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芸術鑑賞の備忘録

映画『天国でまた会おう』

映画『天国でまた会おう』を鑑賞しての備忘録
2017年のフランス映画。
監督は、アルベール・デュポンテル
脚本は、アルベール・デュポンテルとピエール・ルメートル
原作は、ピエール・ルメートル『天国でまた会おう』。
原題は、"Au revoir là-haut"。


1920年11月、アルベール・メイヤール(Albert Dupontel)は、モロッコでフランス憲兵隊に逮捕される。将校(André Marcon)の尋問に、アルベールがこれまでの経緯を語り始める。
第一次世界大戦終結直前の1918年11月、アルベールはプラデル中尉(Laurent Lafitte)率いる部隊に所属し、塹壕でドイツ軍と対峙していた。終戦が近いとの噂が広がり、士気は低下していた。アルベールが親しくなった青年エドゥアール・ペリクール(Nahuel Pérez Biscayart)は優れた絵描きであり、暇つぶしにプラデルのカリカチュアを描いていた。そこへ軍用犬が伝令をもたらし、プラデルは2名の兵士を斥候に立てる。銃声が響き、部隊で最年少と最年長であった2人の兵士が斃れると、プラデルは突撃命令を下す。砲弾が炸裂する中、アルベールは斥候の2人が背後から撃たれていることに気がつく。プラデルはアルベールが悟ったことに気がついて亡き者にしようとする。そこへ砲弾が炸裂し、アルベールは塹壕の中に埋まってしまう。死んだ馬の口から空気を吸うことで何とか生き長らえていたところをエドゥアールに救出されるが、今度はエドゥアールが被弾してしまう。戦闘が終結し、エドゥアールは生き長らえはしたが、顔面の下部を失い、言葉を発することもほぼ不可能になった。エドゥアールは父マルセル(Niels Arestrup)のもとに帰ることを頑なに拒絶し、殺して欲しいと訴える。アルベールはエドゥアールの戦没を偽装し、身寄りのない戦没者の名を用いて新たな人生を歩ませることにする。アルベールはパリの貧民街の屋根裏にエドゥアールを匿い、エドゥアールを絵描きとして再起させようと奮闘していた。他方、プラデルは戦後、戦没者埋葬事業で大金を稼ぐとともに、中央銀行総裁マルセル・ペリクールの娘(エドゥアールの姉)、マドレーヌ(Émilie Dequenne)を妻に迎えていた。徐々に回復しつつあったエドゥアールだが、顔面の損傷が生きる希望を奪っていた。小間使いのように出入りしていた孤児のルイーズ(Heloïse Balster)は、エドゥアールの醜い容姿に動じないことに力を得たr毒アールは、ルイーズを助手として、自らの顔を飾るためのマスクを制作し、絵筆をとるようになっていく。そして、ある日、エドゥアールは、絵を用いて大金を手に入れる計画をアルベールに持ちかける。

映画は、モロッコ憲兵隊の詰所で、アルベールが語り始めるシーンで始まる。アルベールの回想が本編の内容であるので、穴だらけの戦場を軍用犬が走って行く場面が実質的な冒頭と言える。戦争により一変してしまった風景。それは、アルベールの顔面損傷とともに、戦争による変容を視覚化している。この映画のテーマは、戦争が人間を醜悪な存在に変えてしまうことである。プラデルはマクロなレヴェルでの醜悪さの象徴であり、弱者からの収奪は体制と化して世の中を動かしていく。アルベールはミクロなレヴェルでの醜悪さを体現し、虐げられるもの同士で奪い合う。いずれも戦場の悲惨さが感覚を麻痺させることに端を発する。

エドゥアールの存在は、1つには、言論の自由が失われたことを表す。その代替手段として絵画による抵抗が示される。また1つには、ヴィジュアルによって動かされる現実の象徴でもある。顔面傷痍が招く醜悪な外見と、彼の手から生み出される優れた絵画。視覚効果は判断に大きく影響するが、その判断の当否は一概には決し得ないのだ。

エドゥアールの描く絵はエゴン・シーレの作風。
エドゥアールがアルベールをマルセル・デュシャンの《泉》で揶揄するシーンもある。

ペリクールの屋敷で働くメイド・ポリーヌ(Mélanie Thierry)が魅力的。Mélanie Thierryは『ゼロの未来(The Zero Theorem)』でヒロインを演じた。