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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『文学とビール 鴎外と味わう麦酒の話』

展覧会『コレクション展「文学とビール 鴎外と味わう麦酒の話」』を鑑賞しての備忘録

文京区立森鴎外記念館(展示室2)にて、2019年7月5日~10月6日。

森鷗外とビールとの関わり(「鷗外とビール」)と、文学作品におけるビールのある光景(「文学とビール」)とを紹介する企画。

江戸時代からビールの存在は知られていたが(1724年の『和蘭問答』にビールの味に関する記述)、西洋料理店や牛鍋屋でビールが供されたのは幕末の開港後の1867年頃のこと。明治に入るとすぐさまビールの醸造も開始され(1869年、横浜に日本初のビール醸造所「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」開設)、1899年に日本麦酒が日本初のビアホール(「恵比寿ビヤホール」)を新橋に構えている。だが、ビールは高級品で、広く飲まれるようになったのは日露戦争後になってからだという。

森鷗外は1884~1888年にかけて陸軍軍医としてドイツに留学している。ドイツ人が大量のビールを飲むのに驚嘆し、醸造所やオクトーバーフェストを訪れた。また、医師らしく、自らと部下とを「被験者」としてビールの利尿作用について研究までしたという。さらに帰国に際してはビールジョッキを贈られ、終生大切にしていた。
そして、鷗外は、「金貨」(『スバル』9号)で軍人宅に忍び込んだ泥棒がビールを楽しむ光景に出くわして羨ましそうに眺めた光景を描き、「青年」(『スバル』2年9号)では上野精養軒でビールを味わう光景を描くなど、文学にビールを持ち込んでいる。
鷗外の他にも、夏目漱石は、『我が輩は猫である』で猫がビールで酔っ払うシーンを丁寧に活写し、「二百十日」では阿蘇の温泉宿におけるビールの注文をめぐる滑稽なやりとり(ビールはないが恵比寿はある)を盛り込んでいる。尾崎紅葉は『金色夜叉』で黒ビールに松茸を取り合わせ、田山花袋は『田舎教師』でビールを「ぶっかき氷」で冷やすさまを記す。正岡子規は『病牀六尺』でビアホールへの憧憬を吐露し、高村光太郎は「カフェ、ライオンにて」でビヤホールで「泥でこさえたライオン」がビール注文のお礼の咆哮をするさまを取り上げ、北原白秋は「雨の気まぐれ」で、「麦酒のような気の抜けた雨」と綴っている。