展覧会『three「three is a magic number 16」』を鑑賞しての備忘録
みんなのギャラリーにて、2020年4月3日~5月16日。
アーティストユニットthreeの、アニメーション・キャラクターのフィギュアを素材とした立体作品を展示。
中央には、高さ1.5メートルほどの、アニメーションに登場するキャラクターのようなプロポーションの、翼を持つ女性の立体肖像《17.7kg》が展示されている。歌川国芳の浮世絵版画《みかけハこハゐがとんだいゝ人だ》や、ジュゼッペ・アルチンボルドの絵画「四大元素」シリーズのように、数多くのアニメーション・キャラクターのフィギュアを組み合わせて1つのキャラクターに造型されている。個々のキャラクターは頭部、下半身、腕などに断片化され、個々のキャラクターの個性は1体のキャラクターを形作るために打ち消されている。また、ダミアン・ハーストの牛の母子《Mother and Child Divided》のように、縦に切断され、その切断面を晒している。重さという数値ををタイトルに冠していることと相俟って、愛玩や崇拝の対象ではなく標本的性格が濃厚となっている。もっとも、生物を成り立たせる器官が現れるハーストの作品とは異なり、そこには溶けたプラスティックがつくるマーブル模様が広がるのみだ。キャラクター=人形(ひとがた)の大量生産・消費は、現代人のメタファーにもなっている。
壁面には、アニメーション・キャラクターのフィギュアを溶かして底面を正方形とする直方体に成型した柱状作品が、アニメーションのシリーズごとにまとめて展示されている。シリーズを構成するキャラクターの数に"bit"を付けて、各作品のタイトルとしている。すなわち、個々のキャラクター=柱体は1単位に還元されているのである。それぞれの柱体の長さは区々で、もとのキャラクターのサイズを表しているのだろう。表面はマーブル状になっているが、特定の色を基調としているものが多く、キャラクターにイメージカラーが付与されていることが分かる。中には黒漆の漆芸のような表面のものもあった。
社会が新型コロナウィルス感染症に直面する中でこの作品を目にすると、「トリアージ社会」について思いを馳せない訳にはいかない。人々は「健康への不安と自己の身体の配慮」から「自分に黒いタグがつけられないように」、「ほかのひとのうしろにまわり込むことによって、集団自体がじわじわと後退していく」。「主体であるという名目で隷属させられる」統計上の数値へと還元され」、「社会全体が、おずおずと人影に紛れ込もうとするおとなしい匿名の人々の群れ」と化すのだ。この点、本作品には、最上部にキャラクターの顔の部分が来るようになっており、アニメーション・キャラクターに特有の大きな目などが見られる。そこに「数値になり得ない異例のもの」、自分の生き方を追求する主体性の希求を看取できないだろうか。
ところで、最近では、大災害、大事故が起こると、「トリアージ」といって、けが人に、緑、黄、赤、黒のタグがつけられ、医師たちがそれを参照しながら治療にあたるおうになっている。その由来は、臨床医学の元祖、18世紀末の野戦病院である。黒をつけられたひとは、より多くのひとの命を救うために、まだ生きているのに処置をされず、死んでいくに任せられる。(略)
現場においてだけ考えるなら、やむを得ないということもあるだろう。しかし、社会全体において、一人ひとりの生命の価値よりも人口という社会全体の「生命の数」が重視されることで予防医学が発展してきた。いうなれば「社会的トリアージ」が、もっと広く政治や経済の場面でも、正義の基準になっているといえるかもしれない。障害者や高齢者や非正規社員といった、放置されてもやむを得ないとされるひとたちの群れ。
これを、いわゆる人権の問題と混同してはならない。「このひと」の問題ではなく、生命の数の問題なのだからである。
(略)
とはいえ、こうした場合(引用者註:5人を救うためにやむを得ず1人を犠牲にするような場合)、ほかのひとより死に近いひと(死んでも仕方ないとされるひと)が存在し得るにしても、何をもって死に向かいつつあるとするかは意見が分かれるであろう。また、どんな場合についてもトリアージ的な基準が存在するかどうかも疑問であろう。しかしながら、それに先立つ本当の問題は、「どうすることが正しいか」ではなく、現実が、つねにそれほど明確な状況ではないということである。真に倫理的な問題は、そのような選択すべき瞬間をいかにして摑むかということである。というのも、現実は、たえざる選択の連続などではない。完全に二者択一の瞬間は、めったに訪れるものではなく、それは(山本常朝が『葉隠』で注意を喚起していたように)いつも早すぎたり遅すぎたりするのである。だれ一人死なすまいとして、気付かなかった5人を死なせてしまい、それ以降はずっと後悔しながら生きていくといったことが起こるのが「生」なのである。
