可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『ドレス・コード? 着る人たちのゲーム』

展覧会『ドレス・コード? 着る人たちのゲーム』を鑑賞しての備忘録
東京オペラシティ アートギャラリーにて、2020年7月4日~8月30日。

ファッションブランドの作品を中心としつつ、美術作品などを取り混ぜた展観。13の掟(code)を鑑賞者に投げかけることで、衣服ないしファッションについて考えさせる企画。

00. 裸で外を歩いてはいけない?
冒頭は、色とりどりの古着の山を前にしたヴィーナスの石膏像、ミケランジェロ・ピストレット《ぼろきれのビーナス》[001]。衣服の山はファストファッションに代表される大量生産・大量消費社会の揶揄であり(この点につき、丸山敬太は、コロナ禍を機に年に何度も新作を発表する過剰な新作供給体制が変わりつつあることを指摘していた。毎日新聞2020年8月17日夕刊2面)、また、大量の衣服を前にした人物が裸であるのは、選択肢が多くなるとかえって選択が不可能となる事態「選択のパラドクス」を表すのかもしれない。さらに、美術作品におけるヌードに、ファッションによる時代の刻印を免れ普遍性を獲得しようとの意図も透けて見える。

01. 高貴なふるまいをしなければならない?
18世紀末のフランスのドレス[003]とスーツ[002]の実物と、それを着用した漫画のキャラクターを描いたイラスト[004]を展示。古い雑誌のイラストレーションに、特定の人物をイメージした刺繍を施したアナクロニスムのユーモアのある「News From Nowhere」シリーズ[005]の展示も。

02. 組織のルールを守らなければならない?
スーツを着用したマネキンの縦列と横列。1体ずつずべてが異なるデザインの服を着用しているが、スーツで統一されているため一体感がある。列の奥の可動壁は全面に鏡が張られ、スーツのマネキンの隊列が増殖している。大衆ないし群衆の中に個人は埋没していく。デザインの相違による個性の主張も、社会の歯車として組み込まれることを前提とした、せいぜいコップの中の嵐に過ぎないのかもしれない。70年代以降の日本の青春映画における学生服をポスターでたどる試みも[027]。

03. 働かざる者、着るべからず?
元はブルーカラーの仕事着の代表格であるデニムを使用した服を紹介。ジュンヤ ワタナベ コム デ ギャルソン〔渡辺淳弥〕のデニムによるアシンメトリーなドレス[033]が印象深い。

04. 生き残りをかけて闘わなければならない?
迷彩服とトレンチコートという戦争から生まれた服がどのように変容させられているか、実例を紹介。迷彩服の威力、すなわち風景に紛れる力は、街中で迷彩服を来た作者のセルフポートレートである、薛大勇《私はこうして見つかった》でよく示されていた(『第22回写真「1_WALL」展』)。だが、クリスチャン・ディオールジョン・ガリアーノ〕の迷彩服のイヴニングドレス[045]は、裾に深いスリットの入ったセクシーさが人の目を惹き付け、標的となってしまうであろう(標的にした方がやられてしまっているのではあるが)。

05. 見極める眼を持たねばならない?
ファッションブランドの「ブランド」とはもともと焼印を意味するという。家畜などを他人の所有物と区別する目印だったのだ。ブランドを表すロゴは、ブランドの成長とともにその意味や価値を増大させる。ファションブランドではないが、SMAPのデヴュー10周年キャンペーンにおいて、メディアや都市空間にSmapというロゴを展開させた佐藤可士和アートディレクションは典型例だろう。アイドルをロゴという顔の見えない記号に封印してしまいながら、それがゆえに拡散に成功した。

06. 教養は身につけなければならない?
近年ファッションブランドが美術館でコレクションを発表するのは、美術館の持つ作品の価値創出機能に期待してのこと。ジェフ・クーンズを起用したルイ・ヴィトンバックパックやバッグ[057]では、キャンバス地に《モナ・リザ》や《睡蓮》を引用するとともに"DA VINCH"や"MONET"といったブランドロゴのように付しているが、「芸術史的価値という信用」を取り込もうとする試みであった。コム デ ギャルソン〔川久保玲〕によるアルチンボルド[058]や高橋真琴[059](本展のメインヴィジュアル)を引用したドレスは確かにインパクトがあるが、それよりも、雪村を引用した銀と黒とを基調としたドレス[060]の袖と裾との膨らんだ形状に対して、股下丈がほぼゼロにして脚を露出させる表現のセクシーさに目が行ってしまった。

07. 服は意志をもって選ばなければならない?
解説のパネルには、クリスチャン・ディオール〔マリア・グラツィア・キウリ〕の"WE SHOULD ALL BE FEMINISTS"とプリントされたTシャツ[068]。 石内都が撮影したフリーダ・カーロの遺品の写真[071]や森村泰昌マリリン・モンローに扮したセルフ・ポートレイト[072]なども展示されている。

08. 他人の眼を気にしなければならない?
ハンス・エイケルブームの考現学的写真《フォト・ノート》[084]。ある場所で一定時間撮影した通行人の姿を捉えた写真を、共通するファッション・アイテムごとに括り出して並べている。一人一人の顔や体つきは異なるにも拘わらず、「同種」の存在に見えてくるのが興味深い。

