可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 アラン、斉と公平太二人展『非零和無限不確定不完全情報ゲームとしてのアート?』

展覧会『副田一穂キュレーション アラン、斉と公平太「非零和無限不確定不完全情報ゲームとしてのアート?」』を鑑賞しての備忘録
TALION GALLERYにて、2019年11月30日~12月29日。
 
アラン(三浦阿藍)の開発したボードゲーム《ゾンビマスター》と、 斉と公平太の、チェスの駒を将棋の駒の造形にした《将棋形 チェス》とを紹介することで、ゲームにアートの可能性を探る企画。愛知県美術館の副田一穂によるキュレーション。
 
スマートフォンの普及によって、社会におけるゲームの浸透性は高まっている割に、社会の鏡としての側面があるアートにゲームが入り込んでいないのは不思議な現象だ。ゲームとアートというとき、マルセル・デュシャンマックス・エルンストら、チェスと深く関わった作家、あるいは、フルクサスのような観客に行為を要求する、ゲーム性を帯びた「作品」を生んだ芸術運動を思い浮かべることができる。だが、現在、ゲームとアートとは疎遠という印象だ。もっとも、江戸の浮世絵のおもちゃ絵や、中世の連歌や闘茶など賭け事が盛んだったこと、さらに遡って漆でできた囲碁や将棋、双六(絵双六ではなくバックギャモンのための道具)の伝世品があることを思えば、アートとゲームの親和性は本来もっと高いものなのだろう。西洋から入ってきた美学などの考え方が崇高な芸術から遊びを排除してしまったせいもあるだろう。あるいは、不確定性原理の物理学の時代に、作者が、否、鑑賞者が、ニュートン力学から足を踏み出せないことが、アートにゲーム性を受け付けなくしている原因かもしれない。
 
アランのボードゲーム《ゾンビマスター》には、サイコロの目によって動き回る天災の要素が導入されていた。その仕組みが、ギャラリーにおけるゲームを鑑賞するという行為を、鑑賞者に単純にストーリーを追うことを許さない、偶然性を排除しえない状況での鑑賞であることを強く印象付けていた。
斉と公平太の《将棋形 チェス》は、チェスの駒を将棋の駒の形に変えただけと言えばそれまでだが、9×9マスの将棋盤の外側の縦横一列を切り離すことで、チェス盤への転生を鮮やかに見せる展示には、デュシャンよろしくレディメイドとしての魅力を感じた。《将棋形 チェス》のブームが到来するとはちょっと思えないが。
 
情報技術や映像技術の発達によって、展覧会に鑑賞者の体験の機会を導入しようという傾向が見られる(たいていはボタンを押すと何かが作動する程度のものだが)。鑑賞者の参加という点でゲームはうってつけであり、今後、アートとゲームとの関係を探る作家や作品を見る機会は増えるのかもしれない。