可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 田中義樹個展『ジョナサンの目の色めっちゃ気になる』

展覧会『田中義樹展「ジョナサンの目の色めっちゃ気になる」』を鑑賞しての備忘録
ガーディアン・ガーデンにて、2020年9月15日~10月17日。

第21回グラフィック「1_WALL」グランプリ受賞者である田中義樹の個展。企画趣旨を記した作家のエッセイを掲載したリーフレット(A4版14頁にわたるが面白く読ませる)が配布されている。タイトル中の「ジョナサン」は、リチャード・バック(Richard Bach)の小説『かもめのジョナサン(Jonathan Livingston Seagull)』からという。「1_WALL」と題したグラフィックと写真の公募展を実施しているガーディアン・ガーデンの母体リクルートの旧ロゴマークは、亀倉雄策による青い正方形に白く抜かれたかもめだった。作家は、その縁もあって、アントン・チェーホフ(Анто́н Че́хов)の戯曲『かもめ(Чайка)』を軸に個展を構想した。会場の床は湖あるいは海または空をイメージさせる青い布が敷かれ、ソフトスカルプチャーのかもめが舞い、ライオンその他の動物の彫刻が設置され、壁にはチェーホフ肖像画などの絵画が掲げられる。会場の奥には『かもめ』の劇中劇が演じられる湖を臨む仮設舞台を模したステージが設置されている。

(トレープレフは彼女の足元にカモメを置く。)
ニーナ:どういうこと?
トレープレフ:今日ぼくは、卑劣にもこのカモメを殺した。きみの足元に置くよ。
ニーナ:どうしたんです?(カモメを拾い上げて、見つめる。)
トレープレフ:(間を置いて)もうすぐぼくもこんなふうに、自分を殺すんだ。
ニーナ:まるで人が変わったみたいね。
トレープレフ:そう、君が別人みたいになってからね。きみは態度をがらりと変えた。ぼくを見る目は冷たいし、ぼくがいると気づまりみたいだし。
ニーナ:このところなんだか怒りっぽいのね。いつもシンボルみたいな表現を使って、わけのわからないことを言って。このカモメだって、シンボルのつもりかもしれませんけれど、ごめんなさい、わたしにはわからない……(カモメをベンチの上に置く。)わたし、頭が悪いから、あなたのことがわからない。
アントン・チェーホフ沼野充義〕『かもめ』集英社集英社文庫〕/2012年/p.65-66)

作家はかもめを草間彌生のソフトスカルプチャーに対するオマージュとして制作している。すなわち、かもめのソフトスカルプチャーは男根の象徴でもある。数多くのかもめ=男根が、恰も暴露療法を行うかのように、会場内に吊され、壁に貼られ、床に転がされている。『かもめのジョナサン』はオスしか登場しないホモソーシャルな世界だという。ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)の『ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)』をはじめとする漂着者文学にその源流が認められるかもしれない。

(略)フロイトのモデルでは、エディプス期の少年が自分のライバルである父親に同一化すると同時に、父親の愛情の対象、すなわち自分のライバルであり、愛の対象でもある自分の母親と同一化するとされていた。とすれば、似たような力学が伝統的なホモソーシャル三角形にも見出されるとも考えられよう。つまり、男性ライバル同士が愛する女性と心理的に同時に同一化することで、彼女をつうじて互いの絆をつくることによって、ライバルにお互いと競争しあわないような主体形成を幻想させることができる。そこでの主体は追うのではなく、追われる主体であって、そうした主体を幻想することで自らの男らしさを危険にさらすことから回避できるのだ。
レベッカウィーバー=ハイタワー〔本橋哲也〕『帝国の島々 漂着者、食人種、征服幻想』法政大学出版局/2020年/p.153)

かもめが男根なら、男根に擬えられるバナナをも表すだろう。壁に貼られたかもめは、マウリツィオ・カテラン(Maurizio Cattelan)が壁にテープで貼り付けたバナナ《Comedian》(なお、チェーホフは『かもめ』を「喜劇」と呼んでいるという。アントン・チェーホフ沼野充義〕『かもめ』集英社集英社文庫〕/2012年/p.162〔訳者解説〕)を経由して、磔刑図(キリスト像)への連想をも誘う。

人間、ライオン、ワシ、ライチョウ、角のはえたシカ、ガチョウ、蜘蛛、水の中に棲む物言わぬ魚、ヒトデ、そして目では見ることのできなかったものたち、すなわち、すべての、すべての、すべての命が、悲しい輪廻を終えて、消え去った……。
アントン・チェーホフ沼野充義〕『かもめ』集英社集英社文庫〕/2012年/p.29)

