可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 藤森詔子個展『Twinkle Pieces』

展覧会『藤森詔子「Twinkle Pieces」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY MoMo Ryogokuにて、2019年5月11日~6月8日。

藤森詔子が2017~2019年に制作した絵画11点を展観。

本展の表題作《Twinkle Pieces》は、2枚のキャンヴァスを組み合わせた横3m超×縦1.6mの大画面。手前(画面下部)には肌を露わにカウチに座る女性を背後から描き、その前にはホームシアターのように、黄色いセンターラインの道路が延びる光景広がる。雨で濡れた路面はモニター画面の反射のようにも見える。道路は途中でシャープに途切れ、奥には道の脇に樹木や電信柱の立つ、遠い日の記憶のような風景が、牛島憲之の風景画よろしくやや溶けるように描かれる。画面左手には、交通量の多い都心の道路を朝・昼・夜という複数の時間帯を重ねるようにえがいた場面がやはりディスプレイのように屹立する。画面右手にはスマートフォンか、五芒星("Twinkle"の記号だろう)と"Pieces"の文字が裏返しで表示されたものをつかむ女性の右手が大きく表され、さらに星形が重ねて描き込まれている。

「Twinkle Pieces」とは、ディスプレイの輝く(twinkle)イメージの断片(pieces)のことだろうか。《Night Drive Scape》のシリーズ3点や、《Rainy view》のように、自動車を描いた作品が複数並べられているが、車窓を擦過する景色は、フリックによって次々と現れては消えるスマートフォンタブレット端末上のイメージのアナロジーであろう。現実を構成するのは、知覚したイメージの数々であるが、それは実際に目にしたものであるとは限らない。突如蘇る記憶であることもあるし、何より、日増しに増えるディスプレイを通じて捉えたイメージである。

つまり、〈対象a〉〔引用者註:欲望の対象=原因〕とは、欲望に「歪められた」視線によってしか見えない対象で有り、「客観的」視線にとっては存在しない対象なのである。言い換えれば、〈対象a〉は、その定義からして、つねに歪んで知覚されるものであり、その「本質」である歪曲を抜きにしては存在しないのである。なぜなら、〈対象a〉とは 、まさにその歪曲の、つまり、欲望によっていわゆる「客観的現実」の中へと導入された混乱と錯綜の剰余の、具現化・物質化以上の何物でもないのである。〈対象a〉は客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。(中略)「何か」(欲望の対象=原因)がその「無」、その空無を具現化し、それにポジティヴな存在をあたえるとき、欲望が「めざめる」。この「何か」とは歪んだ対象であり、「斜めから見る」ときしか見えない純粋な見かけである。(中略)欲望の動きにおいては、「何かが無から生まれる」のである。なるほど欲望の対象=原因は純粋な見かけにすぎないが、それでも、われわれの「物質的」で「実際的」な生活や行為を調整している一連の結果すべての引き金をひくのはこの見かけなのである。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶訳〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社(1995年)p.34~35)

 

星形のガラスによって一部覆われた女性を描く《Cinderella's Dance》や1人の女性を「片身替わり」で描く《Twin Girls》では、ガラス=ディスプレイ越しにイメージが複数化する様を描き出し、指でファインダーをつくり夜景を捉える《Rainy view》では、スマートフォン越しに捉える世界を描き出す。これらに加えて、ボンネットに映る景色を描いた《Night Drive Scape #3》などを加味すると、女性、花、構造物、風景を織り交ぜて描いた《Lily》は、現実を構成するあらゆる「見かけ」を等価に捉え、絵画作品として呈示する作者の姿勢の表明と捉えられる。