展覧会『イサム・ノグチと長谷川三郎 変わるものと変わらざるもの』を鑑賞しての備忘録
横浜美術館にて、2019年1月12日~3月24日。
イサム・ノグチと長谷川三郎の交流と影響関係を作品に辿る企画。横浜美術館とイサム・ノグチ財団・庭園美術館(ニューヨーク)との共同企画。爾後、米国2館に巡回するが、長谷川三郎の戦前の作品などは横浜美術館のみでの展示。
長谷川三郎の戦前の作品を紹介する「1 長谷川三郎 抽象美術のパイオニア 伝統と現代つなぐ」、長谷川三郎が1950年代前半に制作した墨・木版・拓刷による作品を展示する「2 1950年代の長谷川三郎 イサム・ノグチとの出会いを経て」、科学の時代に相応しい表現を模索して日本の文化遺産に向き合った長谷川三郎とイサム・ノグチの作品を並べる「3 長谷川三郎とイサム・ノグチを結びつけるもの」、《広島の死者のためのメモリアル》をはじめとした、イサム・ノグチが日本で制作した作品を陳列した「4 イサム・ノグチの日本における制作活動のはじまり 1950-1954年」、長谷川
三郎が渡米した際に、道教や禅を題材に即興的に制作した作品を展観する「5 開かれた道 アメリカでの長谷川三郎」、日本文化のエッセンスを美術作品へと応用したイサム・ノグチの作品を集めた「6 古い伝統の真の発展を目指して 1954年以降のイサム・ノグチ」の6章で構成。
本展第1章について。
岡崎乾二郎が抽象芸術について論じた『近代芸術の解析 抽象の力』は、次のように始まる。
キュビスム以降の芸術の展開の核心にあったのは唯物論である。
すなわち物質、事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける。その具体性、直接性こそ抽象芸術が追究してきたものだった。アヴァンギャルド芸術の最大の武器は、抽象芸術の持つ、この具体的な力であった。
(岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』p.8)
視覚、聴覚、触覚など感覚器官が受け取った情報を綜合したところで、対象の認識とは一致しない。それは裏を返せば、「物質、事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける」ということになる。
いずれにせよ、キュビスムの前提にあったのは、感覚与件=視覚を含めた個々の感覚器官が刻一刻と感受している情報と、対象の認識=人が対象として把握していることはまったく異なる次元の事柄だという認識である。すなわち、人は、視覚が捉えうる情報を超えて、対象をより直に捉えている。それを絵画あるいは彫刻(いや芸術作品)はいかに可能にするのか?
(岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』p.14)
「物質、事物」である芸術作品は、いかにして精神に働きかけていくのか。これが抽象芸術の本来のテーマだと言うのだ。
同書で岡崎が取り上げる作家の一人が、長谷川三郎である(「長谷川三郎のトポロジー」岡崎前掲書p.88~104)。長谷川は1906年山口県豊浦郡(現在の下関市)生まれの芦屋育ち。甲南高等学校在学中に小出楢重に油画を学び、東京帝国大学で美術史を専攻、卒論に雪舟を取り上げる。1929~31年に欧米を巡った際、パリでモンドリアンのアトリエを訪問し、「次元を超えた空間の拡張性、(時間を含む)可変的な空間を感じ取った」という。
長谷川の作品歴を通して注目されるべきは、その作品構造の独自性にある。が、この構造は(カルダーが創案したモビールという形式と同じように)むしろ作品の物理的制限を超えた制作方法に由来するといった方が正確だろう。その方法は欧州からの帰国後、自由美術家協会が結成された1930年代後半におおよそ完成したとみていい。
《蝶の軌跡》、《都制》、《新物理学B》、タイトルが示す通り、昆虫たちが活動する生態系あるいは交通網のようなネットワークの編目ががある。長谷川の好んだ「あやとり」のように、生きた活動を司る位相構造の同一性さえ維持されれば空間は伸縮、折り畳み自在である。長谷川がここで把握しているのは確定した形態も大きさも持たない位相空間=トポロジーである。
(岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』p.91)
