可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『New New New Normal』

展覧会『New New New Normal』を鑑賞しての備忘録
GALLERY MoMo Projectsにて、2020年9月5日~10月3日。

みょうじなまえ、山本れいら、半田颯哉によるグループ展(キュレーションは半田颯哉)。

みょうじなまえ
美術館の土産物売場の形式を利用したインスタレーション。ギャラリーの一角に「OUR BODIES」展という架空の展覧会のミュージアムショップを開設している。壁面には、エドゥアール・マネ(Édouard Manet/1832-1883)の《草上の昼食(Le Déjeuner sur l'herbe)》(1862-1863)、ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet/1819-1877)の《世界の起源(L'Origine du monde)》(1866)、アンリ・マティス(Henri Matisse/1869-1954)の《ダンスⅠ(La Danse I)》(1909)の額装されたポスターが掛けられ(ポスター自体のサイズ及び原画の縮小率は区々であるが、そこにも意図はあったのだろうか)、その脇には同じ図柄をプリントしたマグカップやTシャツ、トートバッグを並べたコーナーが設けられている。但し、それぞれの作品で裸体を曝していた人物には衣装が描き加えられている。《草上の昼食》(《OUR BODIES/The Luncheon on the Grass》)では画面手前、女性の脇に置かれた花籠とともに置かれた衣服の色から青い衣装が選択され、服をまとった女性にそれほど違和感がない。《ダンスⅠ》(《OUR BODIES/DANCEⅠ》)では、5人が身につけるコスチュームはいずれも異なり、鮮やかな色彩の花柄や幾何学模様のワンピースやレギンスとチューブトップなどだが、作品の色遣い・世界観と調和させている手腕は見事と言うほか無い。それに対し、《世界の起源》(《OUR BODIES/The Origin ofthe World》)のモデルは乳房は露出されたままである(なお、このポスターが最も原画のサイズに近い)。横縞のアンダーウェアはクールベの筆致と異なり、作品の制作された時代のデザインとも異なるために「穿かせている」(描き足している)という印象が強い。下腹部を性器を含めて描き出している作品の衝撃を「加工後」にも残響させる意図があるのだろうか。また、横縞は、ヨーロッパ中世においては異端のシンボル(社会秩序の違反)であった。

 (略)図像においても街頭においても、こうして縞模様の衣装ないし品物によって頻繁に指示されるのは、なんらかの理由で社会秩序の外部におかれたあらゆる者たちなのである。その理由は、断罪(文書偽造罪、偽金作り、誓い破り、罪人)や障害(ハンセン氏病患者、賤民、知恵遅れ、狂人)であるとか、低級な仕事(召使い、下女)か不名誉な職業(旅芸人、売春婦、死刑執行人に加えて、悪魔的と見なされた鍛冶屋、残忍な肉屋、買い溜めをして飢饉の元凶になる粉屋という三種の嫌われた職業がしばしば図像では結びつけられている)に従事しているとか、キリスト教徒ではない、あるいはキリスト教徒をやめた(イスラム教徒、ユダヤ人、異端)とかいったものであった。これらの者たちがいずれも社会秩序に反するのは、色彩と衣装を縞模様が攪乱するのと同断なのである。(ミシェル・パストゥロー〔松村剛・松村恵理〕『縞模様の歴史 悪魔の布』白水社白水Uブックス〕/2004年/p.26)

縞模様は、現代においては危険(それを取り締まる権威という別種の危険も)の警告として機能する(ミシェル・パストゥロー〔松村剛・松村恵理〕『縞模様の歴史 悪魔の布』白水社白水Uブックス〕/2004年/p.114参照)。下着における縞模様は衛生的な役割も担っている。

 (略)今でもなお、われわれは縞のシャツや下着を着て、縞の洗面タオルや手拭きを使い、縞のシーツに眠っている。マットレスの布地自体、いまだに縞模様である。われわれの身体にふれるこれらパステルの縞模様は、単に身体を汚さないという配慮に呼応しているだけなく、身体を保護する役目をもつとまで考えるべきだろうか。身体を不潔と汚染あるいは外敵から守るだけでなく、われわれ自身の欲望、抗し難い不純願望から守ると見なすべきであろうか。そうだとすれば、監禁された患者と徒刑囚に関して先に述べた柵・フィルターとしての縞模様がここにもあるだろう。(ミシェル・パストゥロー〔松村剛・松村恵理〕『縞模様の歴史 悪魔の布』白水社白水Uブックス〕/2004年/p.90)

女性器は女性の象徴であるから、それを下着で覆い隠す《OUR BODIES/The Origin ofthe World》は、「元始、女性は実に太陽であった。」(平塚らいてう)を経由して、天岩戸隠れのメタファーとも解しうる。それならば、加筆部分をシールやマグネットにして剥がせるようにすることもありえたかもしれない。女性=女性器が太陽であるとすれば、天岩戸を開く行為(=dis+cover)は性器を白日の下に晒すことであり、女性器自体の猥褻性の否定となる。

ポスターの傍に置かれた台の上には、三島由紀夫の作品からの引用や髪の房を巻き付けた手鏡とともに、ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez/1599-1660)の《鏡のヴィーナス(Venus del espejo)》(1647-1651)の図版が置かれている。ベラスケスはマネが鑑(手本)とした作家であり、ベラスケスの鏡をめぐる連想に誘う。だが、注目すべきは、この図版のヴィーナスの身体に縫合が施されている点である。1914年に婦人参政権論者のメアリー・リチャードソンによって損壊された事件を念頭に、その「修復」を表現しているのである。マスメディアによって作られた「男たちと敵対するフェミニズム」や「攻撃的でいつでも怒っているフェミニズム」といったイメージから距離をとる、近時の「感じのいいフェミニズム」へのシンパシーが表明された作品であると言えよう(「感じのいいフェミニズム」については、田中東子「感じのいいフェミニズム? ポピュラーなものをめぐる、わたしたちの両義性」『現代思想』2020年3月臨時増刊号/第48巻第4号/p.26-33を参照)。