09. 大人の言うことを聞いてはいけない?
血統や伝統を担ってきたタータン・チェックと、マーロン・ブロンドが映画でアウトローの象徴としてのイメージを付与したライダースジャケットとを紹介。タータンチェックが雪に埋もれるようなリトゥンアフターワーズ〔山縣良和〕のコートとパンツ[095]や、ジュンヤ ワタナベ コム デ ギャルソン×マリメッコ渡辺淳弥〕のライダースジャケットマリメッコの花柄のデザインのスカートの取り合わせ[105]などが印象に残る。

10. 誰もがファッショナブルである?
コリドールの壁面には、都築響一が取材・撮影した個性的なファッションの人々の姿が紹介されている[098]。蛍光色の緑の「異色肌」の女性のインパクトが強い(豊かな胸の深い谷間に吸引されているせいもあるが)。攻めたファッションの人物と普段の姿との対比を見せる作品も興味深かった。メインストリームのファッションが豊かになる土壌として、アングラ(?)のファッションの活況ないし多様性)が必要だろう。

11. ファッションは終わりのないゲームである?
12. 与えよ、さらば与えられん?
11、12は4階展示室で紹介。

 〔引用者補記:ジャン・ボードリヤールの〕意味作用に関して、三つの段階は次のように理解できる。はじめに、模倣の段階ではシニフィアンシニフィエが直接結びついている。前近代を特徴付ける模倣の段階では、衣服は明確に社会的地位を表す。それらは曖昧さを伴わず「モノの秩序」を意味した。たとえば、中世における衣服は、より精巧で高価な衣服をエリートだけが身につけられるようにすることで社会的秩序を再創造した。二つ目の生産の段階では、シニフィアンシニフィエは間接的に結びつく。機械化や都市化に見られる技術的・社会的発展は、生地の大量生産を可能にし、それらはあらゆる階級にとって同時に手に入るものとなった。この発展は、衣服の意味を特定のシニフィエへの必然的な結びつきから切り離し、意味に対する闘争への道を開いた。たとえば、高級な素材や染め布は、かつて選ばれた者だけが手に入るものだったが、それが大衆の手に入るようになり、安価な中古生地屋は高級なヴィンテージ・ショップの代わりの役割を担った。都市の発展は、コスモポリタン的な生活における匿名化の嗜好を後押しした。コスモポリタン的都市というのは、身体的外見の意味が不確かな世界である。したがって、人々が自称している通りであるかどうかを証明させることが重要となった。身分の差別化の新システムは新たな展開と足取りを揃えて発展したボードリヤールの用語で言うならば、「製品(product)」から「モノ(object)」への移行は、「差異の任意のコードに従って[…]使用価値が交換価値へと変換されるプロセス」である。ボードリヤールはここで消費される商品が有用性から象徴的意味へ移行したと述べる。元来、実用的価値(使用価値)の機能として評価され享受されていた商品は、交換価値(象徴的あるいは感情的意味)を通じて評価されることになった。
 三つ目はシミュレーションの段階で、そこえはシニフィアンシニフィアンが結びつく、つまり、記号が表すモノ(シニフィエ)から切り離された記号(シニフィアン)同士が結びつくこととなる。これらの結びつきは、記号ゲームに有利になるように意味作用を作り変えてしまう。模倣と生産の両段階において、シニフィアンはそこに横たわる意味を示しており、その意味は、あらかじめそこにあるか構築されたものであった。一方、シミュレーションの段階では、衣服はどんな伝統的社会階級にも無関係で、完全に自己言及的なものとなる。それは今日の私たちが、「ファッションの目的はファッションそのものだ」というポストモダンの原則に繋がっている。ボードリヤールのシミュレーションあるいはポストモダニズムの分析は、コード化された類似と差異に基づき、表象に関する対応理論の概念を問題にする。ファッションは、現実の外に言及先を持たないので、異なる秩序を読み取ることとなる。それはすなわち、コードを永久的に再解釈し直し続けることを意味する。
 ボードリヤールはファッションを、象徴的意味を記号化する純粋に言及的な機能から、意味の周縁を表す純粋に自己言及的な機能への移行だとみなしている。彼の分析では、シミュレーションは意味にとってかわる。つまり、ファッションは遊戯的なスペクタクルであり、外見のカーニヴァルである。それらの伝統的意味の記号をファッションは空にする。たとえば、ファッションデザインに宗教的象徴(たとえば十字架)や、民族的象徴(たとえばクーフィーヤ)、あるいは国家的象徴(たとえば国旗)が使われたとき、それらが本来持っている意味は無に帰される。その代わり、それらの美的性質に対するフェティシズムが生まれる。ボードリヤールにとって、参照先である現実の歴史が消滅することは、意味作用の周縁を意味する空虚な記号だけが残るということを意味した。(エフラト・ツェーロン〔大久保美紀〕「ジャン・ボードリヤール 意味の周縁としてのポストモダンファッション」、アニェス・ロカモラ&アネケ・スメリク編〔蘆田裕史監訳〕『ファッションと哲学 16人の思想家から学ぶファッション論入門』フィルムアート社/2018年/p.340-343)


衣服に付されたタグをイメージしたキャプションも興味深い。