をバラバラに組み替え、適当に裁断し、ホッチキスで簡易的に綴じてい」った。それら雑誌のような形になった古新聞が会場の片隅に積み上げられている。田中は「各新聞社のレイアウト構成や意図が削がれ、断片化された記録の情報が」「素直に受け入れやすくなっていった」と言い、「大原大次郎がレジデンス先で漂流物と向き合う行為もこれに近いのかもしれない」と考える。漂着物を受け取る行為には、無意識的・受動的な行為と意識的・能動的行為との境界をまたく性格があり、そこにデザイン(の可能性)を看取しているということだろうか。また、田中は続けて、「属人性、歴史性などによって環境意識は大きく変化しうる。その土地、場所で何かを拾うという行為を、表層的エコロジー、あるいはサイトスペシフィック的文脈で語るのではなく、個別的経験の質に基づいた視点で考えるべき手段はないのだろうか」と問う。場の持つ固有性に搦み取られることない視点を導入する方法論を模索しているようである。