可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『窓展:窓をめぐるアートと建築の旅』

展覧会『窓展:窓をめぐるアートと建築の旅』を鑑賞しての備忘録
東京国立近代美術館(1F企画展ギャラリー)にて、2019年11月1日~2020年2月2日。

建築や文化の視点から窓の可能性を探究してきた「窓学」の成果を踏まえ、主に近現代の美術作品を通じて語られる窓の美術史。
会場は、屋外(前庭)に設置された藤本壮介インスタレーション《窓に住む家/窓のない家》を含め、14のセクションで構成される。

展示は、映画『キートンの蒸気船』から抜粋された、キートンが家の前で一服していると建物の壁が倒れ、窓のおかげで事なきを得るという、キャッチーな映像でスタート。最初のセクション「1:窓の世界」は、レオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』(1436)を引用して「ここではない世界」の眺めをもたらす装置としての絵画を外界の眺めをもたらす窓とのアナロジーに言及、窓をとらえた絵画・写真・映像の作例を紹介することで、本展の導入としている。続く、横溝静の《Stranger No.13》(2000)・《Stranger No.5》(1998)は、見知らぬ部屋の住人に、作家が窓越しの撮影を依頼し、指定日時に窓を介して撮影したもの。キートンの作品同様、窓が「安全弁」として機能している。郷津雅夫のモノクロームの写真シリーズ『Windows』(1972-1990)では、パレードの聖人像に向かって窓からベトナム戦争で戦死した息子の遺影を掲げる女性が印象に残る(《Williamsburg (Brooklyn). 4pm July 20, 1976》)。内から外へとの視線だけでなく、外から内への視線を提供する窓の機能で、横溝作品と共鳴している。
「2:窓からながめる建築とアート」では、古代から現在に到る窓と建築の年表を壁面に掲示するとともに、建築家のスケッチや図面を紹介。
3・4番目のセクション「窓の20世紀美術」では、ウジェーヌ・アジェやロベール・ドアノーのショーウィンドウの写真、アンリ・マティスやらの窓からの眺めを描いた絵画、ジョセフ・アルバースマーク・ロスコ抽象絵画マルセル・デュシャンレディメイド《フレッッシュ・ウィドウ》などが展示されている。エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー《日の当たる庭》(1935)では、窓辺の灰皿の円と樹間の日だまりの大小2つの円とが窓辺から樹木への視線をリズミカルに誘う。そして、灰皿のシガレットから立ち上る紫煙と樹木に当たる日差しがつくる明るい葉の色が呼応するのに気が付くことになる。窓硝子に映った樹影も含め、並べて展示されているヴォルフガング・ティルマンスの写真《tree filling window》(2002)との相似も面白い。ロイ・リキテンシュタインがキャンバスを裏側から描いた《フレーム Ⅳ》(1968)は、「ここではない世界」の眺めをもたらす絵画の虚偽を告発するとともに、木枠が窓枠にも見えてくる「抽象絵画」。窓からの眺めを描く絵画と抽象絵画とを架橋する働きも担っている。
「5:窓からのぞく人Ⅰ」では安井仲治の写真、津田青楓とジェイムズ・キャッスルの絵画、林田嶺一のオブジェを紹介。「6:窓の内、窓の外」では、修道院と刑務所とに取材した奈良原一高の写真《王国》を展示。「7:世界の窓」にはチェン・シャオション、ギムホンソック、小沢剛によるユニット「西京人」の《第3章:ようこそ西京に 西京入国管理局》(2012)が設置されている。「8:窓からのぞく人Ⅱ」では自宅のアパートから広場を撮影した映像に虚実入り交じったナレーションを付したユゼフ・ロバコフスキの《わたしの窓から》(1978-99)、「9:窓からのぞく人Ⅲ」ではタデウシュ・カントルインスタレーション《教室 閉ざされた作品》(1983-85)が展示されている。
「10:窓はスクリーン」では、アン・フリードバーグの見解を引用して絵画のみならず映像が窓のイメージによって規定されてきたことを指摘した上で、舞踏や演奏に特殊効果を加えてコラージュしたナム・ジュン・パイクとジョン・ゴドフリーのヴィデオ・アート《グローバル・グルーヴ》(1973)、PCのデスクトップにおける複数のウィンドウのレイヤーを予見したようなロバート・ラウシェンバーグのオブジェ《スリング ショットリット#5》(1984)などが紹介されている。
「11:窓の運動学」では、本来の用途から切り離すことで窓の美術化を図った試みが紹介される。扇風機によって木製の扉が定期的に開閉するローマン・シグネールの《よろい戸》(2012)では、閉まる度に立てられる大きな音に、窓のシュプレヒコールを聞く。複数の廃棄予定の窓を建物から取り外して鋼材の枠組みにはめて自立させた池水慶一の《East Wind, Fine 東の風、晴れ》(1983)(記録映像など)では、従属的立場から脱し独立を宣言する窓の雄姿が認められる。一部屋に次々と現れる人々が衝突することなく消えていくことを繰り返すスクランブル交差点のようなズビグニエフ・リプチンスキの映像作品《タンゴ》(1980)やエルジェのマンガ『タンタン』などもここに展示。
「12:窓の光」では、窓を塞ぐことで部屋をピンホールカメラにして撮影した、山中信夫とホンマタカシの作品を紹介。部屋で写真を撮影するという発想は風変わりだが、カメラ=部屋、レンズ=窓を思えば、カメラと部屋とは比例関係に立つ。
「13:窓は希望」では、角度を変えて設置された特殊なガラスが生み出すイメージを楽しむゲルハルト・リヒターの《8枚のガラス》を紹介。デュシャンの《階段を降りる裸婦》を連想させるイメージが得られる。「14:窓の家」では、建物に穿たれた複数の窓により内と外との環境を曖昧にする、藤本壮介インスタレーション《窓に住む家/窓のない家》(2019)が紹介される。

窓を切り口に近現代美術史を振り返る興味深い試み。ただ、車窓(乗り物の窓)を扱った作品が無かったのは意外だった。

ここで、不一致をめぐる基本的な現象学的体験に触れておくべきだろう。車に乗ったころのある人なら誰でも経験があるはずの、内部と外部との不均衡のことである。外からは車は小さく見える。身をかがめて中に乗り込むとき、われわれは時おり閉所恐怖症に襲われるが、いったん中に入ってしまうと、車は突然大きくなり、快適に感じられる。だがこの快適さと引き替えに、「内部」と「外部」との連続性がいっさい失われる。車の中にいる人にとって、外の現実は、ガラスが物質化しているバリアーあるいはスクリーンの向こう側にあるものとして、かすかに遠く感じられる。われわれは外的現実、つまり車の外の世界を、「もう一つの現実」として、つまり、車の中の現実とは直接的に連続していない、現実のもう一つの様相として、知覚する。この非連続性をよく物語っているのが、ふいに車窓を開け、外のある物がいきなり近くに感じられたときに味わう、外的現実が迫ってきたような不安感である。なぜ不安になるかといえば、窓硝子が一種の保護膜として安全な距離に保っていたものが、じつはすぐ近くにあるのだということをいきなり思い知らされるからである。だが、車の中にいて、窓を閉め切っているときには、外にある物は、いわばもう一つの様相へと転換されている。それらは根本的に「非現実的」に見える。いわばそれらの物の現実性が宙ぶらりんにされ、カッコに括られているように見える。早い話が、窓ガラスというスクリーンに投射された映画の中の現実みたいに見える。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社(1995年)p.39-40)