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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『第23回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)』

展覧会『第23回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)』を鑑賞しての備忘録
川崎市岡本太郎美術館において、2020年2月14日~4月12日。

現代社会に鋭いメッセージを突きつける作家を顕彰する」岡本太郎現代芸術賞の第23回目の入選者の発表展。452点の応募から選ばれた23組の作品を展示。

野々上聡人《ラブレター》
3つの壁面に床から天井までびっしりと並べられた絵画。そららに囲まれた中央の空間には、積み重ねられた木彫の山。彫刻群の裏手の壁には、絵画をもとに作成された複数のアニメーションも展示されている。
主に描かれるのは人、その身体、その部位の様々な重なり合いや組み合わせ、動物。衣服を纏わない身体は原始的、あるいは本源的イメージを生む。身体の部位の誇張や断片化、あるいは動物などとの組み合わせは、神話や怪異の世界を立ち上げている。
アニメーションでは、オルフェウスのようにひたすら冥界へと下降する人物、鍵と水没する世界という『不思議の国のアリス』の一場面のような世界などが描かれる。頭部の代わりにナイフを手にした腕を持つ四つ足の動物や、背中の時計に手を伸ばそうとして届かない人物、ひたすら斬首を繰り返す女性の姿なども印象に残る。これらのアニメーションが絵画・彫刻を説き明かすものかは定かではないが、作品の世界に入り込むのに一役買っていることは間違いない。なお、本作品が岡本太郎賞受賞作品。

藤田淑子《Curtain Girls》
マグリットの作品には、顔を花が覆う《世界大戦》や、顔の部分が女性の胴体に置き換わった女性像《陵辱》があるが、作者の描く少女たちは顔の部分がカーテンになっている。作品は三段構成になっていて、上段に赤い服の少女たちの群像を描いたキャンバス、下段に青い服の少女たちの群像を描いたキャンバス、その間の中段には3枚のベニヤ板を層状に重ねた3人の少女の顔が並べられている。
中村宏の作品に見られる、セーラー服の少女たちの群像を想起させる。中村作品に描かれる少女たちはあたかも「クローン」のようにあえて画一化され、不穏な雰囲気を醸し出している。それに対して、作者の描く少女たちは、一人一人の髪型・髪色・服装はもとよりカーテンの形状(=顔の組み合わせ)も区々である。それでも少女たちには中村作品の少女同様、全く個性を感じることはないところに、本作品の凄みがある。かつて色を選ぶことで個性を出そうという旨のケータイのコマーシャルがあり、その発想の空虚さに愕然としたことがあるが、むしろ個性とは配色選択の程度のものでしかないという現実を厳然と突きつけてくる。中段の3人の少女の顔は、髪、カーテン、カーテンという3層から成る。カーテンを裏側に何も存在しないという空虚さを表すものか、逆に人間性とは表面にこそ現れるものだというメッセージなのか。

澤井昌平《Landscape》
4枚の絵画で構成。最も目を引くのが、縦6つ横6つ計36の顔を持つ人物を描いた作品だろう。複数のウェブサイトを通じて世界中の様々な出来事を知る現代人の姿を表す。そして、世界へ向けられた視座が、畳の敷かれた狭い部屋にあることが示されている。お~いお茶(濃い茶)やガルボチョコなど日常的な飲食物の描き込みが、現実感とともに、映像として入ってくる世界との隔絶を強調する。他の作品でも、政治家や作家などの存在と、松屋やガストといったなじみのある外食チェーンとが併存するが(松屋にいたっては領収書も画面に貼りつけられている)、視覚受容器から入ってくる情報(=Landscape)としては、それらが等価である現実を描き出す。テキストの引用(書き込み)もネット検索結果の絵画化のように感じられて興味深かった。なお、本作品は、特別賞受賞作品の1つ。

丸山喬平《幸について》
青木繁《海の幸》に描かれる群像を、単管、木材、鉄、断熱材を剥き出しのままに立体作品として造型した作品。粗いポリゴンで表されたサーフェスモデルのような外観は、用いられている素材から建設中の現場を思わせる。だが、荒々しい表現でありながら、一見して《海の幸》を認識させる技量が素晴らしい。オーギュスト・ロダンの《カレーの市民》のような群像彫刻の醍醐味に加え、平面作品の世界を立体化して見せる面白さがある。また、狩猟は洞窟や銅鐸に表される最古の絵のモティーフである。漁撈と狩猟とはその身体性や手業であることで通底する。彫刻もまた手業である。思えば、「幸」とは「手枷」のことであった。手業に縛られる所以を、彫刻家である作家は探究し続けるのだろう。