可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『写真新世紀展 2020』

展覧会『写真新世紀 2020年度[第43回]受賞作品展』を鑑賞しての備忘録
東京都写真美術館〔地下1階展示室〕にて、2020年10月17日~11月15日。

新人写真家の登竜門として知られる写真の公募展「写真新世紀」。2020年度[第43回]の応募者2002名から選ばれた優秀賞7名・佳作14名の作品を紹介。2019年度グランプリ受賞者である中村智道の個展「Ants」が併催されている。

後藤理一郎「普遍的世界感」(安村崇により優秀賞に選出)
地下鉄構内の壁に掲げられた路線図とその路線に擬態するかのように貼られたテープ、どうやって入庫したのか分からない車庫の中の自動車、赤いロードコーンを隠すように生い茂る草たち(但し丸見え)など、日常の何気ない景色の中にある少しだけ不思議な事態を掬い取った作品が、複数のモニターに次々と現れては消えていく。作家が擦過する景色の何に感応したのか思いを巡らせることになるだろう。

樋口誠也「some things do not flow in the water」(野村浩により優秀賞に選出。グランプリ受賞)
日本とシンガポールの歴史に関係のある場所で撮影した写真のプリントを浴室の壁に貼る。作家はシャワーを浴びながら、洗剤を塗った手で写真を擦り、シャワーで洗い流す。すると、図像の一部が消えて白くなってしまう。その模様を捉えた映像の隣では、図像の一部が失われた写真を前に、作家が何を撮影したものか思い出しながら解説する様子が映し出される。公園に野生の鶏がいました。首のあたりが茶色い鶏です。鶏は左を向いていました。いや、右を向いていました。複数の写真が紹介された後、最後には白い紙が貼り出された壁が映し出される。「写真は過去の証拠となり得るが、証拠がないからといって事実が消えるわけではない。しかし、証拠がなければ忘れ去られ、上書きされてしまうこともたくさんある。」とのコメントを作家が寄せている。作家の迷いながらの語りに口承の価値や記憶の曖昧さを、あるいは写真を文書(document)と捉えて政治諷刺を見ることもできるだろう。

立川清志楼「写真が写真に近づくとき」(オノデラユキにより優秀賞に選出)
動物や揺れる枝葉をモティーフとした写真(静止画)を連続的に表示することで動画のように見せる。また、動画から取り出されたイメージをフィルムのように静止画として並べて見せる。「写真は時間を止めることで時間を可視化し、時間の日常性を意識化し、時間に対する既成概念を変革させた。写真に現れる静止の世界。流れるべき時間が静止することの違和感、驚き。これこそ写真の本質である」と作家は述べている。常に流れていく時間が静止してしまうという驚きは、写真を見慣れてしまった者が失ってしまった感覚だ。だが、幼い日に興じただろう「だるまさんがころんだ」という遊びの中には、止まるべきでない時間が止まってしまう違和感が組み込まれている。だるま(=達磨大師)は座禅により手足を失った、沈思黙考の象徴でもある。だるまが転ぶとき、感情が動き出す。

 映画は動く写真だが、人間にとっては動く写真すなわち映画のほうが理解しやすく記憶もしやすいのである。映画は写真技術の発展の延長上に生まれた。だが、だからといって、映画が写真より高度であるということにはならない。映画のほうが写真よりも、通常の印象とは違って、いわば初歩的なのだ。写真は解読の対象であり、映画は感情移入の対象である。解読よりは感情移入のほうが簡単なのである。
 凝視黙考はたんなる感情移入よりもはるかに難しい。
 ここから、人間に最初に訪れたのは映画的なものであって、写真的なものではないことが想像される。これを言い換えれば、叙事詩は古く、叙情詩は新しいということになる。物語は古く、詩は新しい。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.432-433)

河津晃平「Room for」(安村崇により佳作に選出)
大学施設内の教室その他の空間を無人の状態で撮影した動画。機械の放つ光や音に空間に蠢く生命力を感じてしまうのは、古道具類に籠もっている精霊を供養したり(宮田登民俗学への招待』筑摩書房ちくま新書〕/1996/p.134)、開発により住処を追われる狐狸が祀ったり(宮田登民俗学への招待』筑摩書房ちくま新書〕/1996/p.170)と、モノや場所に精神的な何かを見出そうとしてきた人間の性であろうか。見えないもの("Room for"の後の書かれざる存在)のための(=for)余地(=Room)がある。

