可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 川田龍個展『Self-portrait』

展覧会『川田龍「Self-portrait」』を鑑賞しての備忘録
Bambinart Galleryにて、2020年9月26日~10月11日。

自画像のみで構成される川田龍の個展。

《Self-portrait(Judith)》では、ユディトに切断されたホロフェルネスの首に作家自らの顔を投映している。クリストファノ・アッローリ(Cristofano Allori)が《ホロフェルネスの頭を持つユディト(Giuditta con la testa di Oloferne)》において、斬首されたホロフェルネスの頭部を自画像とした先例(ユディトのモデルは画家の愛人だという。三浦篤「西洋絵画と自画像 そのタイプと歴史について」三浦篤篇『自画像の美術史』東京大学出版会/2003年/p.6参照。クンニリングスの美術史に加えても良い作品だ)に倣ったのであろうか。だが、作者は切断された頭部しか描いていない。ティツィアーノ(Tiziano)の《洗礼者ヨハネの首を持つサロメ(Salomè con la testa del Battista)》の系譜に連なる、皿に載せられた首だ。しかも、その容貌は、ホロフェルネスやヨハネのような髭面ではなく、女性のように美しい。作者が美貌であるがゆえにホロフェルネスの顔も変容したのであろうか。その可能性は否定できない。しかし、《Self-portrait(Judith)》というタイトルからすれば、切断されたのはユディトの頭部ではないか。頭部を切断する役割を担うはずのユディトが、自らの頭部を切り落として見せる。モデルを画面に定着させることが、モデルに対しある種の「死」をもたらすことと解するなら、作者が自らを画布に定着させること、すなわち自画像のメタファーと言えるだろう。
《Self-portrait(The Dead Christ with Angels)》はタイトルからすれば、キリストの亡骸に扮した自画像ということになる。エドゥアール・マネ(Édouard Manet)の《死せるキリストと天使たち(Le Christ mort et les anges)》の変奏であろうか。マネの作品と比較した場合、キリストの頭部が描かれず、腰布が外され、天使の姿が見えない。手のひらに打たれた釘(の跡)は白いシガレットへと変じているようだ。性器とタバコというモティーフからは情交を重ねた後の一服と解することも可能だろう。そこにも擬似的とは言え「死」を迎えた後の姿があるからだ。
他の作品(自画像)が特定のイメージを下敷きにしているのかどうかは定かでは無い。だが先の2作品のテーマである死を共有しているかもしれない。なぜなら、いずれも白い絵具が顔面を覆っており、死者の顔を石膏で型取りするデスマスクや、磔刑に向かうキリストに汗を拭うよう渡されたヴェロニカのヴェール(キリストの顔が残された「聖顔布」となる)を連想させるからだ
ところで、自画像は、自己(の身体)を他者として描くものである。自画像を可能にする「自己を俯瞰する眼」こそ、実は自己そのものだ。

 人は原初的な母子関係において、母の眼から見た自分を発見し、それを受け入れる。言語は、母が子の身になって唱えた言葉を反復することによって個体的に発生するが、それは他者であるもの――つまり母から見た子――を自分として引き受けるということである。言葉を反復することは、他者になることなのだ。他者にならなければ自己にはなれない。そしてこの入れ替えにあたって人は、他者と自分を同時に俯瞰する眼を習得する、身につけてしまう。
 こうして人は、つねに、自己を俯瞰する眼とともにあるということになる。というより、自己とは、自己の身体などではない、この自己を俯瞰する眼のことなのだ。(略)
 (略)
 自己を俯瞰する眼にとって、自己の身体がまるで他者のように感じられることはいうまでもない。自己をはっきりと意識したとき、人は、自己の身体を与えられたものと感じる。なぜ自分は背が低いのだろうとか、もっと美人だったらよかったのにとか、考えてしまう。自分とはこの距離のことなのだ。(略)
 (略)
 中原中也が、「自分といふものは目がさめたらゐたんですからね」と、ある座談会で述べている。おそらく中也の口癖だっただろうこの言葉は、ここに述べた人間というものの出来方をじつに実感的に捉えている。(略)
 この実感から、少なからぬ人間が――中也もそのひとりだが――神へと向かうことは指摘するまでもない。俯瞰する眼は、簡単にいえば、死なないからである。作図能力〔引用者註:言語現象の不可欠の前提となる、自他を一望するために脳中に俯瞰図を作成する能力〕も、ひとつの機能なのだから、死ぬことはない。中也の言葉を用いれば、「目がさめたらゐた」その自分に気づく自分なるものは、要するに実体などではないひとつの仕組――道元に倣えばひとつの機関――なのであって、いわば永遠に属しているのである。
 それを、たとえばブランショにならって、死に属するといってもいい。
 私という現象は初めから死に属しているのである。
三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.423-424)

自画像とは、まさに自己を、すなわちを死をイメージさせる行為だ。自画像と死とはそもそも分かちがたく結びついているのである。