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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『風景の科学展 芸術と科学の融合』

展覧会『風景の科学展 芸術と科学の融合』を鑑賞しての備忘録

国立科学博物館(日本館1階企画展示室)にて、2019年9月10日~12月1日。


上田義彦が撮影した世界各地の風景写真に、科学研究者が専門的見地からコメントを付して展示する企画。一部作品には写真・解説に加えて、解説対象のサンプル(標本)もあわせて紹介されている。

 人はみな、「風景」の中を生きている。それは、客観的な環境世界についての正確な視覚像ではなくて、進化を通して獲得された知覚と行為の連関をベースに、知識や想像力と言った「主体にしかアクセスできない」要素が混入しながら立ち上がる実感である。何を知っているか、どのように世界を理解しているか、あるいは何を想像しているかが、風景の現れ方を左右する。

 「風景」は、どこかから与えられるものではなくて、絶えず、その時、その場に生成するものなのだ。環世界が長い進化の来歴の中に成り立つものであるのと同様に、風景もまた、その人の背負う生物としての来歴と、その人生の時間の蓄積の中で、環境世界と協調しながら生み出されていくものである。(森田真生『数学する身体』新潮文庫2019年p.129-130)

例えば、オリンピック国立公園アメリカ合衆国ワシントン州)の温帯雨林の写真には、適度な湿度と肥沃な土壌を有する温帯雨林は開拓の対象となりやすく世界の原生林のうち3%を占めるに過ぎないうえ、オリンピック国立公園のようにトウヒやツガなどの針葉樹が優占するのは珍しいとの解説が付されている。また、慈照寺銀閣を撮影した写真には、社寺の柱材や檜皮葺として利用されるヒノキについて、強度の高さに由来する湿度や虫への耐性、加工の容易性、芳香性などの特性とともに、柱材に適する直径50~100cmに生育するのに200~500年かかるために供給が追いつかないことが明らかにされる。

ロッコワルザザート+地衣類、オーストラリアのコジオスコ+バンクシア、セントラル・パーク+ニューヨークルック、屋久島+付着藻類など、それぞれに興味深い解説が付されてはいる。だが、果たして「風景」の科学が示されているかというと大いに疑問だ。

例えば、「オリンピック国立公園」は、被写体が温帯雨林そのものであるため、温帯雨林の解説はそのまま風景の解説となりうる(樹木以外の植生についても解説が欲しいところ)。だが、「慈照寺」(因みにキャプションでは「京都」とのみ記す)は、銀閣がモティーフではあるものの、銀閣を含めた庭園の写真であって、建築あるいは建材の説明にはなっても風景の説明にはなり得ない。周囲にどんな樹種が植えられていてその効果がどのようなものか、池を配することの視覚的効果や空調機能や防災への効能などへの言及があって然るべきだろう。
また、「風景」の分析になっていないことと相俟って、写真家の眼差しと研究者の着眼点が分離が際立ち、「芸術と科学の融合」とは言えない状況を招いている。一層のこと写真(美術)評論家の解説を併記して、芸術的観点と科学的観点との違いをこそ見せる企画にすべきだったかもしれない。例えば、大河と橋梁とをとらえた陰鬱な雰囲気をとらえた写真にヨウスコウカワイルカの「不在」を読み込んだ解説の組み合わせは、風景の現れ方の差異を示す好例となっている。

作品数を絞り込むことで、すべて大きなサイズの写真で統一し(本展の写真はサイズが区々で、小さいものも多かった)、なおかつ科学・芸術両サイドの解説の充実を図り、「芸術と科学の融合」に近づけてもらいたい。