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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『ポーラ ミュージアム アネックス展2020―真正と発気―』

展覧会『ポーラ ミュージアム アネックス展2020―真正と発気―』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2020年9月26日~10月11日。

「ポーラ ミュージアム アネックス展」は、公益財団法人ポーラ美術振興財団の「若手芸術家の在外研修に対する助成」を受けた作家による在外研修の成果発表のための展覧会。「真正と発気」と銘打った2020年前期展では、太田泰友(ドイツ)、寺嶋綾香(ドイツ)、半澤友美(アメリカ、メキシコ、カナダ)の3名の作家を紹介。

太田泰友の作品について
作家は本に着目して制作を行っている。芸術において「美しい家」に次いで重要な産物は「美しい書物」であるという『理想の書物』のウィリアム・モリスの言葉を引用した上で、本と建築との構造の相似を指摘し、両者がともに宇宙であるとのコメントを寄せている。宇宙が読まれるべき本であることは、長田弘が「本でないものはない。/世界というのは開かれた本で、/その本は見えない言葉で書かれている。」(長田弘「世界は一冊の本」同『長田弘全詩集』みすず書房/2015年/p.325)と謳う通りだ。

「Book Para-Site」と題されたシリーズは、椅子やソファやテーブル、あるいは花瓶や食器など、身近なものに本というオブジェを組み合わせたもの。椅子の背が本の背となったり(《Book Para-Site 4 Chair 1》)、テーブルの天板の一部が本の表紙となったり(《Book Para-Site 6 Table 1》)することで、家具に本が「寄生(parasite)」する。もっとも、タイトルは"Para"と"Site"をハイフンで繫いでおり、「寄生」に限らない意図が示されている。例えば《Book Para-Site 17 Cutlery》では、本がナイフやスプーンを支える役割を担っており、補助(para)のねらい(sight)が窺える。《Book Para-Site 9 Box》では、直方体の箱の上部の穴から飛び出す開かれた本はティッシュペーパーとそっくり(para)の光景(sight)を生み出す。《Book Para-Site 15 Vase》では本の形態が消失し(本を超越=para)、器の表面に言葉の引用(cite)があるばかりだ。いずれの本のページも無地=空白(space)のままにされているのは、本を宇宙(spece)と捉えていることの表白である。もっとも、無地が空虚(empty)を表すのならば、むしろ什器に配された書物に「死を忘るなかれ(memento mori)」という警句を読み取るべきではなかろうか。「Book Para-Site」は立体作品としてのヴァニタスであった。

 「ヴァニタス」Vanitasと名づけられた、生の虚栄とはかなさを喚起する寓意画は、17世紀なかばまでにはオランダにおいて静物画の1ジャンルとして成立していたと考えられている。たとえば、このジャンルの確立者の一人であったデルフトの画家ハルメン・ステーンウェイクのよく知られた作品《ヴァニタスの静物》(1640、ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)には、テーブルの上に人生の虚栄や生命のはかなさを暗示する典型的な事物が所狭しと並べられている。貝殻や日本刀(富のはかなさ)、リュートやリコーダーなどの楽器(刹那的な快楽)、懐中時計や消えかけたランプ(時間の有限性)、そして何冊かの古びたモロッコ革の書物(現世の知の空しさ)、そしてとどめに、正面を向いた頭蓋骨である。ほかにも花や果実などの過渡的で朽ちてゆくもの、宝石や金貨などの富と虚栄の象徴、残り少ない砂を落とす砂時計といったものが、ヴァニタス画の典型的な素材であった。港を玄関口にしたオランダの当時の海外交易による経済発展を背景に考えると、人目を惹くさまざまな商品や物資の豪奢な氾濫がこの時期の社会の特徴であった。ヴァニタスはこうした豊かな商品経済を背景に、それを素材として生まれたジャンルであるにちがいなく、その豪奢の象徴であるはずの事物が、「ヴァニタス」というある意味で正反対の意味をもった「はかなさ」として寓意されたパラドクスについても、注意が払われねばならない。この観点からいえば、書物という表象は、それじたい書物以上の何か、すなわち知恵という美質であり、同時に知識という虚栄でもあるものを、二律背反のような多義的なやり方であらわしていたことになる。
 そもそも「ヴァニタス」(ラテン語の発音では「ウァニタス」)の名の由来が、聖書という「書物のなかの書物」にあらわれる箴言に由来することには注意しておくべきだろう。それは旧約聖書のなかの「コヘレトの言葉」(「伝道の書」とも訳される)の冒頭に現れる、つぎのラテン語の一節にもとづいている。

 vanitas vanitatum dixit Ecclesiastes vanitas vanitatum omniavanitas (……)

 コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。(……)
 わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。(……)いつかは行かなければならないあの陰府には仕事も企ても、知恵も、知識も、もうないのだ(「コヘレトの言葉」『旧訳聖書』新共同訳)

 「ウァニタス、ウァニタートゥム」すあわち「空のなかの空」。この言葉ではじまる「コヘレトの言葉」は旧約聖書のなかでも、その哲学的な厭世主義と決定論とによって異彩を放つ文書であった。そこには宗教や民族性の違いを超えて人間が共有しうる、人生の空しさへの問いや、諸行無常をめぐる悟りのような思想が箴言とともに語られていた。近代西欧の静物画が、非聖書的ともいえる哲学的な「コヘレトの言葉」を源泉として歴史的に彫琢されてきた語「ヴァニタス」を借り受けたのは、まさに西洋絵画がこの時、中世以降の厳格な宗教画の勢力圏から離脱して、近代人の世俗的な想像力に向かって飛び出そうとしていたことを見事に示す出来事だったともいえるかもしれない。「コヘレトの言葉」にはこんな一節も含まれている。

 書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。(同前)

 こうした箴言は、「ヴァニタス」と呼ばれる寓意画のなかに書物がもっとも重要な素材の一つとして登場する革新的な理由をすでに仄めかしていたというべきだろう。そして17世紀半ばのアムステルダムで活躍したワレラント・ヴァイラントのメゾチントの技法によるシンプルな作品《ヴァニタス/静物》〔引用者補記:1625-1629、アムステルダム国立美術館蔵〕こそ、一冊の書物の上に載った頭蓋骨という究極の二者だけを描き、その傍らにいままさに燃え尽きて煙をあげるランプを置いて死を強烈に暗示する、鮮烈で究極的なヴァニタス画といわねばならない。この作品にける書物は、ヴァニタスの語源が示すように、書物のなかの書物、もっとも聖なる至高の書物である聖書から抽出された、「書物」という存在の本質をイメージとして示している。そしてその究極の書物ですら、いやそれがすべての書物の影を背負う至高の書物であるからこそ、それは死という宿命を免れないのであった。はかなさへの感覚は、すでに聖書の示す宗教的な絶対性の枠組みを超えて、人間の世俗的な感情に侵入してた。その意味で、ヴァニタス画において破れ、朽ち果ててゆく書物とは、すべて聖書の形代(身代わり)であった、と大胆に言うことも可能かもしれない。
(今福龍太『書物変身譚』新潮社/2014年/p.101-104)

先に一部を紹介した、「世界は一冊の本」という詩において、長田弘は「200億光年のなかの小さな星。/どんなことでもない。生きるとは、/考えることができるということだ。」(長田弘「世界は一冊の本」同『長田弘全詩集』みすず書房/2015年/p.326)と述べている。本という死の中に、生を見つめているのだ。同様の試みを、今福龍太も行っている。

 「スティル・ライフ」Still Life(=静物画)とは、たしかに「動かない、静止した生命」として死を深く暗示する。歴史的にも、また象徴的にも、書物がヴァニタスとしての死を寓意する静物画のなかのもっとも重要な構成物であることを免れることはないのかもしれない。もはや動かない、生命の鼓動を打つこともない"Still Life"。だがこの不穏で決定的な2語の間に1つのコンマをはさむことで、1つの機知として、書物の新たな生を奪い返すことはできないだろうか。"Still, Life"――すなわち「にもかかわらず、生を」という静かな叫びである。
(今福龍太『書物変身譚』新潮社/2014年/p.110)