可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 青木美紅個展『zoe』

展覧会『青木美紅初個展「zoe」』を鑑賞しての備忘録
BLOCK HOUSEにて、2020年6月21日~27日。

18歳のとき、母への何気ない質問から、自らが長い不妊治療の末に人工授精で生まれたことを知り、以後「人の手が加えられた生命」をテーマに活動している青木美紅の個展。本展では、人工授精のリサーチの過程で知った18世紀英国の外科医で博物学者のジョン・ハンター(1728-1793)をフィーチャーし、彼に関するミュージアムを起ち上げた。

 ハンターはのちに、この実験〔引用者註:カイコの人工授精の実験〕結果を不妊夫婦に試すことにした。この夫には尿道下裂という先天的な異常があった。尿道口がペニスの先端ではなく下面にあるため、妻を妊娠させることができないでいたのだ。ハンターは夫婦に普通に性交して妻を性的に刺激しておいて、夫の精液を温めた注射器に集め、妻のヴァギナに注入するよう勧めた。夫婦にはすぐに赤ちゃんができた。この症例は記録に残る史上初の人工授精であるが、詳細はハンターの死後、義理の弟エヴァラード・ホームにより王立協会に報告された。(ウェンディ・ムーア〔矢野真千子〕『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』河出書房新社河出文庫〕/2013年/p.234-235)

ジョン・ハンターは、ロバート・スティーヴンソンの『ジギル博士とハイド氏』やヒュー・ロフティングの『ドリトル先生』のモデルとも目される人物。10歳上の兄で高名な産科医であるィリアム・ハンターの解剖助手として解剖医・外科医としての経歴をスタートさせた。駆け出しの時代から、軍医としてヨーロッパ大陸の戦地に従軍した期間や、歯科医院に勤務した時期なども含め、常にあらゆる標本の蒐集に心血を注ぎ続けた。遂に1788年、ロンドンはレスター・スクエアの自宅の別棟に開設した博物館の公開に踏み切った。アルコール漬けの動物や人間の器官、骨、病理標本、動物の剥製など、その時点でのコレクション総数は1万4千点に達していたという(ムーア・前掲書p.386-389)。古代ギリシャ時代以来、岩石から植物、動物、人間を経て神へという階梯を成しているという「存在の鎖」という考え方が支配的であったが、ハンターは化石や変異種の存在を手がかりに、主へ変異可能で少しずつ別の物に発展するという考え方を温めていたという(ムーア・前掲書p.396-401)。

(略)これらはジョン・ハンターの人生がどんなものであったかをあらわしていた。さらに言えば、生き物とはそもそも何かというテーマをあらわしたものでもある。ハンターいわく、これは当時の素人コレクターがよくやるような名品珍品のでたらめな陳列ではなく、地球上の生き物の根本原則を説明するために慎重に配列をした教材だということだった。(ウェンディ・ムーア〔矢野真千子〕『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』河出書房新社河出文庫〕/2013年/p.392)

本展の第1会場(地下1階)では、ジョン・ハンターのコレクションを展示するハンテリアン博物館(グラスゴー)に取材し、液浸標本や剥製などのジョン・ハンターのコレクションを陳列棚や解説パネルなども含めて布に印刷・刺繍し、ギャラリーの壁面を覆っている。中央のキャビネットの引き出しには作家の取材旅行記が表されるとともに、天板には標本などのぬいぐるみをかざっている。光沢のある糸が、標本や瓶やガラスケースやパネルを、その存在と形とを確かめようと撫でるかのように覆っている。文字通りの「手芸」である。そして、布と糸というそのきらびやかなさと柔らかさとは、標本や剥製が持っていた生々しさを和らげるとともに空間に統一感をもたらしている。コレクション自体がコレクターを表す鏡のような存在である。このインスタレーションでは、赤いスーツに身を包み、机に向かうジョン・ハンターもまた、ぬいぐるみとされ、かつて熱心に標本の作製に勤しんだ本人を標本にしてしまっている。ジョン・ハンターのコレクションあるいは思想という種が作家に胚胎して生まれたインスタレーションであることが強調されるのだ。
第2会場(4階)では、瀉血の場面を連続的に表した立体アニメーションとともに、DNAの二重らせん構造を床屋のサイン風に表現した立体作品が展示されている。医学の祖とされる古代ギリシャヒポクラテス以来、血液・粘液・黒胆汁・黄胆汁の不均衡が病気の原因だとする「四体液説」が定説とされ、ジョン・ハンターの時代にも未だ瀉血や浣腸などにより体液のバランスを回復させるのが定番の治療だった。そして、かつて床屋は瀉血を担っていたため、回転する看板は包帯と血とを表すという(ムーア・前掲書p.49-51)。なお、棺のような箱の中にジョン・ハンターの別荘の外観を表した作品なども展示されている。

あのとき〔引用者註:コイ、ヤマネ、ヒキガエル、ヘビを用いた冷凍蘇生実験の試み〕まで私は、人間を極寒状態で凍らせれば命を長引かせることができるのではないかと想像していた。解凍されるまで、すべての機能も消耗も時間を止めると思っていたのだ。ある人間が残り十年をふつうに生きるのをあきらめて、忘却と不動の世界に入ることを選ぶなら、その人間は千年生きることができるかもしれない。百年ごとに解凍して、その間に起こったことを学ぶのもいいかもしれない。この方法を確立できたら、私は大金持ちになれるだろう、と。まあ、はかない夢だったということだ。(ウェンディ・ムーア〔矢野真千子〕『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』河出書房新社河出文庫〕/2013年/p.199-200)

たとえ「想像」とは違うとしても、200年以上経って「解凍」を極東の地で果たしたことに、泉下のジョン・ハンターは喜んでいることだろう。そして、この純粋贈与にこそ、主体が能動的に関与できない命である「ゾーエ」が明快に示されているのである。