可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 森村泰昌『自画像のゆくえ』

本 森村泰昌『自画像のゆくえ』(光文社新書1028/光文社/2019年)を読了しての備忘録

目次
はじめに
「傘がない」、それはいいことだ/ルソー『告白』にさかのぼる/現代版「わたしがたり」のルーツはどこにある/20世紀は写真の世紀だった/21世紀人のためのツアー
第1章 自画像のはじまり~鏡の国の画家~
1.1 描かれた精神
小学校の卒業記念に自画像を描く/東京藝大の膨大な自画像コレクション/将来を予見する自画像/自画像とは「描かれた西洋の精神」である
1.2 鏡の中のわたし~ファン・エイク
《赤いターバンの男》登場/《アルノルフィーニ夫妻の肖像》に、かくされた自画像/絵画とは”鏡”である/意識革命としての鏡
1.3 The自画像~アルブレヒト・デューラー
自画像の青春三部作/若者を力づける自画像/合わせ鏡になる/鏡が生み出した愛/堂々たる自画像の作りかた/”手”はもうひとつの”顔”である
1.4 もうひとつのThe自画像~これはレオナルド・ダ・ヴィンチではない?~
人気度・知名度No.1の顔/ダ・ヴィンチの自画像を再考する/とにかく美形だった/死の間際でも美しかった/結局、何をしたひとだったのか/再評価は19世紀にはいってからのことだった/公式ポートレートはいかにして定着したか/くりかえされる三点セット
第2章 カラヴァッジョ~ナイフが絵筆に変わるとき~
2.1 光と闇
私が知らなかった西洋美術史の画家/テネブリスムの画家たち/日本の美術史から闇が消えるとき
2.2 波瀾万丈の生涯
インディーズから、宗教画家としてメジャーデヴューへ/逮捕、死刑宣告、逃亡、死の旅人
2.3 三つの悪徳
絶対悪/俗悪/邪悪
2.4 カラヴァッジョの自画像
アイドル志向の自画像/《病めるバッカス》になる/《マタイの殉教》を描く/《マタイの召命》のダイナミズム/だれかと似ていないか?/《キリストの捕縛》を描く画家/《聖ヨハネの斬首》と画家の「わたし」をかさねる/《聖ウルスラの殉教》の身の置きどころ/《ダヴィデとゴリアテ》に託されたもの/カラヴァッジョがのこした宿題
第3章 ベラスケス~画家はなぜ絵のなかに登場したのか~
3.1 ゴダールとエリー・フォール
自画像的大作、《ラス・メニーナス》/ベルモンドが朗読する『気狂いピエロ』/ある連想がはたらく/印象派世界の先駆けとしてのベラスケス/正当な絵画の見かたとは?/彼は悲しい世界に生きた
3.2 ハプスブルク家マルガリータ王女
青い血の悲劇/複雑な家系図がたどる道/おろかで堕落した王朝
3.3 リュパグラフォスの画家
文化都市セビーリャ/”汚れた世界”を描くこと/哲学者と道化師の絵を比較する
3.4 カラヴァッジョの宿題
闇を洗う画家/《ブレダの開城》の品格
3.5 ラス・メニーナスを読み解く
その1 リバーシブルの絵画/(1)人間界と天上界/(2)大人たち、そして”子どもの領分”/不思議な細工の秘密/(3)価値の逆遠近法/その2 ベラスケスの超絶技巧/最初は《フェリペ4世の家族》だった/究極のプライベート絵画として描かれた/悲しい世界にささげられたレクイエム
第4章 レンブラント~すべての「わたし」は演技である~
4.1 自画像の画家
だれもが認める自画像の画家
4.2 《夜警》は傑作か?
