可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『描かれたプール、日焼けあとがついた』

展覧会『都美セレクション グループ展 2020 描かれたプール、日焼けあとがついた』を鑑賞しての備忘録
東京都美術館〔ギャラリーA〕にて、2020年9月11日~30日。

松本玲子と齋藤春佳を発起人に、大木裕之、長田奈緒、高石晃、冨井大裕が参加した「日焼け派」による展覧会。

 

齋藤春佳
《line 2》は、光沢のあるグレ―のリボンに、ボールペンに複数のモティーフを描き込んだ、映画のフィルムのような作品。吹き抜けの会場の上層にある見張り台のような場所から会場の垂らされ、床で蜷局を巻くように積み重なっている。「線」という一次元をタイトルに冠しながら、画面(二次元)を持つ。否、一定以上の距離をとれば描かれた図像は眼に入らず、むしろリボンによる立体作品(三次元)と見えるだろう。あるいは、接近して映写フィルムのように図像を追えば時間を表す四次元の作品とも評し得る。
《火の輪郭(火に輪郭はない)》は、輪郭という境界の問題を扱う。そして、壁から床へと垂らす形で展示することで、垂直と水平との接続、掛ける行為と置く行為との連続によって、形式的にも境界の問題を示す。同様の形式(屏風型)で制作された《夢で見たうなぎいぬ/人が見たウナギイヌの話》は掛け軸として掲示することで、本来絵画として存在するのではない屏風形式の自立や屈曲といった調度としての性格を再認識させる。

 

松本玲子
《スペース》は、展示室の角に2つの壁面に跨がるようL字型に配された画面。それぞれデニムのようなインディゴとIKB寄りの青で塗られている。作品は1メートル強くらいの位置に設置されている。そのことを意識させるのが、右側(IKB)の画面の最下部に取り付けられた大雑把に削った角材に描かれた犬。この犬が宙に浮いていることを観る者は意識せざるを得ない。そして、壁に掛けられる(高い位置で固定される)ことで位置エネルギーが作品に秘められ、作品が力を発揮していることに気が付くのだ。
《Hole》は、オレンジ、グレー、濃淡3色のライトブルーのレイヤーを、大きいものの上に小さいものを重ねていったもの。切り抜きや黒く塗りつぶした部分に「穴」を見てしまう。だが、タイトルは、"Holes"ではなく"Hole"である。作品全体(Whole)が1つの穴(Hole)と見なくてはfoolになってしまう。大木裕之の《南養寺》や「無 意識」といった貼り紙が傍に掲示されるために、公案に思えてしまう。

 

長田奈緒
《Handkerchief(日焼け派のための)》はアクリルに刷ったレースのハンカチーフと、シルクスクリーンの原版(?)とから構成されるインスタレーション。レースのハンカチーフの版画作品は精巧であるため(精巧であれば精巧であるほど)、展示空間でなければ落とし物と思われてしまうだろう。だが展示室に設置されることで、また、シルクスクリーンの原版(?)とともに呈示されることで、作品だと認識される。リアルなヌードは注目を集める一方で、リアルなハンカチーフに注目が集まらないとすれば、それはなぜか。人物や風景を作品にすることと、ハンカチやおしぼりの入ったビニール袋を作品にすることに、芸術性に差異は存在するのだろうか。芸術作品のモティーフとなり得るものとなり得ないものとの間にある境界を思う。

 

冨井大裕
《斜めの彫刻》は、段ボールを切り抜き、折り曲げることで、「彫刻」として呈示した小品群。シンプルな描画を施すことで、平面作品としての可能性を呈示しつつ、折り曲げることで文字通り立体作品を起ち上げようとした。斜めにするのは、立ち上がる過程、すなわち平面から立体への変容そのものを表現するためであろう。木材や波板、箒などを用いて制作された《斜めの彫刻(SM)》や《斜めの彫刻(SS)》では、《斜めの彫刻》を一種のマケットとするかのように、その規模を拡大してみせることで、より「彫刻」としての性格、モニュメント性が強調される。ところが、これらの2作品にはキャスターが取り付けられている。「移動可能」、すなわち撤去可能なのだ。作品の価値や意味は時代変化に伴い変容する。だが記念碑として公共空間に設置された彫刻は、不動の存在である。BLMの状況下で、モニュメントが世界各地で撤去されていく中、彫刻は逃走機能を予め組ん込んで置かなければならないと示唆する。キャスターによって「摩擦」力を最小化するのだ。