可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 内藤亜澄個展

展覧会『内藤亜澄展』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿にて、2020年6月1日~13日。

内藤亜澄の絵画展。

《美しき肉体》は、椅子に座った半裸の男性が周囲の空間とともに溶け出していくような様が描かれてる。人物と椅子以外で具体的な像を結んでいるのは、背後にかかる束ねられたカーテンくらい。それ以外は不定形の様々な色彩が人物の足下に広がる。椅子やカーテンの存在からは室内のようであるが、床も壁も天井もなく、宇宙を思わせる空間が広がり、遠くに星のような色彩が輝く。室内にいながらインターネットを通じてどこへでもアクセスできてしまう状況を描いたものとも、人間がデータへと還元されていく様を描いているものとも解しうる。いずれにせよ、人間が身体という一過性の形象であるがゆえに、そこに刹那の美が宿ることを訴えているようだ。

 それに、クリプキの議論にパトナムが付け加えて言っているように、わたしが、わたしを構成している素粒子に等しいということは、どのみちありえません。もし素粒子に等しいのであれば、わたしは生まれる以前から――今とは違った仕方で宇宙のなかに散乱していたにしても――存在していたことになってしまいます。今現在わたしを構成している素粒子は、わたしが存在する以前にも、すでに――今現在とは違ったものを構成することで――存在していたはずだからです。というわけで、もし素粒子に等しいのであれば、わたしは生まれる以前から存在していたことになってしまいます。したがって、わたしたちは自らの身体と論理的に等しいというわけではありません。もちろん、だからといって、わたしたちは身体なしで存在することができるということではありません。クリプキとパトナムの議論が明らかにしているのは、わたしたちが素粒子と論理的に等しいとは言えないということ、それゆえ存在論的に宇宙には還元できない対象が少なからず存在するということにほかなりません。唯物論的一元論が間違っているのは、わたしたちによってほかでもなくそれとして名指されているさまざまな対象のなかには、当の対象の物質的な実在性から厳密に区別されなければならないもの(たとえば人格としてのわたしたち自身)が、少なからず存在するからなのです。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩訳〕『なぜ世界は存在しないのか』講談社〔選書メチエ〕/2018年/p.162)