可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『一方そのころ』

展覧会『一方そのころ』を鑑賞しての備忘録
KAYOKOYUKIにて、2019年4月20日~5月19日。

斉藤思帆と谷本真理の二人展。

斉藤思帆は、和紙に西洋人の肖像や洋画のワンシーンのような光景を描く。別個の作品をそれぞれ切断して、1枚の作品へとつなぎ合わせたかのように見える作品もある。それらは、水平を無視して、転倒も構わず、雑然とピンで壁に留められている。ところどころ捲れて裏が見え、その分、描かれた表側は見えなくなる。

メディアに表れるイメージを絵画の題材にすることで複数性を失わせ、なおかつ捲れによってその場にしか存在しない「ライヴ」感覚を生み出す。絵画が画像データと化して遍在することに抗うようである。また、イメージを切り分けて再構成して新たなイメージを生み出すかのような作品は、個々の作品(部分)が持つ意味と、それらが配置(全体)が生み出す意味のずれを問うている。雑然とした配置は、リニアな時間軸によって生み出される物語を拒絶し、個々のイメージ自体を見せるための設えだろう。

谷本真理は、陶芸で見られる壺のような作品を呈示する。桃山の茶陶が中国の端整な磁器を模倣できず歪んでしまったように、谷本の壺は歪んでいる。だが壺の用途に供されることがないなら(鑑賞のみを目的としたオブジェなら)、壺の形を維持する必要はないだろう。あえて壺の形にこだわるなら、穴を利用するべきだと言わんばかりに、壺の口から中へと「絵付け」が施されている。

両者の作品に共通するのは、表か裏かという二項対立の「固い」思考への疑問ではないか。表が裏へ、裏が表へ、と「一方」が「他方」へと常に変転する可能性を示すため、支持体あるいは器体の柔軟さを見せつける。尺度を変えれば、大地という剛体でさえ緩慢に変動する流体となるのだ。