ところがひとびとは、冗長で凡庸な日常に眼を向けて、あたかもひとはつねに選択が可能であり、選択しなければならないかのように錯覚して議論する。そうした議論の机上においては、えてして統計を取りやすい事象ばかりが主題とされる。しかも統計がいずれの選択肢にも数値を与えてくれるのに対し、数値の大きい方(ないし小さい方)を選択することが正しいとされる。それが正しいと理解することは、選択することをやめるということになるのではないだろうか。
(略)
結局、机上の判断に影響を与えるのは、統計の取りやすさなのである。医療の現場ばかりでなく、多様な社会問題の現場においてだれが死に近いかを、あるいはだれを隔離すべきかを、だれをきょうせいすべきかを教えてくれるのは、取りやすい統計である。統計が取りやすいか否かが、諸個人の選択や、さらに正義に関わってきうるとは、何とも不条理なことである。
なるほど、将来はビッグデータの活用法が発展して、すべての事象、すべての行動が統計の対象に入ってくるのもかもしれない。しかし、そうだとしても、数値になり得ない異例のものや、数値を度外視できる特別な瞬間があって、そのなかにこそ、生にとってもっと重要なものが残されているのではないだろうか。(船木亨『現代思想史入門』ちくま新書/2016年/p.115-118)
そのプロセスは、メビウスの輪のようである。表を進んでいくと裏になり、裏を進んでいくと表になる。すなわち、医学は、身体の病気の延長で精神の病気を定義する。臨床医学的知識を受け容れないひとがいれば、それは意見が違うのではなくて病気である。医学が健康と認める精神は、身体を病気と対決する戦場に必要な精神である。病気と闘うための健康な精神を求め、そうではない精神が病気とされる。
この臨床医学的なメビウスの輪に沿って、ひとは何度でもくり返し進まされる。そうすると、ひとは最初は自由な理性的主体であったとしても、そのうちに、「人間」という名目でありながら、じわじわと別のタイプの存在者へと、変貌していってしまう。それは、主体でありながら思考することをしない主体である。あるいは思考はするのだが、それは社会で出会う諸問題を忘れるために、健康への不安と自己の身体の配慮へと向かう思考である。
どうしてそのようなことが起こり得るのかと思われるであろうが、それは、あるはずのものが知覚されないとき、(あるいは)あるはずのないものが知覚されるとき、その理由として、ひとは身体に備わる感覚の異常が精神の錯乱かと考えるが、そのように、あるはずの社会的問題を見ないように、――それを「神経症」といっていいいが――、身体と精神の状態をばかり意識するようになることができるのである。
フーコーが教えようとしていたことは、支配と隷属があるのであはなく、すべてのひとが巻き込まれる「主体」の二重の意味があるということである。すなわち、サブジェクトには「隷属」という意味もあるのだが、主体であるという名目で隷属させられるこうしたタイプの政治において、ひとはどうやったら抵抗することが可能なのであろうか。
いつの時代にも健康は大切だったのであるが、今日では、生活のどんな細部でも健康の相関物として捉えられるようになっていて、科学的、医学的な裏付けがないにしても、健康を維持する方向へと、ひとびとが殺到するようになっている。
こうして、ひとびとは、自分に黒いタグがつけられないようにと、つねにほかのひとの背後に隠れようとするのだが、そうしはひとがつぎつぎとまたほかのひとのうしろにまわり込むことによって、集団自体がじわじわと後退していくさまが、いたるところで見受けられる。やがては、社会全体が、おずおずと人影に紛れ込もうとするおとなしい匿名の人々の群れとして、かつての古い体制へと、それがどんない息苦しい時代だったかは知られていても、知らず巻き戻されていってしまう、ということはないだろうか。(船木亨『現代思想史入門』ちくま新書/2016年/p.125-127)