展覧会『クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime』を鑑賞しての備忘録
国立新美術館にて、2019年6月12日~9月2日。
クリスチャン・ボルタンスキーの回顧展。写真と電球などで構成された祭壇をイメージさせる《モニュメント》のシリーズをはじめ、写真や電球や衣類を用いたインスタレーション、映像作品などが紹介される。
祭壇をイメージさせる《モニュメント》のシリーズや、《保存室》、《聖遺物箱》などのシリーズから宗教や死をテーマとした重厚な作風の作家というイメージが強い。だが、血反吐を吐き続ける男を映した《咳をする男》や、少女の人形を舐め回す《なめる男》といった映像作品を敢えて冒頭で紹介していることや、電球で輝く「来世」という
文字があっけらかんと輝く前にビル群を思わせる白い物体を多数配した最新作《白いモニュメント、来世》に大竹伸朗作品のようなポップさを看取できること、さらには、皺の寄った金色の布に揺れる電球の光が当てられる《黄金の海(Mer dorée)》がMer d'or=merdeに通じることなどからすれば、作家・作品に対する多面的な見方の促しを感じないわけにはいかない。実際、《影》では、影絵が3つの光源により3つの異なるイメージを3面の壁に投影され3つの穴から覗き見ることになる。これはあるイメージが持つ複数の解釈の可能性を端的に示している。しかも送風によるイメージのゆらぎも企図され、イメージ解釈の不定性・相対性をも示唆している。《合間に》では作家の肖像写真が入れ替わりなおかつ紐状のカーテンに投影されることで揺らぐ。《ヴェロニカ》では聖顔布をキリスト=聖=男性の肖像からヴェロニカ=俗=女性へと、《その後》における子供の笑顔の肖像写真に穴を開けることで明るいイメージを不穏なイメージへと、それぞれ反転させているが、それらの肖像写真はぼやかされ曖昧な印象を持つことも解釈の可変性を容易にする。《ぼた山》は、黒い服が山のように積み重ねられた作品。黒い塊(masse)は大勢の人々の存在(masse)を表わす。肖像作品が印刷された数多くのヴェール《スピリット》が天井から吊り下げられた下に設置されているため、個々の黒い衣服はcorps(身体・遺体)を連想させることになる。その黒い衣服が積み上げられて1つの黒い山とすることで、個性を抹消する暴力が生み出される。翻って、人々が1つにまとまったときの巨大な力、それに対する畏怖も喚起させよう。terril(ぼた山)にはterrible(おそろしい)ないしterreur(恐怖)に通じる響きがある。
カナダ北部の雪原でいくつもの風鈴が音を響かせている映像作品《アニミタス(白)》や、パタゴニアの海岸で鯨からの反応を期待して設置されたラッパがやはり風の力で金属的な音色が時折鳴らされる映像作品《ミステリオス》では、目に見えない風=空気を、オブジェの動きや音へと変換する。作家を依り代とする、宙に浮遊する声なき声の形象化である。だが、人気の無い雪原や海岸で延々と生み出される音に接していると(ごく一部しか見ていないが、前者が10時間半、後者が12時間の長尺の作品)、徒労感や虚無感にも囚われもする。自然を背景とした洗練された美麗な映像作品として仕上げられてはいるが、冒頭の、血反吐を吐き続け、あるいは人形を舐め続ける男へと鑑賞者は連れ戻されることになるだろう。だが、そこにこそ作者の意図が潜んでいる。徒労感や虚無感を克服して継続する営為の重要性こそ、作者が観客に届けようとするものなのだ。それは、端的に作者の姿を記録する映像作品《C・Bの人生》に示されていたし、作者の生命のあらん限り積み上げられるもの(作者の生きている総時間を秒でカウントアップしていく《最期の時》)である。