可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 伊藤隆介個展『Domestic Affairs』

展覧会『伊藤隆介「Domestic Affairs」』を鑑賞しての備忘録
児玉画廊にて、2020年10月17日~11月21日。

ミニチュアモデルとその動く様子を固定カメラでとらえた映像とをインスタレーションとして呈示する伊藤隆介の個展。

ゴーストワールド》(2019)では、スーパーマーケット(あるいはコンビニエンスストア)の白い陳列棚にスナックが並び、その端には店舗に突っ込んできたようなSUVが瓦礫とともに倒れている模型と、その模型が水平移動を繰り返す様子を固定されたカメラがとらえ、その映像が模型に近い展示室の壁面に投影されている。床の土砂、整然とスナックが並ぶ棚、棚から落ちたスナック、夜をイメージさせる青い光、瓦礫、商品が落ちて白い壁面をさらす陳列棚、斜めになったレンジローバーという順に映像に現れる。いったん車まで映し出されると、模型が元の位置に戻るのに合わせ、逆再生のような映像が流れ出す。深夜のスーパーマーケットに自動車が突っ込んだ事故で終わらないのは、映像では判然としないが、車と反対側の土砂の中には白骨遺体があるからだ。そこに長い時間の流れが表されている。大きな災害があり、遺体は朽ちて白骨化しても、買い手のつくことのないスナックのパッケージだけはLEDの照明に照らし出され続ける。
《地球の長い午後》(2017)では、デパートの紙袋が置かれたアパートの玄関があり、ドアが開くと、引っ越し業者の段ボールや雑誌が積み上げられた最初と瓜二つの玄関に出る。扉を開けると、瓦礫が床に落ちているやはりこれまでと似た玄関の中だ。そのドアの先には巨大な植物が生い茂り、その中に埋もれた自動車が放置されている。ここで「逆再生」が始まる。買物袋が大量消費を、引っ越しの段ボールがエクソダスを、瓦礫がカタストロフを、乗り捨てられた車とそれを覆う植物が人類滅亡後の地球の姿を表すのだろう。映像は常に破綻へと一方向に進むが、玄関扉に向かって左手には別の扉が用意されている。他の道を選択することは可能なのだ。
《あの娘はどこへ行った》(2019)では、テーブルの上にスヌーピーの人形と少女漫画雑誌が置かれている。魔法少女の持つステッキのようなものが回転し、辺りには魔法の効果が及んでいくようだ。再び、テーブルの場面に戻る。人形や漫画に夢中になった少女の面影はなく大人の女性になったということか、あるいは、「神隠し」に遭うように少女が行方を眩ませてしまったのだろうか。
これらの3作品では、三脚、脚立、照明、コードなどの機材をはじめ、部材への書き込みなど、ビデオカメラに映らない部分がある意味「露悪的」にミニチュアモデルであることが示され、フィクションであることが強調される。そのことでかえって、世の中に溢れている「現実」の映像群のフィクション性が炙り出される。
展覧会タイトルの「Domestic Affairs」は、上記3作品とは別の系統となる新シリーズ「死者の家」を念頭に置いて名付けられたものだろう。家の模型の中に小型のディスプレイを設置し、その手前に燃え盛る炎を光と水蒸気で表している。《死者の家(茶色の家)》(2020)は2階建ての家の1階にあるリヴィングが火に包まれる中、テレビでサッカー観戦に夢中になっている夫が奥に、焦燥感に駆られて歩き回っている妻が手前にいる。《死者の家(緑の家)》(2020)は2階建ての家の1階にある炎に巻かれたダイニングで夫は立ち尽くし、妻は椅子に仰向けに倒れている。《死者の家(青い家)》(2020)は2階建ての家の燃えている2階の部屋のカウチで夫婦が身体を絡ませるようにして横になっている。コロナ禍で外出の自粛が要請される中、家庭に留まざるを得なかった人々に降りかかった災難(例えば、家庭内暴力)を象徴しているのだろう。家の模型は、地層や樹木の根まで再現された土地の地下部分を含めて作られている。周囲から「切り離された」状況が強調され、渦中の人物が助けを求めることができない様子が表現されている。あるいは、domesticは「家庭内」のみならず「国内」を表すことを思えば、コロナ禍をメタファーとした自国中心主義へのアイロニーを読むこともできよう。ブロック化の行き着く先がどうなったかは歴史が示している通りである。