山本れいら
《This is not fantasy》は皮膚に痛々しい赤い線が幾筋も入った絵画作品。映画『シン・ゴジラ』(2016)に登場する第二形態のゴジラの鰓を想起させるインパクトがある。《It is history》や《This is what the girl couldn't speak and the man couldn't see》とともに、妊婦の腹部に現れた肉割れをモティーフにした作品群となっている。日本において妊婦のヌードがメディアを賑わすようになったのは、「妊活」という言葉の登場が象徴する、団塊ジュニア前後の世代が妊娠を切実な問題として意識するようになった時期(ゼロ年代後半)に重なるという(小林美香「マタニティ・フォトをめぐる四半世紀―メディアのなかの妊婦像」山崎明子・藤木直実編著『〈妊婦〉アート論 孕む身体を奪取する』青弓社/2018年/p.45参照)。それに先行するのがアメリカにおけるセレブリティのマタニティ・フォトであった。

 このようなグラマラスなマタニティ・フォトの先駆けであり、アイコンとして位置づけられているのが、アメリカ版「VANITY FAIR」1991年8月号の表紙を飾った女優のデミ・ムーアの写真である。(略)撮影当時は妊娠7ヵ月だった(出産と雑誌刊行時期が重なっている)。(略)表紙では、全裸のデミ・ムーアは正面に対して横向きの状態で立ち、振り向くようにして書具面に顔を向け、上のほうに視線を向けている。右の手と腕で胸を隠し、左手で膨らんだお腹を下から支えるようなポーズをして、腹部が両腕によって全身のなかから区切られている。ライティングによって顔とお腹のカーブ、左腕の輪郭が強調され、左耳のイヤリングと右手の中指にはめた指輪の大きなダイアモンドが際立たされている。
 このように、全身のポーズやライティング、宝飾品の位置、顔の表情など、入念に演出を施したうえで、妊娠した身体を誇らしげにさらけ出したデミ・ムーアの写真に対して、生命を宿した女性の自信に満ちた美しい姿として称賛する声が寄せられる一方で、妊婦がヌードを公表するのはきわめて猥褻な行為だと非難する声も上がり、抗議の投書も多数寄せられた。アメリカ国内のほどんとの地域では、書店やニューススタンドの店頭では表紙に紙を被せて、ビニール袋に入れることでデミ・ムーアの身体が隠れるような形で、つまりポルノ誌と同じような扱い方で販売された。当時女性向けの雑誌でも、同程度に肌を露出した女性の写真が表紙を飾ることは決して珍しくはなかったということに鑑みると、ヌードだから猥褻として受け止められたのではなく、妊娠した女性が身体をさらけ出すことが前例のない衝撃的なこととして受け止められた、と考えていい。このような反応のあり方は、妊娠して大きくお腹が膨らんだ姿を、通常の容姿からは「逸脱した、異様な姿」として捉える見方が支配的だったということの証しでもある。(略)
 (略)
 デミ・ムーアの「グラマラスな妊婦像」は、妊婦を性的に表現することをタブー視する見方が支配的だった時代にセンセーションを巻き起こし、その後雑誌の表紙に掲載されるマタニティ・フォトは、胸を隠して膨らんだお腹を見せるポーズとともに定着し、著名人のゴシップや活動のプロモーション(ブリトニー・スピアーズ)や産後のシェイプアップ(シンディ・クロフォード)、高齢出産(モニカ・ベルッチ)といった読者の関心事と結びつけられて公表され、受容されている。(小林美香「マタニティ・フォトをめぐる四半世紀―メディアのなかの妊婦像」山崎明子・藤木直実編著『〈妊婦〉アート論 孕む身体を奪取する』青弓社/2018年/p.53-54, p.60)

山本れいらはメディアで消費されるフォトジェニックな妊婦ヌードに異議申し立てをするように、妊婦の身体が被る過酷な変容を突きつける。さらに、《the myth of maternal body》や《My womb as his reproduction system》といった妊婦ヌードの絵画では、"THE BOURGEOIS SEES IN HIS WIFE A MERE INSTRUMENT OF PRODUCTION"という文字が画面に引用され、女性の身体の収奪を批判する。

半田颯哉
鏡にラッカースプレーで赤い円を描き、その下に"Ceci n'est pas indépendant."と描いた《これは独立ではない》など、"Ceci n'est pas~"のシリーズ全9作品は、パイプの絵の下に"Ceci n'est pas une pipe."と描き込んだ、ルネ・マグリット (René Magritte/1898-1967)の絵画《イメージの裏切り(La trahison des images)》の、日本をテーマにしたパロディである。山本れいらの《This is not fantasy》と共振する作品とも言える。神棚にキリスト教を連想させる物を飾り付けた《多神教》や、洋装のセットに《白人男性コスプレセット》と名付けた作品など、日本人の西洋かぶれを揶揄する作品もある。そして、《EAST ASIAN》によって、どんなに西洋風を装おうとも、東アジアの人間としてしか認識されない現実を突きつける。