可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 横野奈々・髙柳あおい二人展『切れ切れの愛』

展覧会『往復書簡vol.3 切れ切れの愛 横野奈々×髙柳あおい展』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2020年8月31日~9月5日。

横野奈々と髙柳あおいの絵画展。

横野奈々の《君は私を見ていたよね、私も君を見ていたよ》は、真昼の強い日差しが差し込むベランダのある部屋の窓際で首を絞められてのたうち回る裸の男性を鉛筆により表したモノクロームの絵画。誰のものだが分からない首を締め上げる腕、男性の失われた右腕、どこから伸びているか分からない脚、光の中で中途から姿を消す物干し竿、サッシに対して存在が定かでないガラス窓。写実的に描かれながらどこか曖昧で不分明なモティーフの数々。それに対して、男性の苦しげな表情と逞しい胸は、逆光によって陰になることもなく、はっきりとその姿を晒し、描かれることのない迸る汗やうめき声までがじっとりと伝わってくるのである。窓外の山ないし森が象徴する周囲との隔絶、物干し竿にかけられた洗濯物が示す生活感、男性の腕の不在や脚の自由を奪われている様、締め上げられた首、閉じられた目などから勘案すると、時子と須永癈中尉とが「まるで地獄の絵みたいにもつれ合っている」離れ家(江戸川乱歩「芋虫」同『江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣』光文社〔光文社文庫〕/2005年/p.689)をこの絵画に見るのも強ち見当外れとも言えまい。《チューリップの球根がどんなものだったか、まだ覚えてる》や《ここは僕の放課後から何歩進んだ場所なのだろう》といった他の作品と共通するのは、身体の一部が描かれていない(=空白)という点である。空白(=不在)が対象の存在を意識させ、その空白を埋めたいという意識が、対象に対する強い執着を呼び覚ます。

髙柳あおいの《Flower No.1》は、橙色を背景に花を2輪を描いた比較的大きな画面(1.3×1.6m)の油彩画。色い花はおそらくチューリップで(もう一輪は不明)、チューリップに特徴的な根元から上向かって伸びる大きな緑色の葉が3枚、2輪の花をはさむようにあしらわれている。中央の葉に口と鼻とが表されることで、花が目に、茎が目から流れ落ちる涙となり、また左右の葉は髪となって顔の輪郭を形作る。巨大な泣き顔が立ち現れる。《Flower No.4》では、青い小さな花が右目の瞳を、ゴクラクチョウカのようなオレンジ色の花が左目となっていて、これらの花=目から滴り落ちるように描かれた線が、やはり泣き顔を表現している。《Flower No.2》、《Flower No.3》においても、花(植物)のモティーフによって顔が表されている。類似したものの集まり(constellation)の中の断片と断片とをつなぎ、新たな意味を付与する。それは、星と星とをつなぎ合わせて何かの似姿とする星座(constellation)に類する、世界(=他者)を理解したいという想像力であり、世界(=他者)に対する愛着である。