浮き沈みの多い画家だった/小林秀雄レンブラント論/弟子の証言から考える/《夜警》はレンブラントの傑作ではない/二人のレンブラント/「観察者のレンブラント」を高く評価する/ほんとうの、”レンブラントらしさ”とはなにか/人間は演技する生き物である
4.3 レンブラントの「演技する自画像」
レンブラントの自画像を年代順においかける/1629年の自画像/1631年の自画像/1640年の自画像/ティツィアーノルーベンスとの比較/1635年《放蕩息子の酒宴》/1630年《乞食になった自画像》/1652年・1658年の自画像/1660年の自画像・セウクシスとしての自画像/1669年の自画像
4.4 画家の二重性
レンブラント工房のブランド商品/売れ線のコレクターズアイテム/レンブラントの魅力/死後の評価
第5章 フェルメール~自画像を描かなかった画家について~
5.1 自画像のない画家
デルフトのスフィンクス
5.2 《デルフトの眺望》
シンクロニシティを感じたときのこと/《デルフトの眺望》はなぜ描かれたのか/ファブリティウスの死/こちらとむこうの関係性/《デルフトの眺望》を深読みする
5.3《牛乳を注ぐ女》
《牛乳を注ぐ女》はどんな絵か/メイドのポーズが意味するもの/卓上のパンから見えてくる風景
5.4 フェルメール受容史
脇役から主役へ/周辺的でありつづけた画家/フェルメールプルーストの異常な関係/『失われた時を求めて』は、プルーストの《デルフトの眺望》である/絵画を小説に変奏する世界/ホッブズか、それともスピノザか/フェルメールには、光のしずくがちりばめられている
5.5 フェルメールはどこにいる?
《小路》をめぐるミステリー/フェルメールはどこで描いたのか/《青衣の女》はだれか/《手紙を読む女》からみちびきだせる結論/《レースを編む女》は画家である/子どもを描かなかったわけ/スフィンクスの謎はとけたか
第6章 ゴッホ~ひとつの「わたし」をふたつの命が生きるとき~
6.1 ゴッホの自画像はおもしろくない?
色と形、線に魅了されてそこに止まってしまう/緑の炎があらわれた
6.2 ゴッホの試行錯誤
転職をくりかえす日々/「わたし」が負ったこころの傷/ゴッホがパリで求めたもの
6.3 パリ時代の自画像
”画風”とは、自分の”顔”のことである/”顔”が脱皮していく/1886年早春/1887年早春/1887年春/1887年夏/1887年冬/ゴッホは誤読によってゴッホになれる/《星月夜》を想う/パリ時代最後の自画像
6.4 ゴッホが日本を天才的に誤読する
ゴッホがあこがれたニッポン/みごとな誤読がうみだした日本観/ゴッホが黄色に託すもの/アルルの夢のおわり
6.5 ゴッホはどんな人物だったのか~小林秀雄司馬遼太郎ゴッホ
個性のとしての”狂気”/司馬遼太郎ゴッホ論/狂気の意味を問う/雷と避雷針/ゴッホが見いだした意味
6.6 もうひとりのゴッホ
特異な関係/エピソード1/エピソード2/エピソード3/エピソード4/エピソード5/三人目のゴッホについて/ふたりを重ねあわせる/《星月夜》のもうひとつの題名
第7章 フリーダ・カーロ~つながった眉毛のほんとうの意味~
7.1 日記の人
強い衝撃を受けた絵/日記のはじまり/幻想的な体験を語る/私は革命の申し子/私は分解/空を飛ぶ翼/ディエゴ! ディエゴ!
