可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中野由紀子個展『あのときは散歩をしていた』

展覧会『中野由紀子展「あのときは散歩をしていた」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2020年6月22日~27日。

中野由紀子の絵画展。複数の層(レイヤー)を重ねて表された風景画の展示。

《雑草の生えた空き地》は、画面下半分には濃い緑による木々の表現。樹影は太い輪郭線で単純化して表される。絵具が滴るような表現は雨の表現だろう。その右側には白で描かれた雑草が繁茂する様子が重ねられる。だが何より目を奪うのは、画面上部中央やや左手に、にぎり寿司のシャリを隠す大きなマグロの赤身のようにだらりと垂れる朱色の存在。まくらやふとんを描いた(タイトルにある)作品が他に存在するので、まくらかふとんなのかもしれない。この朱色の存在の背後にはうっすらと湯船のような立体が描かれ、視線を右に移すと、ネットフェンスの網目のようなものが大小描かれている。改めて、樹木の中に波板のようなものが描かれているのにも気が付く。
《ごみネットと蘇鉄、枯れた枝と少しの雨》では、うっすらとけむる山影、その前にごみネットの表現だろうもやっとした朱色の広がり、白く描かれた蘇鉄の葉やネットフェンス、さらに手前には刈り込まれた樹木の姿がシンプルかつ力強い線で描かれる。ジョージア・オキーフが、沙漠と違い湿度の高い日本の郊外で、イラストレーターやフォトショップを使う生活をしたら、このような絵を描いただろうか。
「まくら」は落語など物語の導入でもある。ここでは、作者の絵画への「インターフェース」として機能する。複数のフェイス=レイヤーへと鑑賞者を接続するのだ。「ネット」フェンスの網目を抜けて、現実と夢(あるいは仮想空間)、現在と過去とを行き来する。イメージとして、現実、夢、液晶画面に違いは無い。遠くに屹立する山の稜線は、この世界の境界であり、想像力の限界を象徴する。剪定された樹木は、この世界に飼い慣らされた「わたし」の姿だ。だが、「あのときは散歩をしていた」との「未完了過去」の展示タイトルは、空想へのエネルギーを充填して止まない。強い風に晒される(逆境にある)ときこそ、霧が晴れて、山の姿が露わになる。ふとんは風に呷られて、それに乗る「わたし」ともども山のあなたへと越えていく。