位相幾何学(?)が分からないので心もとないが、あやとりの糸が輪(平面的な円)から、立体的なものも含めた様々な形態へと変化するように、絵画に「次元を超えた空間の拡張性、(時間を含む)可変的な空間」を表そうとしたということだろう。《蝶の軌跡》では、∞のような形が中央に大きく描かれる。これが蝶の軌跡を表すなら、蝶は空間の中を自在に動き回っているのだから、奥行きをもったものを平面に落とし込んでいる。実際、他の動きを表すと思しき線と交差しているが、空間上では互いに触れ合ってはいないことになろう。なおかつ、軌跡は移動であるから時間の平面状への表現にもなる。《都制》では条坊制のような碁盤の目の構造を持つ都市の地図のイメージを表しているが、毛糸、綿、小豆を用いており、空間(立体)を平面に落とし込む様を直接呈示することで、《蝶の軌跡》などの自作解説を行っているとも受け取れる。写真作品《郷土誌―衣》では、洗濯ロープが手前から奥へと複数張られ、そこに布がかけられている、あたかも舞台装置を撮影したかのような作品である。これも奥行きのある空間を平面に落としこんだ結果を見せる意図が明瞭だ。
そして、岡崎が「今後長谷川の作品を理解するもっとも重要な鍵になるだろう」と指摘するのが、《室内》と題された写真である。
この写真作品は、モンドリアン風の構成をも思わせる畳の上に長谷川が、新聞紙(当然、緊迫する時局の様相が歪曲されているにせよ掲載されている)を丸めてランダムに投げて撮影したものである。当時の世界を捉えるこれほど適切な方法はあるまい。日常に投げ込まれていく政治的事変を構造として直接示す点において、いかなる写実絵画をも方法論的に凌いでいるともいえる。すなわち長谷川の《室内》シリーズは、カメラの固定された視点を世界とモノの可変的函数性へと開いている。丸められ放り投げられることによって(デュシャンが《三つの停止原器》で示したように)、新聞に刻印された日々の出来事が偶然的なものでしなかないことを告発してもいる。反対に、この組み写真制作方法が構造的に呈示しているのは、可変性を含む不変の(易経が示していたような)構造である。
(岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』p.93)
《室内》において、新聞紙が丸められた結果どんな形をとろうと、そして投げ込まれた結果としてどんな位置にあるとしても(可変性。あやとりが生み出す形)、畳の上にある新聞紙という関係に変わりはない(不変の構造。あやとりは糸でできた輪である)。この作品もあやとりに還元できるのだ。
そして、岡崎は、長谷川の写真についての考えを次のように要約する。
(略)写真装置の弱点を突き詰めれば、写真は視点が固定された上で外界の視界、対象を写真画面に一元的に写像する(平面化する)ことにおいて、遠近法を用いた古典絵画と同じ欠点をもっている。この構造に準拠する限り、写真装置も伝統的な写実絵画と同じく、現代の知覚世界を表現するには有効ではない。一方で映画が再現できる時間もあくまでも線的に進行する時間に拘束されるほかない。ゆえに長谷川は、映画以降の(フォトプラスティックに代表される)新しい写真術は、その映画をも超えて、映画には不可能な多次元的に進行する複数の時間軸、空間をそこに同時に包含するべきだというのである。
(岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』p.95,p.98)
古典的な絵画が持つ固定的な視点や、映画のリニアな表現を克服し、「多次元的に進行する複数の時間軸、空間をそこに同時に包含する」表現が長谷川の関心になっている。この関心は、瑛九のフォトデッサンに啓発されて生まれたという。
瑛九のフォトデッサンの上で、本来、異なる時間に属するモノたち(当然、同じ空間尺度も持ちえない)、そしてそのモノたちを照らした、それぞれ別の時に輝いていたはずの光が、一つの画面の中で一緒に呼吸し、ありえるはずのない一つの光となってそこを充たしている。どこにも定位できない時間と空間。にもかかわらず、異なる次元にあるモノたちは、このありえるはずもない(が驚くべき明晰な)一つの光のもとで、(ありえるはずのない)一つの場所があるという確実性をまさに「いま、ここ」として顕現している。
(岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』p.98~99)
そして、長谷川が「多次元的に進行する複数の時間軸、空間をそこに同時に包含する」手法として生み出したのが、「マルチブロック」なる技法である。蒲鉾の板に円・直線・矩形などを彫ってポスターカラーを塗り、組み合わせて、小さな紙に捺していくものである。その小さな紙を屏風などに配置していくことで作品としている。小さな紙はそれぞれ「それぞれ可変的でありつつ同一性を維持する自立的構造」を持ち、それが屏風などに複数貼られることで、「多次元的に進行する複数の時間軸、空間をそこに同時に包含する」表現を可能にしたのである。「マルチブロック」技法による作品は、本展第2章でまとめて紹介されている。