トレープレフの芝居でニーナが大きな岩の上に座り独白する台詞に、ライオンが登場する。作家は香港で取材したHSBC本社のライオン像を模した立体作品を会場に設置している。「HSBCライオン」はLGBTを象徴するレインボーカラーに塗られたりその塗装を剥がされたり、逃亡犯条例に伴う抗議行動で目玉を赤く塗られたりと、社会の揺れが反映される舞台となっているという。

金井 (略)彫刻は政治的に気に食わないからという以前に、あると壊される。なんでしょうね、立ち上がって目の前にあるものはなぜか壊されてしまう。偶像破壊衝動、偶像恐怖衝動を引き起こすものでもあると思うのです。
小田原 唐突に断言しますが、彫刻は破壊されるときにいちばん輝きますよね。
白川 彫刻だけではなくて、結局すべての美術品はいずれ壊れてしまう。壊れ、やぶれ、燃える。美術市場で絵が高騰するのは、それがいつか壊れてしまうから、あるいは燃えてしまうからです。燃える前にうまく切り抜ければさらに値段が上がる。でも失われるときは一瞬。だから絵画もきっとそのときは輝くのでしょうね。
小田原 彫刻が引き起こす破壊衝動は確かに存在すると思います。それは、公共空間に据えられた彫刻が恒久設置であること、永久にその場にあることが前提となっていることから生じる抑えがたい恐怖であり、抵抗なのかもしれません。
(白川昌生・金井直・小田原のどか「鼎談『彫刻の問題』、その射程」小田原のどか『彫刻 1』トポフィル/2018年/p.289-290)

BLMに関わる動向でも世界各地で公共空間に設置されたモニュメントの扱いが問題となっている。時宜に適った作品となっている。

 逆にいえば、ほとんどの人々はもはや忘れているが、かつて公共彫刻だったものは壊されない限り、そこに公共彫刻のポテンシャルを残しつつ、立ったまま眠っているのである。だから、不特定多数の人々に言葉や儀式を共有させることができれば、たちまち公共彫刻ととして目を覚ます。とはいえ、歴史は不可逆なものである。目を覚ました公共彫刻がかつての公共彫刻と同じものになるとは限らない。(略)
(略)
 人々は確かに忘れやすい。しかし、忘れたからといって頭の中身が空になるわけではない。そこには新しい記憶・観念・経験知が入ってくるわけで、二度と同じような中身にはならない。(略)しかし、違った形の公共彫刻として復活することは有り得る。それがどんなイデオロギーに即したものになるかは、そうなってみるまではわかりはしないが、はっきりと言えることは、公共彫刻はなりがたいということであり、公共彫刻を最終的に作り出すのは製作者ではなく、それを見る人々の態度なのだということである。
(千葉慶「公共彫刻は立ったまま眠っている 神武天皇像・慰霊碑・八紘一宇の塔」小田原のどか『彫刻 1』トポフィル/2018年/p.136-138)

作家は、闘争の舞台となっているライオン像に加え、トラの姿を立体作品に表す(なお、ピンクパンサーらしき立体作品があるのは、作家の「スピンオフ」指向の表れだろう)。

生き物の体は消えうせ塵となり、永遠の物質がそれを石や水や、雲に変えた。一方、すべての生き物の魂は溶け合って一つになった。その世界普遍霊魂こそ、このわたし……わたしなのだ……。アレクサンドル大王の魂も、シーザーの魂も、シェイクスピアの魂も、ナポレオンの魂も、最低の寄生虫の魂も、すべてわたしの中にある。わたしの中で人々の意識は動物たちの本能と溶け合い、わたしは覚えている――すべてを、すべてを、すべてを。そして自分自身の中の命の一つ一つを、わたしは改めて生きるのだ。
アントン・チェーホフ沼野充義〕『かもめ』集英社集英社文庫〕/2012年/p.30)

ヘレン・バンナーマン(Helen Bannerman)の『ちびくろ・サンボ(The Story of Little Black Sambo)』に登場する、溶け合ってバターになるトラたちだ。作家は、子供の頃にトラとライオンとの区別が付かなかったとのエピソード(ないし一種のエクスキューズ)をリーフレットに記しているが、実際には、「溶け合って一つにな」るという、『かもめ』の劇中劇におけるニーナの台詞を踏まえてのものだろう。対立から融和へというメッセージを酌み取るべきである。