7.2 女性芸術家が登場する世紀
20世紀にはいって生まれた変化のきざし/メキシコで活躍する女性の芸術家たち/女性が自分自身を写真化するとき
7.3 フリーダの過酷な生涯と自画像
父と母/10代の写真/交通事故の衝撃/はじめての自画像の両義性/フリーダが民族衣装を着る理由/異形性と、わたし革命/さめた目でアメリカ社会を見る/ディエゴの異形性とフリーダの計算力/《ほんのひと刺し》/トロッキーと恋に落ちる/パリでの個展成功と離婚/《二人のフリーダ》/《断髪の自画像》を描く/晩年のフリーダと”生命万歳”/見られることを強く意識し、希求しつづけた芸術家
7.4 フリーダの”眉毛問題2
「フリーダ劇場」と私のわだかまり家系図と太い眉毛の相関図/演出された家系図の謎/華麗なる苦悩のひと
第8章 アンディ・ウォーホル~「シンドレラ」と呼ばれた芸術家~
8.1 アンディ・ウォーホルと自画像
”時代が自画像であった時代”の自画像/「シンデレラ」と「ドラキュラ」がいる
8.2 ウォーホルとは何者だったのか
作品制作の現場感覚から考える/マルセル・デュシャンのウォーホル評/”コンセプト”とはないか/コンセプチュアルな《キャンベルスープ缶》/ほんとうに、「繰り返せば有名になる」のか/世界で最も有名な箱、ブリロ/ウォーホルと抽象表現主義のガチンコ対決
8.3 ”ウォーホラ”から”ウォーホル”への道
生い立ち/「僕はマチスになりたい」/ウォーホルメソッドとしての”グラフィズム”/”リズ”のグラフィズム/失敗した印刷物を活用する方法
8.4 ふたつの「わたし」
《銀の雲》はウォーホルの自画像である?/さまざまなウォーホル像/宗教的生活者/ウォーホルのアートディレクション/表と裏がシンドレラ/ウォーホルとの対話
第9章 さまよえるニッポンの自画像~「わたし」の時代が青春であったとき~
9.1 明治以前のニッポンの自画像
雪舟の自画像/岩佐又兵衛の自画像/葛飾北斎の自画像/日本美術は環境芸術か宗教芸術だった
9.2 戦後教育と日本美術
油絵の具の匂いに魅了される/”邪念”がスランプをひきおこす/「明るいナショナル」と「光る東芝」の時代/日本国民が、交通に持っていた戦後間各/戦後教育の影響/横山大観を知らなかった「わたし」/弥勒菩薩と戦闘機が出会ったとせよ/教育は「わたし」の運命である
9.3 すべては松本竣介からはじまった
夭折の画家たちにひかれる/倉庫で発見したこと/竣介と「わたし」を見くらべる
9.4 考察「青春の自画像」
時代の転換期としての”踊り場”/青木繁萬鉄五郎関根正二/村山槐多/松本竣介/100年単位で考える「普遍妥当性」
9.5 いきてゐる画家と、いまを生きている「わたし」
1988年におこったこと/ぬぐえない疑問の告白/《立てる像》は問いかける
終章 最後の自画像
10.1 自画像と自撮りのあいだ
自画像のとまどい/ずっしりと重かった「わたし」/”自撮り”はここからはじまった/日常化していく自撮りとコスプレ/コスプレイヤーたちの発言に共感する
10.2 不確定性の時代を生きる
”変身願望”のいまとむかし/いまを生きる知恵
10.3 予兆としての”自撮り”
小保方晴子の”御宣託”/「わたし」の未来予想図/未来の人間像のための予行演習/御宣託は、悪魔のささやき
10.4 自画像の時代の終焉
”過去未来”論/踏みはずす自画像/最後の自画像
あとがき
参考文献
作品クレジット

《肖像・ゴッホ》でデヴューして以来セルフポートレートによる写真作品を手がけてきた作者による、自画像を通して語られる美術史。図版多数とは言え、本編だけでも600頁近くある。

政治に対する関心が冷めていく転換期に登場した井上陽水の「傘が無い」を大きな物語から小さな物語へのの象徴として取り上げ、写真(機)におけるそれと同様の変化をプリクラ=自撮りの現代に見る。そして、自画像の歴史を振り返ることで、自画像と自撮りの意味・関係性をとらえることが主題であると宣言される。(はじめに)
自画像は「描かれた西洋の精神」と言える。その端緒は水銀箔の蒸着による鏡の登場した15世紀に求められる。神のみならず人間が自分の存在を確かめることができるようになったからだ。ヤン・ファン・ウェイク、アルブレヒト・デューラーレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像を例に検証していく。(第1章)
健全な精神と肉体を求めたイタリアルネサンスが隠蔽した悪徳を描き出した画家としてカラヴァッジョを取り上げる。彼は徹底した悪の表現でこれまでになく絵画の魅力を引き出すことに成功したが、自ら生みだした悪に引きずり込まれるようにして破滅したと、画面に表された画家の立場の変遷を追うことで説明する。(第2章)
