展覧会『日比野克彦を保存する』を鑑賞しての備忘録
東京藝術大学大学美術館〔陳列館1階〕にて、2020年11月2日~15日。
日比野克彦のアトリエの入居する建物が解体されるに際して発足したアトリエ保存プロジェクトの活動を紹介。作品(作品、原画・原稿、プロジェクト型の作品)はもとより、スケッチ、画材、作業用什器、その他の物、アトリエ自体、さらには建物やそれが立つ環境に至るまで、作家という「人間の保存を試みる」ことが謳われたプロジェクト。
作品は作品自体で鑑賞されるものなのか、制作者、制作環境も考慮されるべきなのか。例えば作品を「成立」という一時点で捉えようとするならば、背景に関する詳細な情報の把握は厳密な理解を可能にして有用である。また、作品や作家への愛着は、全てを知りたいという欲求を強く後押しする。もっとも、作品の生成原因が厳密に特定されればされるほど、作品の解釈の余地が狭められ、あるいは「正しい解釈」が一義的に硬直化する可能性もないとは言えない。今後、作品と作品や作家に関する膨大なデータがセットで流通するようになれば、なおさらである。無論、エラスムスの船首像が「小豆婆」と伝世されるような事例はあまりに極端としても、作品が様々に享受される可能性は狭まるのではないだろうか。但し、美術家の小林正人は本展に際して行われたインタヴューにおいて「保存による認識や解釈の変化について」次のように答えている。
絵の見方に基準はないんだよ。だから自分が思いもしない、そういうことばっかり生まれてきてるわけだよ。だからそれについて俺はどうこう言うつもりはないし、それが嫌だとかさ、そんなふうに思わない。つまりずっと変化していくわけだよ。人類が生きているかぎり、いつでも新しく生まれ変わってさ。保存するって事はアーティストの脳味噌=正体を研究することを続けられる、って事だ。人の解釈は幾らでも変わる。(小林正人)
本展で資料保存の先行事例として照会されていた瀧口修造や松澤宥の場合、保存が当然視されてしまい、保存の必要性についての議論は生じにくい。その点、日比野克彦は、その作風・作家性から、保存の意義や範囲自体を研究するサンプルとして適切な事例なのかもしれない。記録用の写真をTシャツにするという「保存」の仕方に作家の性格が判然としており興味深い。
人間の保存を試みるというテーマは、意識をコンピューターの中に再現した顚末を描いた映画『トランセンデンス(Transcendence)』(2014)を思わせる。同作に描かれるコンピュータの暴走は、データ至上主義の暗喩でもあろう。