展覧会『荒木悠展「LE SOUVENIR DU JAPON ニッポンノミヤゲ」』を鑑賞しての備忘録
資生堂ギャラリーにて、2019年4月3日~6月23日。
映像作家・荒木悠の個展。明治日本を訪れたフランス人作家ピエール・ロティ(Pierre Loti, 1850-1923)の紀行文『秋の日本(Japoneries d’Automne)』(1889)を題材にした映像作品を中心に構成される。
会場の片隅に、福原信三(資生堂初代社長)がラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の旧居を撮影した写真《ヘルン旧居》が掲げられている。安定感のある構図で勝手口(?)とそこへ上がる石段とが捉えられている。ハーンは欧米から日本にやってきた作家であり、福原は欧米に滞在経験がある写真家である。欧米/日本からの/への眼差しが石段(下り段/上り段)に象徴されている。そして、この眼差しの相互性を強調するために、《Product Placement Ⅰ(階段箪笥)》が置かれている。下り段/上り段の関係性に、移動(階段)/滞在(箪笥)の動きが加えられている。さらに、写真と箪笥の延長線上には、「ダンス」(箪笥)を扱った映像作品《The Last Ball》が従属して(sou)来る(venir)ように配されている。
《The Last Ball》は、ロティが日本人将校の娘とワルツを踊った体験を記した「江戸の舞踏会」(『秋の日本』所収)と、それをもとにした芥川龍之介の短編小説『舞踏会』(1920)とを踏まえた作品。ホール中央で弦楽四重奏による「美しき青きダニューヴ」が演奏され、その周りを明子(臼井梨恵)とロティ(ド・ランクザン望)とがiphoneで自分を撮られないようにしながら相手を互いに撮り合う。その追いかけっこのような動きが「ダンス」となる。会場の天井から吊られたスクリーンには、瞳の色により見える世界が異なることを踏まえ、マゼンダ強調したロティの映像とグリーンを強調した明子の撮影と表裏に投影されている。また、壁面には同じ場面を撮影した俯瞰など3種類の映像を繰り返し投影している。
見ることは同時に見られることでもある。対照的な観点は必然で、両者の観点から同時に見ることはできないが、両側の観点から見ようと行きつ戻りつすることは重要で、その努力により立ち現れる何か豊かなものが存在するのではないかという問いかけである。
iphoneをかざしダンスをする姿は異様であり滑稽だ。だが日常生活にiphoneをかざす光景は浸透し、何かの動作の次の瞬間にiphoneをかざす動作は常態化している。道具を使って踊っているのではなく、道具に従って踊らされている人間への揶揄でもある。
記憶(souvenir)は映像データにより代替・置換されるのか。記憶とは事実であるべきか。映像データは事実を伝えられるのか。
japonerieはjaponaiserieと同義。Objet d'art ou de curiosité originaire du Japon.
「東京」は○○「をひかえてその準備のため言語に絶した騒ぎを演じている。」「だが滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じないのだ。」130年前に、あるドイツ人医師が日本で記した日記。