可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 西澤知美個展『The skin you are now in』

展覧会『西澤知美「The skin you are now in」』を鑑賞しての備忘録
アートフロントギャラリーにて、2020年7月31日~8月30日。

美容と医療との境界の曖昧さを呈示する作品で構成される、西澤知美の個展。

アートフロントギャラリーは、代官山交差点の四叉路に面した壁面ガラス張りの展示室を持っている。その展示室には、注射器の先がリップグロスになっている《Lip Gloss》、鉗子の先がビューラーになっている《Eyelash Curler》、医療メスの先がパウダーブラシになっている《Powder Brush》が、それぞれ白い台座に載せられ、三角形を成すように配されている。いずれの作品も、ステンレスの輝きが医療器具としての鋭利な冷酷さを示しているが、先端部分は化粧道具であって穴を空けたり切り裂いたりすることはない。それは美容目的の手術への抵抗感が薄くなっている現実を象徴していようし、そのような現実を生み出すために医療が仮面を纏っていることの告発とも解しうる。また、いずれの作品も、一般的な日本の女性の背丈ほどの高さがあり、三美神(女性像)への見立てとも解しうるが、むしろ美容・医療器具を巨大化によって土工機へと変じさせ、顔面や体形に対する土木工事(基礎からの改変)が行われていることを揶揄する諧謔がある。

 いまのひとびとには、健康のためにみずから進んで隷属しようとする思考があり、それを促すための膨大な情報が流されている。厚生権力は、行動ばかりでなく特定の思考を促進して、自由で平等であるはずのひとびとをいいなりにしようとしている。
 ひとは、たとえば散歩をしたら体がだるくなる、食事をしたら体が熱くなるが、だからといって、自分は病気かもしれないとは思わないだろう。それに加え、金子みすゞの詩『わたしと小鳥と鈴と』のように、速く走りたいとか鈴のような声で歌いたいと思うとき、体のことは忘れ、行動は他の生物や事物に連結して、ひとはそのようなものとしての体を自在に動かそうとするものなのではないだろう。
 しかし、それがうまくいかないときがある。そのようなとき、それは病気、〈わたし〉の器官に何か問題があるということなのだろうか――医師たちは、確かにそのように考えることを強要する。器官の変調は、とれすば、あたかも〈わたし〉の希望を罰しているかのようである。希望をもつのはよくないことなのか――医師の指導のもとに薬を飲んだり養生したりすることは、したがって、わたしの希望が捨てさせられるということなのである。
 なるほどわれわれは病気になると困るし、長生きをしたいと思うものだから、医師のいうことの、本当はどこまで正しいか分からないし、医学がわたしのこの身体にたいした感心をもっていないということも知っているのだが、しかし厚生権力には抵抗しがたい。健康だけを考える生活はおかしいと思っても、何かの徴候があって、いざ病気ではないかとなると、ほとんどだれも抵抗することができないであろう。
 喫煙も肥満も運動不足も、一定割合のひとに深刻な状態をもたらすのは確かである。それは統計学的に正しい。だが、だからこそ逆に、統計学的には、一定割合のひとは、それにもかかわらず健康であり続け、あるいはほかのことが原因で死ぬのである。「裏は真ならず」、喫煙も肥満も運動不足も、それを解消すればするほど健康になるというわけではない。しかも、予防医学においては、ワクチン接種が一定割合のひとに副作用をもたらしたり、X線透視が一定割合のひとにガンをひき起こしたりするという。このことを、どう考えればよいのであろうか。
 あるひとたちの初期のガンを切除させるために、自分も毎年のようにX線検査を受け、それがもとで自分がガンになる確率を高めていく、しかも自分についてはしばしば末期ガンでしか発見されないというのは、一体どのような取引なのであろうか。喫煙しているひとが、肺ガンで死ぬ確率よりその他の原因で死ぬ確率の方が高いのにもかかわらず、好きな喫煙をやめてしまうというのは、一体どのような取引なのであろうか。似たようなことだと思うのだが、風呂で水死する確率が高齢者は高いからといって、かれらが風呂に入るのを禁じるべきだと、はたしてわれわれは考えるだろうか。(船木亨『現代思想史入門』筑摩書房ちくま新書〕/2016年/p.92-94)

健康と同様に抗いがたいのが「美しさ」だろう。日々「美しさ」が示されることで「美しさ」を求めるよう仕向けられる。逆に、写真の加工や「ルッキズム」という言葉の登場の背景には、美しくないことへの不安がある。だが「美しさ」という普遍的な価値があるとして、その表れは画一的なものになるのであろうか。
本展のタイトルは、ペドロ・アルモドバル監督の映画『私が、生きる肌(La piel que habito)』(2011)を髣髴とさせる(英題は、原題を直訳した"The Skin I Live In"である)。