可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『イメージの洞窟 意識の源を探る』

展覧会『イメージの洞窟 意識の源を探る』を鑑賞しての備忘録
東京都写真美術館にて、2019年10月1日~11月24日。

「洞窟をモチーフや暗喩にした写真や映像作品から、イメージや認識の作られ方を再考しようとする」企画。

 

「イメージの洞窟」のとば口に立つことを示すため、洞窟の入口からその内部を撮影したと思われる、志賀理江子の《人間の春・私は誰なのか》が展示されている。フラッシュ(あるいは外光)の強い光が洞窟内の壁を照らし出すが、画面手前下に見える頭頂部(頭髪)が映り込み、この人物が洞窟の奥に向けて黒く大きな影を生む。後頭部をあえて映り込ませているのは、眼差しが洞窟の内部に向けられていることと、自らの姿が生み出す影を見ていることとによって、実体の影を見ながらそれを実体と思い込んでいるというプラトンの「洞窟の比喩」を想起させるためだろう。大きな影の中に人物の姿があり、その顔には白い×印が記されている。これは実体を見ないことを強調しているようだ。
続いては、オサム・ジェームス・中川が撮影した沖縄のガマ(洞窟)の内部を撮影した作品が並べられ、鑑賞者は洞窟内を散策することになる。展示室の壁面には高精細の写真(平面)によりガマの内部が疑似体験できる。他方、展示室の中央には、洞窟の舞台装置のような和紙によるインスタレーションが設置され、洞窟の構造を立体的に再現しながらも「つくりもの」であることが強調される。展示の最後には、天井にある孔から空が見えるガマの作品が置かれ、洞窟からの脱出が示される。
洞窟を出たところに並ぶのは、北野謙が乳児の体温によりその姿を浮かび上がらせた写真群である。鑑賞者も母体という洞窟から外部へと出て、再生することになるだろう。否、母体だけではない。発生生物学の観点からすれば、ヒト自体、消化管という洞穴のなれの果てと言えるのだ。「わたしたちの身体や存在そのものが洞窟のような存在である」。
写真の起源にもまた洞窟があった。写真機の祖型であるカメラ・オブスクラは洞窟そのものだ。カメラ・オブスクラなる「暗い部屋」の外へと歩み出すかのように、"photography" (=光画)という言葉を考案した19世紀の科学者ジョン・ハーシェルは、カメラ・ルシーダ(明るい部屋)による洞窟のスケッチ《海辺の断崖にある洞窟、ドーリッシュ、デヴォン》を描いている。
ジョン・ハーシェルのスケッチを髣髴させる洞窟の湾の映像で始まるフィオナ・タンの《近い未来からのたより》は、海や川など水に関わる「古いニュース動画を紡いで未来を予言するようなの映像作品」。都市が水に浸かる映像は、本展の会期中に襲来した、台風による洪水を確かに予言していた。
最後は、ゲルハルト・リヒター。何の変哲も無い日常的な風景をとらえた写真だが、その表面に絵具が塗布されることで、全てを見通すことはできない。写真の加工を顕在化させることで今日氾濫する映像の揶揄ともとれる。だが、より根源的には、隠されることでそこに何があるのか知りたいという欲求が刺激されるということだろう。見せるためには隠される必要がある。洞窟を起源に持つ写真は、洞窟を必要とする。

 

地味ではあるが興味深い企画が実現。願わくば、もう少し多くの作例を見てみたかった。