展覧会『本山ゆかり「その出入り口(穴や崖)」』を鑑賞しての備忘録
Yutaka Kikutake Galleryにて、2019年9月14日~10月19日。
透明なアクリル板にアクリル絵の具で描き、描いた面の裏側を展示する「画用紙」と題されたシリーズが紹介されている。
例えば、《画用紙(マッチ棒)》は、大きく炎をあげるマッチ棒が黒の線で表わされ、描いた部分とその周囲とが白い絵の具で塗り込めてある透明のアクリル板の作品である。画用紙はどこにも存在しない。「画用紙に描いたマッチ棒」を描いた絵と言うのも難しい。なぜなら、白い絵の具はあえて矩形のアクリル板に均質に塗られず、滴り落ちた白い絵具と、絵具が塗られなかった部分に見える背後の壁面とが、画用紙の不在
をあからさまに主張するからだ。
だが、画用紙の不在にこそ作者の狙いがあるのだろう。画用紙の不在は、絵画の支持体の不在の表現である。絵画の支持体が存在しないとき、絵画は支持体から独立し、絵画そのものとして立ち現れる。無論、アクリル板という確固たる支持体が存在するのであるが、アクリル板を透明にすることで、支持体に依存しない絵画そのものへの跳躍が図られている。
ところで、「画用紙」シリーズを紹介する本展のタイトルに「穴」が掲げられていることに着目したい。
私は、穴も、ここでロウが主張しているような「非質料的」対象〔引用者補記:個体的実体を特定の実体的形相と同一視し、形相概念は質量に必ずしも結びついているわけではないとのE. J, Loweの見解が直前で引用されている〕だと考える。それは依存的対象であるために、純然たる実体ではないが、全体的な通時的同一性(耐続性)を保持する点で「実体的」対象だと言える。そして穴は、外的境界というそれ自身には属さない「輪郭」によってその通時的同一性を保証されると同時に、無であり、空であるという「非質料性」によって充填可能性というその本質的機能を有するという意味で、まさに「形相的」対象である。それは、そうした機能によってのみ実在性を保証され、その依存性、非質料性によってかぎりなく「無」に近く、また、「事」に近い位置にある「存在-物」だとも言える。(加地大介『穴と境界 存在論的探究』春秋社2008年p.98)
画用紙は穴とは異なり質料を有するので当然に通時的同一性を保持し、絵画が描き込まれる可能性を引き受けている点で充填可能性もまた備える。だが本山ゆかりの呈示する「画用紙」は画用紙という質料を欠いているのだから、まさに充填可能性という機能を備えた「穴」を用意したことにならないだろうか。
本山ゆかりの作品の魅力は、震える描線が生み出すシンプルな世界だけではなく、《瓢鮎図》などの禅画=禅問答に連なる面白さにあるのかもしれない。そうだとすれば、《画用紙(大きい石)》など、ギャラリーを枯山水の石庭へと転ずる力を持つことになるだろう。