ベラスケスの制作態度を紹介した上で、画家が自らを描き込んだ《ラス・メニーナス》に秘匿したメッセージを読み解く。(第3章)
多くの自画像を残したことで知られるレンブラント。その代表作《夜警》の分析を通じて、現代的とも言える、肖像画家的性格と物語画家的性格との分かちがたさを明らかにする。その上で年代順に自画像を紹介し、演技する画家の姿を浮かび上がらせる。(第4章)
寡作のフェルメールの自画像は残されていない。《絵画芸術》に描かれた後ろ姿の画家がそうであろうという程度だ。だが作者は《牛乳を注ぐ女》にフェルメールの姿は描かれていると大胆な推理を展開する。(第5章)
ゴッホがパリ時代に描いた自画像を追い、さまざまな職業を経てたどり着いた画家としての自己の確立を、その最後に描いた絵筆とパレットを持ち画面に向かう自画像に見出す。そして、それを可能にしたのは、印象派や日本に対する「誤読」であったと主張する。また、ゴッホは弟と二人で一人の存在であったと推測する。(第6章)
幼い頃から病気や事故で生死をさまよったフリーダ・カーロは、自己の存在を記憶してもらおうと、自己演出に腐心し、自らを描き続けると同時に、自らを写真に収めさせた。(第7章)
写真の時代の画家アンディ・ウォーホルは、頭を使うこと(=コンセプト)そのものを、写真に映える形(=グラフィック)で呈示した。《銀の雲》のメタル加工のように様々な姿を映し出しながら、けっして本性を見せることはなかった。(第8章)
戦後教育を受けた筆者が西洋美術に惹かれた必然性、そして西洋美術を生業にする日本人として「時代の踊り場」(=大正~昭和初期)の洋画家たちとの連続性を述べる。とりわけ松本竣介の主張した「普遍妥当性」とは何かを求めて藻掻き続ける、それが作者の自画像=理想像として呈示される。(第9章)
コスプレ的自撮りがつくるイメージに象徴されるように、不確定要素の多い現代に対応するには、新たな技術を用いて自己を更新し続ける必要があるのかもしれない。だが、そのような時代だからこそ、衰え行く肉体や限りある生命を前提とした自画像という表現にこだわりながら、それらが持つ普遍的な価値を未来に繫ぐための努力を続けることを作者が宣言する。(終章)

絵画作品を自己の肖像作品として読み替える(=作り替える)作業を繰り返して作者だけあって、いずれの作品に対する解釈も興味深い。とりわけ、作者が最初に取り組んだ作家であるゴッホ(第6章)や、近年注目が集まっているフェルメール(第5章)についての洞察が素晴らしい。作者は「事実誤認こそが創造行為には必要不可欠な手つづきであり、みごとにゴッホはそれを各所でやりつづけ、そのつみかさねによって自分の画風を確立しえたのだ」(p.349)と記しているが、誤解を恐れずに言えば、そのような解釈がそのまま芸術家Mの自画像となっているのではないか。なぜなら、作者こそ「誤読」によって美術作品の可能性を切り開き、その世界を豊かにしてきたからだ。翻って、「誤読」への誘惑を絶ちがたい作品こそ優れた芸術作品と言えるのかもしれない。また、「誤読」はオルタナティヴの呈示と言い換えられるかもしれない。レンブラントゴッホフリーダ・カーロアンディ・ウォーホルなどの解説に当たって繰り返される二重性の指摘も、オルタナティヴの存在を指摘すると言って良いだろう。

ケータイにカメラ機能が付与されたのは、プリクラを持ち歩くためだった。(p.9)
水銀箔を蒸着させた鏡の登場によってクリアな自己認識が可能になり、神の視座に、人間の視座に加わったことが自画像を誕生させた。(p.48~52)
自画像を鑑賞するとは、自己を描かれた人物と同一視する(対象に一体化)とともに、描かれた人物を自己に同一視する(自己に一体化)ことにもなる。(p.58~60)
絵筆(=手)がカメラ(=眼)のように突き出されている。(カラヴァッジョ《キリストの捕縛》。p.120~121)
置いた「わたし」を断罪する若き日の「わたし」。(《自画像の美術史(ふたりのカラヴァッジョ/ゴリアテを描くダビデ)》。口絵4、9.126-129)
一定の距離を持って見ることを要求する絵画としての《ラス・メニーナス》。(p.175~177)
映画を見るとき、誰が出ているか(=肖像的世界)と何が語られているか(=物語的世界)の両方を合算して評価している。(p.209)
立場の弱い女性が男性=機械=機械を利用して自己実現を図る。(p.399~404)