遠山寛人「忘憂」(オノデラユキにより佳作に選出)
場所やモノを真上から撮影したものに流体を動きを重ね合わせたもの。墓地を真上から捉え、流体が霊魂のように見えるシーンがあった。「自身の身体が『自然』であることを確認したい」という意図は、幽霊・妖怪が生み出される人間の心性をなぞるかのようである。

 人が自分の知識を超えるような現象を見聞すれば、ごく自然に「不思議だなあ」という感情をいだく。不思議とは、仏教用語の「不可思議」の略語であり、仏典にある「不可思議七種」という表現が、七不思議というフォークロアの下敷きにある。文献上の所見は13世紀頃の信州諏訪上社の七不思議で、人知を超えた湖水の神事や霊泉、神霊をめぐる内容だった。
 江戸時代に入って、とくに都市生活者の間で、七不思議についていろいろと語り出されているが、とくに江戸に限っていうと、最初にはるか異郷の地に生じた奇事異聞が話題になっている。江戸人が直接にみたわけでなく、いずれも旅人の情報にもとづくものから想像をめぐらしていたらしいが、当時もっとも人口に膾炙していたのが越後七不思議であった。ここには臭水、燃石のような石油、石炭など越後の地下資源に関わる事象が取り上げられており、江戸という現世にとっての異界に人知を超える出来事が生じているのである。
 つづいて甲斐や遠江の七不思議が話題にとなっており、そこには越後よりも空間的に近いが、なお江戸にとっては周縁部にあたる土地柄が選ばれている。
 ところが江戸中期以後に、こうした奇事異聞に属する現象が江戸市内に発生したことは、都市のフォークロアを語るときに見逃せない。
 都内墨田区の本所には、本所七不思議があり、それは置いてけ堀、ばかばやし、送りちょうちん、落葉なき椎、津軽の太古、片葉の芦、消えずのあんどん等であり。これと足立区の千住七不思議はともに、隅田川の水辺近くにあり、置いてけ堀と片葉の葦が共通している。
 かつてその地は池や川の主が祀られている聖域だったのが、都市開発の結果、その一部が妖怪化したといえる。「置いてけ」とよびかける謎の声、片側の葉がはえないという芦は聖痕の一種なのかも知れない。また、ばかばやしというのは、本所の人が夜半に聞くおはやしの音である。
 同じ頃につくられた江戸の山の手の麻布の七不思議には、広尾の送りばやしがある。月の明るい晩、広尾ヶ原を歩くと、おはやしの音が聞こえてくるという。狸ばやしと言われていたが、明治3、40年代まで、このおはやしの音は、市内に聞こえていた。実際、鏡花は金沢の事例をあげ、柳田は東京の例をあげ、お互いが比較し合っている。鏡花は、東京の江東橋や長崎橋を通過する際に、怪音を聞いたことを『陽炎座』の中で記している。今でも狸ばやしならぬ怪音を、雑踏の中から聞き取ることが可能なのかも知れない。(宮田登民俗学への招待』筑摩書房ちくま新書〕/1996/p.163-165)

澤田詩園「Strawman meme」(野村浩により佳作に選出)
店舗の中、地下鉄の駅、駐車場など街のあちらこちらに出没する頭部のない人物たちの肖像。現代の都市空間に現れた妖怪かもしれない。かつて学校の怪談は子供たちを複製装置として拡散されたが(竹村政春『レプリカ 文化と進化の複製博物館』工作舎/2012年/p.124-129)、作品の正方形のフォーマットが象徴するように、現在ではInstagramなどの画像(=meme)で拡散されるのだ。それにしても、彼ら/彼女らの頭は何処に消えたのか。おそらく手に握られたアレの中に答えはあるだろう。

志賀耕太「Hologram and Two switches」(オノデラユキにより佳作に選出)
二人の女性が河原で小さなシーソーに乗っている映像。シーソーの動きに合わせるように映像を傾けられる。踊る女性が映し出される映像を流しているディスプレイ自体がシーソーのように揺れる地主麻衣子の《わたしの友達》を即座に思った。