展覧会『長田奈緒「大したことではない(なにか)」』を鑑賞しての備忘録
Maki Fine Artsにて、2020年7月11日~8月2日。
サイズ違いのamazonの段ボール箱がいくつか床に置かれている。ガムテープを剥がした跡があり開梱済みのものだろう。壁面には何が貼られていたのだろう。4隅のテープがちぎれた紙とともにいくつか残されている。実はこれらは実物に似せて木板やアクリル板に印刷(シルクスクリーン)された作品だ。この他にも会場に展示されるのは、折れたスーパーのチラシ、あずきバーの個包装とスティック、開封のための"pull"や"abrir"(スペイン語表記のある製品とは何なのか?)表記のビニール断片などを忠実にシルクスクリーンで再現したものだ。
例えば、展示作品の一つである、「おもてなし」との記載のあるおしぼりのビニール袋について考えてみよう。おしぼりはビニールの袋に入れられて手元に届き、袋はおしぼりを使うために破られて捨てられる。宇宙空間の目的地に向かうロケット本体がおしぼりなら、途中で切り離される燃料ブースターが袋だろう。本展タイトルは英語"trivial"の訳語から採用されたというが、この語の語源(tri=3、via=道)には「三叉路」がある。来し方をともにしながら、行く末は別となるおしぼりは「三叉路的」すなわち"trivial"だろう。
ところで、「写真は光と時間の化石である」という。黎明期の写真が遺体を撮影していたことは象徴的だ。写真に先行する絵画や版画もまた、それが肖像画であろうが風景画であろうが、ある瞬間のイメージを永遠に留めようとして制作されたものではなかったか。それゆえ、描かれた(あるいは撮影された)イメージは、実物("life"!)から切り離されたブースターであろう。おしぼりの入れられていた袋とは、すなわち絵画・版画・写真といったイメージそのものの象徴であったのだ。それでは、失われた実物=lifeは何処に。4隅に残されたテープによって、その不在が浮き彫りにされることで、逆説的にその存在を体感せしめるのだ。4隅のテープは召喚のための魔法円であった。改めて展覧会タイトルを見てみよう。「(なにか)」と、魔法円"( )"の中に「なにか=実物=life」が召喚されているではないか。