可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 宏美個展『木と森』

展覧会『宏美「木と森」』を鑑賞しての備忘録
新宿眼科画廊(スペースS)にて、2019年6月7日~12日。

宏美の絵画展。

多くの作品に描かれているのは、自宅の庭。母の手入れが行き届かず、繁茂した植物により鬱蒼となった庭は、思春期から現在まで折り合いの悪い母と自分との関係に重ね合わされるという。作者は、庭に自らを投影しているのだ。

作品を印象づけるのは、描き込まれた草木の茎や枝や葉や蔓の中に、アニメーションに登場するキャラクターのような顔が複数挿入されていることである。木陰に隠れてあたりの様子を窺う様子を表現するのに、キャラクターの眼など一部だけを茂みの中に表現する手法に見覚えはある。だが、ここで描かれるキャラクターの顔は、空間に蔓延するかのように大きかったり、複数のキャラクターが重ね合わされていたり、眼だけであったりする。眼前に広がる景色に存在する植物を可視化する、あるいは植物によって見られている様を描くようにも見える。

樹木を見るのではなく、樹木によって見られる。画家アンドレ・マルシャンはそう語ったという。モーリス・メルロ・ポンティが『眼と精神』で紹介したエピソード。河野哲也は、デカルト以来の近代的な主体概念では、思考(視る)を中心としたがゆえに、見ることの受動性(視られる=身体性)を置き去りにしてしまったという論を展開する中でこのエピソードに言及していた。 

 (略)私が樹木から見られるということは、他者の顔に共感して自分を見る眼とその視線を理解したように、私は樹木たちに共感し、その樹木たちの視点から自分を捉えたのだ、と。しかし樹木に共感するとは、どういうことか。それは、私が他者の身体と自分の身体を重ね合わせたように、樹木と自己の身体を重ね合わせることである。

 森が見るとか、樹木と身体を重ね合わせるといったここでの表現は、アニミスティックで神秘主義的に思われるかもしれない。人間である私は、動物でさえない植物と、どのように身体を重ね合わせるというのか。樹木は見ることはない。そもそも眼がないのだから。こう私たちは考える。しかし、どうして私たちは、眼があれば他者が見ていると思うのだろうか。他者の視線とは何であろうか。(略)他者の視線を理解するとは、見ている他者の身体に共感し、その見るという行為、そのひとが首を向け、眼を向け、眼を凝らし、焦点を合わせている様子と見えている光景の関係性を理解することである。他者の身体の運動や表情を、自分の内的な運動感覚によって理解することが他者理解である。

 (略)樹木をひとつの運動体として捉えたときに、私たちは樹木の知覚を知る。そして、樹木が見ている経験とは、そういた運動体が私に感心を持ち、私に向けてさまざまな見る仕種を向けているかのように感じるということである。樹木が私の存在に関心を持つと感じるとは、私が樹木に与える影響を知っているということである。それは、樹木にとっての私の持っているアフォーダンスを知ることである。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房(2014年)p.54~55)

作者が植物ないし庭への関わり方は、自らの感覚の投影による擬人化であろうか。母の手入れしてきた庭に、作者は、母の存在あるいは母の視線を見出す。また、母が手に負えなくなった庭に、作者は、自分の存在を投影する。それにとどまらず、蔓延る植物に、母や自分ではどうにもならない現状(母子関係など)や、それに対する第三者から注がれる視線をも見出しているのだろう。そこには、植物からの視線、見ることの受動性も存在するように思われる。

ところで、作品をユニークなものにしているもう1つの特徴は、作品の多くに、絵画の上下左右の側面にまでキャラクターの顔(眼)が描き込まれていることだ。それぞれの側面へは、中心画面のキャラクターの髪の毛などが伸びることで、鑑賞者の視線が誘導される。それと同時に、中心画面に描かれるいま・こことは違う世界へのつながりの表現でもある。自己、自己と母、母子と第三者が織りなす現在の世界に加え、今は亡くなってしまった人たち、あるいは今はまだ関わりのない人たちといった、「見えない」存在への関係への希求が表明されているのだ。それは、作品の上側や下側に描き込まれた部分が鑑賞しづらくなっている仕掛け、普通には鑑賞できない展示から覚られる。