展覧会『コレクション展「少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす」』を鑑賞しての備忘録
文京区立森鷗外記念館にて、2019年1月19日~3月31日。
森鷗外の3年弱の小倉時代を紹介する企画。
近衛師団軍医部長、軍医学校校長、東京美術学校講師、慶應義塾講師を務めていた森鷗外は、1899(明治32)年6月、突然、第十二師団(小倉)軍医部長に補される。一時は辞職を考えたともいう鷗外は、1900(明治33)年元旦の『福岡日日新聞』に、文壇の圏外となった「鷗外漁史はここに死んだ」と寄稿している。だが、地元の人々との交流や史跡の探索、外国語の学習など「公私種々ノ事業ノ為メニ(中略)少シモ退屈ト云コトヲ知ラズ」(同年12月、賀古鶴所宛)と小倉での生活を次第に楽しむようになったようだ。明治35(1902)年3月までの2年10ヶ月にわたる小倉での暮らしを、「生活・文学」、「職務」、「史跡探索」などのテーマに分けて紹介するもの。
鷗外は観潮楼の長男於菟にドイツ語の自作教材を毎週数頁ずつ送り、通信教育を行っていた。
Ich reise.
私ガ旅スル
Man reist mit der Eisenbahn und mit dem Dampfschiffe sehr schnell.
人ガ旅スル 鉄道ヲ以テ ソシテ 蒸氣船ヲ以テ 甚ダ 早ク
reisenを例文を用いて説明している箇所。1人称単数と3人称単数の活用を紹介し、あわせて3格支配の前置詞mitの後に来る女性名詞と中性名詞("Dampfschiff"と単数にすべきだろう)の定冠詞の変化も学ばせている。学習しやすいよう、頭から訳し下ろしていく日本文が添えられている。「初歩じゃないか」と言う勿れ、於菟君は1900年当時10歳である。
一方、鷗外自らも小倉で語学に励んでいたようだ。フランス語をベルトラン神父に学び、サンスクリット語を独学していた。サンスクリット語のレベルが於菟と「同じ位のものにて可笑しく候」と手紙に記している。
年表に記載があるのみであったが、鷗外の小倉生活は、八幡製鉄所が操業を開始した時期と重なる。小倉は大陸への前線基地のみならず、日本の工業(重工業)の最先端でもあった。大陸とのつながりはグローバル化した現在よりもはるかに強かったのではないか。鷗外の工業化や大陸への意識、あるいは小倉の「現代性」がもっと紹介されても良かったかもしれない。