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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに』

展覧会『DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに』を鑑賞しての備忘録
国立新美術館〔企画展示室2E〕にて、2020年1月11日~2月16日。

「DOMANI・明日展」は、文化庁の新進芸術家海外研修制度の美術分野の成果発表の場だが、今回は「日本博2020」の関連事業として、芸術選奨やメディア芸術祭などの受賞者の作品も合わせて紹介している。企画者は林洋子。

「プロローグ:身体と風景」では、石内都の「Scars」シリーズからの写真4点、「Mother's」シリーズからの写真1点、「ひろしま」シリーズからの写真1点と、米田知子の「Scene」シリーズからの写真5点、「コレスポンデンス―友への手紙」シリーズからの6点の組写真を紹介。「1:傷ついた風景―75年目を迎える広島と長崎」では、藤岡亜弥の広島を撮った「川はゆく」シリーズから写真20点と、森淳一の長崎の原爆に纏わる彫刻《山影》や《black drop-l》、油彩画《金比羅山1》など計7点で構成。「2:「庭」という風景―作家の死を超えて」では、若林奮の《緑の森の一角獣座》に関連する絵画、模型、ドローイングなど計31点を展示。「3:風景に生きる小さきもの」は、昆虫の写真・映像を中心に構成された栗林慧・栗林隆父子による空間。「4:傷ついた風景をまなざす、傷ついた身体」では、佐藤雅晴のアニメーション《I touch Dream #1》と《福島尾行》、日高理恵子の樹影を描いた絵画6点、宮永愛子金木犀の葉を用いた大規模な立体作品《景色のはじまり》など2点を紹介。「エピローグ―再生に向かう風景」では、畠山直哉の「untitled (tsunami trees)」シリーズの写真23点を展示。


ヒロシマからフクシマへ、目には見えない放射能通奏低音として冒頭から掉尾まで流れ続ける企画。石内都の「ひろしま」シリーズ、米田知子の《桜―靖国神社、東京》、藤岡亜弥の広島の光景、森淳一の長崎をめぐる作品、栗林隆の福島の光景、佐藤雅晴の《福島尾行》、宮永愛子の提示する3.11後の新しい地図畠山直哉の3.11後の樹木。放射能半減期のように人間のスケールを超えた時間に目を向けた若林奮、逆に無限遠を人間のスケールでつかもうとする日高理恵子

《I touch Dream #1》は、佐藤雅晴が最初期に手がけたモノクロームのアニメーション作品。手法は異なるだろうが、ウィリアム・ケントリッジの作品を思い起こさせる。蝿が手指の爪の下に入り込んで溶け込んでいく様を終盤で表すことで、視覚と聴覚、現実と夢とを一体化させる。アニメーション作品としては絶作となった《福島尾行》は、ヴィデオで撮影した映像にアニメーションが組み合わされたカラー作品。うち捨てられるように置かれたモノへのまなざしや、水平移動のシーンなど、《I touch Dream #1》との共通項に作家性を見る。とりわけ、アニメーション部分が実際にその場にあったものをあえて映像化したものなのか、作者の想像力が生み出したものなのかが曖昧になっている点は、現実と夢との一体化という最初期からの一貫したテーマと言える。そして、脇に設置された自動演奏ピアノが、決してピアノ線を叩くことなく奏でられ、聞かれたはずの音楽への気持ちを駆り立てるように、アニメーション部分によって、存在しないものの存在が否が応でも意識させられる。アニメーションがanima(霊魂)なら、この作品は作者そのものであり、不在の作者の存在を強く感じない訳にはいかない。

日高理恵子《空との距離XIV》に描かれる樹木は、幹や枝はべた塗りに近く、葉も太い葉脈に限って描き込み、シンプルに表されているが、葉のつややかさな印象が伝わってくる。《空との距離XIII》では枝とつぼみがシルエットで表されるが、背景とのコントラストによって、開花を待つ力をため込んでいる樹木の強さが感じられる。

森淳一は、ヴィクトル・I. ストイキツァ『影の歴史』の「太陽の光のもとにできる影は時間の流れのなかの一瞬であり、それ以上でもそれ以下でもないが、夜の影は時間の自然な流れから切り離されていて、進行の流れを止めてしまうのだ。」という言葉を引用し、原爆という夜の影(=人工の光)に言及する。
若林奮は、ゴミ処分場建設に疑問を抱いてトラスト運動に参加して計画したプロジェクト《緑の森の一角獣座》に関して、「彫刻家である私は、ここに、出来るだけ森に近づき、又、そのきっかけとなる様な場所をつくろうと思う。ここで思うことは、個人の様々な体験であり、それは決して一様なものではないのであろう。そして私自身のことでいえば、自然から与えられる不思議さと、おそれを知る場所であると共に、自然のもつ親しさのなかで、静かに休息する場所でもあると思われる。/ここで私は感性を通して、小さいもの、弱いものを知り、それらがこの森の中でも、世の中においても、大切なことであるという基本的な精神を蘇らせることができると、望みを持っているからである。」と述べている。
樹影を描き続けてきた日高理恵子は、「私にとって枝や葉は空間を測量するメルクマール。空という空間にある枝や葉の位置、距離を探ることが手がかりとなって、空という測りしれない存在、距離をリアルに感じることができる。この感覚を常に感じていることが、絵が生まれる計りしれない距離、空間を探ることにつながっている。」というコメントを寄せている。
津波の襲った地域に立つ樹木を撮影した畠山直哉は、サン=テグジュペリ「戦う操縦士」の「知性が説くよりも工事の真実がある。なにかがわれわれの内部をかけめぐり、われわれを導いている。私はいまだそれがなんなのか理解できないまま、ただそれに従っている。樹木は言語など持たない。われわれも樹木のようなものだ。」という文を引用したうえで、樹木に動物同様の姿を見る。