可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

舞台『inseparable 変半身』

舞台『inseparable 変半身』を鑑賞しての備忘録
東京芸術劇場シアターイーストにて、2019年11月29日~12月11日。
原案は、村田沙耶香と松井周。
脚本・演出は、松井周。

離島の千久世島にはかつてめぼしい産業がなかったが、遺伝子組み換えに有用な化石「レアゲノム」の埋蔵が判明し、資源開発会社が採掘事業に乗り出して状況が一変した。漁業や観光業を生業としてきた「海のもん」に差別されてきた「山のもん」が現場の管理を行い、移民労働者たちが過酷な状況下で採掘に当たっていた。近時頻発する盗掘事件に対処すべく会社から派遣された丸和安蘭けい)が山のもんからなる自警団を組織した。地元民のまとめ役の岳憲(金子岳憲)、その妻で海のもん出身の祐美(大鶴美仁音)、娘を連れて千久世島に渡ってきたシングルマザーのルイ(能島瑞穂)、レアゲノム事業のために渡ってきた草太(王宏元)がメンバーだ。盗掘者を取り逃がしたとの報告を受けた丸和は事務所で反省会を開き、善後策を指示する。
祐美はもともと岳憲の弟・宗男の恋人であったが、宗男が奇祭で命を落としてしまったため、岳憲と結婚することになった。生殖が国家管理となってから久しく、免許のない者の性行為は「野良交尾」として違法化されていた。岳憲と祐美は免許を持っていたが、岳憲は消極的で裕美はそれを不満に思っていた。
ある日、事務所で一人清掃していた祐美のもとへ、死んだはずの宗男(三村和敬)がゾンビのような姿で現れる。

 

性や生をテーマに、管理によって本質を見失わせてしまうことと、それに対する反発や反動とが描かれている。

生殖が国家によって管理され、遺伝子組み換えがデフォルトとなった社会では、車のオプションのように、金銭的余裕があれば子に優秀な遺伝子をいくらでも組み込むことが可能になっている。また、性欲処理の技術的方法が確立されているが、それでもセックス=「野良交尾」への止みがたい希求の存在が描かれている。
そのような社会である千久世島=世界は、神が1つの世界の創造を発案し、そのプランの実験場として存在することが明らかにされる。岳憲や宗男は神のアヴァターとして千久世島=世界に送り込まれている。
穀物(植物)や家畜(動物)のように他種の優秀な遺伝子を人間に組み込んで品種改良を行った結果、人間の存在が他の生物種との関係で相対化し、その特殊性が蒸発していく。それは、千久世島の住民イルカとの雑種化で示される。
ゲームのキャラクターのように不死の身体を手に入れてしまうことの困苦と、そこから解脱するためにカニバリズム(による昇天)が提示される。

未来を描くには古い時代を描くのが1つの方途である。「私」が身体というアヴァターを利用してこの世を動き回るという発想は意外と古典的なもののようだ。

 子は、母から見られた自分が自分であることを受け入れることによって自己になるわけだが、この自己を自己とする眼は――はじめは手がかりとして母の眼の位置にあるにせよ――そのとき中空にあるとでもいうほかない。そしてじつは、この中空にあって俯瞰している眼の方が自己なるものにほかならないのだ。だからこそ、自己にとっては自己の身体があたかも外部から与えられたもののように見えてしまうのである。(略)
 いずれにせよ、明瞭になってくるのは、人間の身体はじつは自己などというものではまったくないということだ。
(略)
 ほんとうは、身体が外部なのではない。自己という現象のほうが外部なのだ。にもかかわらず、人間は逆に考えるのである。容貌も背丈も何もかも外部から与えられたものであるかのように不平不満を漏らすにいたるのだ。(略)
 この自己という現象が、言語という現象によってもたらされたのである。あるいは言語という現象が、自己という現象を引き連れてきてしまったのである。というか、両者は同じものなのだ。玩具の多くが、このからくりの外在化すなわち視覚化、触覚化であることはいうまでもない。幼児は人形を分身であるかのように扱うが、外部の自己なるものが自分の身体を操っている――考えてみれば恐ろしい――そのことを、あえていえば納得しようとしているのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.113-114)

複雑化により身動きができなくなる社会の解決策としての「ソーシャル・エネマ」という発想は、可能性を感じさせる。