可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 百瀬文個展『I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U』

展覧会『百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」』を鑑賞しての備忘録
EFAG EastFactoryArtGalleryにて、2019年12月7日~2020年1月18日。

百瀬文の映像作品《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U》(2019)、《Jokanaan》(2019)、《Social Dance》(2019)を根来美和のキュレーションにより紹介する。

《Jokanaan》は、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』のクライマックスである、サロメが所望した切断されたヨカナーンの首に対峙するシーンのアニメーション作品。大理石の彫刻のように白色で立体的に造形されたサロメ。その手のみがヨカナーンの血に塗れて赤い。また、アニメーションが流れる画面の左手にはもう1つ画面が併置され、モーションキャプチャーによりサロメの動きを担当する黒いタイツの男性ダンサーの姿が映し出されている。アニメーションのサロメとダンサーの動きとは一致しているが、異なる画角となっている。男性ダンサーは次第に興奮を高め、モーションキャプチャーのためのタイツを脱ぎ捨ててしまう。そのことで動きは一致しなくなる。
女性のサロメが男性のヨカナーンを求めながら彼に拒絶される。彼女の彼に対する欲望がかなえられないと、サロメはヨカナーンの首をその代替物として手に入れる。サロメによってその首は、蛇、赤い舌、毒液といった性的な隠喩で形容される。サロメは怒りにとらわれた興奮状態の中、その首は犬に食わせるとか鳥に啄ませるといった抛擲に言及する。生者たるサロメは死者たるヨカナーンを思いのままにできるとの期待は、欲望の実現が不可能であることを明白にするばかりであり、サロメは苛立つのだ。ところで、首の上空への投擲行為に俯瞰する視線を読み取ると、その行為は自己認識の獲得を表すだろう。自己認識は、自己との距離を必然的に生み出し、両者の不一致に対する不安に苛まれることになる。この自己像と自己との一致を実現する(距離をゼロにする)とき、不一致というアンビバレンスは解消されるが、自己の認識もまた失われる。百瀬文の作品における、男性ダンサーがヨカナーンの首を載せた皿にその頭を置くラストシーンは、自己の同一性の達成を表すが、それは自己認識が失われること(=死)を必然的に伴うという当然の帰結を示すのだ。サロメを男性ダンサーに演じさせたからこそ、表象と自己との不一致という問題がくっきりと浮かび上がったと言える。また、欲望の対象となる女性が欲望の主体として立ち現れながら、その実態は男性原理の投影(いわゆる「ファム・ファタル」)にすぎないことを「黒子」としての男性ダンサーにより揶揄している。さらに、黒子のあからさまに見せる点では、モーションキャプチャーによる映像にオペラよりも「文楽」のような人形劇との親和性を見て取れる。

表題作の《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U》は作者がカメラに向かって目を開いたり閉じたりしてモールス信号により"I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U"というメッセージを送り続ける映像作品。(おそらくほとんどすべての)鑑賞者はモールス信号を読み取れず(情報伝達手段の不適合)、作者は実際には鑑賞者が見えない(情報伝達の内容と実情との不一致)。だが、作者からの警告だと解釈すれば、"Big Brother is watching you"(マスとしての「リトル・ブラザーズ」の存在も)の隠喩ともとれ、容易に読み取れないメッセージこそ必然であるとも言える。映画『パラサイト 半地下の家族』においてもモールス信号が重要な役割を果たしていたが、情報を見せることで見せなくさせる現状の打破、特殊なメッセージの送信という表現に仮託されているのだろうか。

《Social Dance》は、ベッドに横たわる女性が、過去の交際相手とのやり取りを語る映像作品。もっとも、女性は手話を用いているため、モールス信号同様、ほとんどすべての鑑賞者は、字幕を通してでなければ、直接には内容を理解できない。途中、ベッドに腰掛けた男性が女性の手をつかむが、その仕草はあたかもダンスのペアが手を取り合うように見えるかもしれないが、女性の言葉を遮り、その言葉を奪う行為そのものである。男女間のコミュニケーションのあり方や、第三者による「誤訳」の危険を、手話を用いることで明快に示した作品であり、「ソーシャル・ダンス」という和製英語にひっかけたタイトルは相当に辛辣だ。